ぼくの事故は、妻の前世の因果のせい???
ぼくの妻はカンボジアの人だ。ぼくたちが結婚するとき、おそらく彼女の家族は占い師にぼくたちの相性を確認したはずだ。妻によれば、相性を理由に反対の声は特になかったらしい。
そして、結婚式から1年しないうちに、ぼくはルワンダで事故にあい、背骨が折れて下半身麻痺となった。事故前には、ぼくたちはカンボジアの首都プノンペンを拠点にしていたけれど、事故後の治療のためぼくが日本に運ばれてしまったため、事故から数カ月後には妻は自分の仕事を辞めて、日本に来てくれた。それから5年ほど経って、ぼくたちは原状復帰みたいな感じで、プノンペンでの生活を去年(2019年)に再開した。(その後、短期に日本に来た際に、ぼくはコロナ騒動に巻き込まれて、カンボジアへ戻れなくなり、今、ぼくは東京に、妻はプノンペンに、という生活になっているけれど)。
プノンペンは妻の生まれ故郷だ。プノンペンで暮せば、当然、妻は彼女の家族と頻繁にやりとりすることになる。
妻の母(つまりぼくの義母)は、敬虔な仏教徒で、月齢のめぐりで決まっている寺院への参拝は欠かさない。毎日自宅にあつらえた仏壇に向かって、経を唱えながら丁寧に祈る。そんな母親に頼まれて、妻は少し遠くの寺院までのドライバーに駆り出されたりする。そんなとき、寺院で母親と僧とのやりとりが耳に入る。そこでは、ぼくの怪我を引き起こしたぼくたちの前世の“悪事”が話題になるのだそうだ。
もちろん、まずは事故に遭ったぼく自身の前世になにか問題があるらしい。そして、ぼくだけではなく、妻の前世の因果もぼくの怪我に関係している。そんな因果を祓ってもらうために、義母は寺に寄進をし、僧に祈ってもらう。妻も横に座って聖水をふりかけてもらったりするんだろう。
あるいは、親戚たちのちょっとしたお茶飲み話のなかに、ときにぼくの怪我につながったぼくたちの不信心が話題になる。カンボジア語でやり取りされるそんなお茶飲み話に、ぼくは入っていけないけれど、妻にとって、そんな親戚たちのやり取りの場は、身のやりどころのない空間になるらしい。
「前世で良い行いをしたから、助かったんだ」で、いいじゃない
「あなたの前世がよかったから、ぼくは助かったんだ、って言えばいいよ」と妻には伝えている。今度、カンボジアに戻ったら、ぼく自身の言葉で義母や義叔母たちにそう伝えようとも、ぼくは思っている。「あなたが前世で何か悪さをしたから、あなたの夫が障害を負った」と考えるよりも、「あなたが前世でいい行いをしていたから、あなたの夫は死ななくて助かった」のほうが、よっぽど気持ちが前向きになってよろしいと思うんだけれど。
日々繰り返される祈祷の誘い
ぼくに限らず、カンボジアで障害のある人たちに話を聞くと、同様のことが繰り返されているのががよくわかる。ぼくが話を聞いたすべての障害者の家族が、祈祷師を呼びお祓いをし、聖水を購入している。中には、最初の治療が祈祷師だったというひどいケースもある。
藁にもすがる、という気持ちはわからなくもない。けれども障害者自身が「祈祷師に祈ってもらっても、何も変わらないし、お金がもったいない」という心境にたどりついてもなお、障害者の周りには祈祷師や高僧を紹介する人がいくらでもいるし、「今度こそ……」と希望を捨てない家族はそんなことにエネルギーをかける。それでも改善が見られないなら、「よっぽどの不信心を前世にはたらいたに違いない」ということになる。
身に覚えのない前世の不信心を咎められても、さて、障害者たちはどうすればいいのだろう。せいぜい、身を縮めているしか術はないってあたりだろう。
なかには、自分の前世を心から悔いたりしている障害者もいるだろう。でも、悔いたって、祈ったって、何かポジティブな変化はあるだろうか?せめて心の平安にたどりついたりすることが、あるのだろうか。
妻の家族は、ぼくに「祈れ」と言っても無駄なことはよくわかっているみたいだ。もちろん、一緒にいれば、みな親切に気を使ってくれるけれど、でも、一緒に寺に行こうとは言われない。妻は仏教徒だけれど、けして敬虔なというタイプではない。「あなたの前世が悪い」といわれても、それを頭から信じることはないようだ。
それでも、ことあるごとに、自分の前世と夫(ぼく)の障害が結びつけて語られるのを聞くのはかなり辛いことであるらしい。怪我をしちゃって、ほんとうに申し訳ない。
障害はあなたのせいじゃない、んじゃない?
そんな「信心」が日常を満たし、いくらでも祈祷師や高僧が現れるカンボジア。日本ではどうなんだろう。
ぼくの身の周りには、そういう空気は存在しないけれど、おそらく、あるところにきっとあるのだろうと想像する。特に奇異とみなされるわけでもない宗教団体が、障害者の家族に「お祓い」をすすめることは、わりと数多くあるんじゃないだろうか?
お祓いの対象は、前世には限らない。どこかで憑いてしまった悪霊とか、拾ってしまった不運とか、もしかしたらかわいがっていたペットが天国にいけないで迷っているとか、家の玄関の方向が悪いとか、とにかく祓うべき理由を指折り数えるのは、それほどむずかしいことではないのかもしれない。そして、そんな理由にすがるような気持ちになる人たちもいるのだろう。そんな心持ちに陥る人がいても、それを簡単に笑うことはできないようにも思う。
でもね、前世とか、悪霊とか、ぼくの障害とはまったく関係がないと、ぼくは考えている。偶然よ、偶然。もちろん、車の整備がわるかったとか、道が雨で濡れて滑りやすかったとか、事故の「原因」や「理由」はあるのかもしれない。そういう直接の「理由」が明確なこともあるだろう。
防げたならば、それは防げたほうがよかった。けれど、起こっちまったら、もう仕方ない。その結果、ぼくが障害を持ったのも、仕方ない。そして、前世を考えるのなら、「おかげさまで命は助かりました」のほうが丸く収まる。
基本的にね、ぼくが、あなたが、障害を負っているのは、ぼくのせいでも、あなたのせいでもないよ。よくわからないけど、まぁ、偶然そういうことになっちゃっただけ。
もちろん、公害病などが障害につながっているのであれば、「偶然そういうことになっちゃっただけ」では済ませられないよね。障害のもととなった公害を引き起こしたモノに、「あんたらのせいだ、責任取れ!」と、もちろん、言う。怒る。訴える。そして、だいたいそういう闘いは長く時間がかかるし、究極の解決はあり得ない。何千万円、何億円と賠償金が払われても、きっと100%の納得はあり得ない。本当にやるせない状況だよね。
さらには、「死んだほうがまし」と考えちゃうケースもある、という問題も残る。「おかげさまでまだ生きてます」が通用しなくて、「障害をもった上に、生き残っちゃった、どうしてくれる!」となれば、うーむ、どういう価値観の転換が可能かなぁ。
「まぁ、みんなやがては死にますから、急ぐことないじゃない?」といっても、通用しないだろうしなぁ。そんな苦しみを感じている人、本当に大変だね、辛いのかぁ、それは辛いよなぁ、わかるよ、って応えるぐらいがぼくには関の山だ。本当、どうやったら苦しみが減るかなぁ。苦しんでるのも、生きてるからこそ、ってことなのかなぁ。むずかしいよねぇ。
もしあなたの周りに障害とかで苦しんでいる人がいたら、でも、それを前世とか、不信心とか、そんなところに落とし込まないで欲しいなぁ。ぼくたち障害者は、まずは今日、そして明日、生きることにエネルギーは集中したいんだからさ。
(死んだほうがまし、については、また書こうと思ってます)
自分も一人親方である会社の下請けみたく(そこのお偉いさんは、社員と同じだからナーンテ言ってくれてたけど)朝早く・夜遅くリクエストに応えていたが怪我したらその時の女所長いわく、「うちの社員では無いので労災保険は…」で終わりだとさ。携帯損傷車椅子生活10年目。3〜4メータ背中から落ちたけど、ま、しゃべれるし、フォークスプーンだけど食べれるし、掴まれば立てるし。だけどやはり思うのは(現在68歳)最期はこれかいって言いたくなるなぁ。生きれるまで生きるさぁねー。
南條誠様
コメントありがとうございます。
そうですか、社員たちと同じように働いていたのに、労災が適応されないというのは理不尽ですね。心中お察し申し上げます。
私は認定作業に1年かかりましたけれど、幸い労災認定されました。幸運でした。
「生きれるまで生きるさぁねー」はい、そうそう「死ぬまで生きる」、その点ではみーんなおんなじであります。
どうぞ、お元気で。よろしければ、またブログに遊びに来てください。
村山哲也