頭に持ってきました写真は、上野科学博物館にあります、進化の樹、の部屋です。あの部屋を「役に立てる」には、かなりの技量が必要と思いつつ、そんなもんなくても、あの雰囲気、いいですよねぇ。あの部屋ほど、幼子の姿が似合う場所もそう多くはない、なんて、涙腺がゆるむ私であります。
さて、昨年の10月30日に、『役に立つ理科と、ディズニーランド(???)』というタイトルの投稿をしていました。カンボジア教育省大臣が語った「役に立つことを教えよう」という言葉を受けて、じゃ何が役に立つ理科なのか?と考えたことと、なぜか話はディズニーランド(シーでも同じこと)に飛んで、ぼくが「ニセモノ」としてのディズニーランドがどうしても好きになれない、ということを書きました。(10月30日の投稿には、以下から飛べます)
その投稿の文末には「この投稿は、特に続きは予定していません」と書いてありますけれど、ふと思いついて改めて、役にたつ理科、について書き連ねてみようと思います。
役に立つかどうか、という問いに、正面からぶつかってしまう世界
まず、どうしたって『役に立つ』という価値観に向き合わずにはすまされない、と思う。
役に立つ、という言葉の真正面には、当然、「役に立たない」という言葉がドーンと立ち上がっている。役に立つか、立たないか、ぼくたちはそのふたつの道のどちらかを日々何度も選びながら進んでいる。もちろん、選ぶのは「役に立つ」ほうで、「役に立たない」ほうは選ばないのが習いだ。
もちろん、ぼくも例外ではない。今でも。けれども、障害を得てから、以前よりはこのふたつの選択に敏感になったと思う。ぼくの存在そのものが、すぐに「役に立たない」ものになり得るからだ。ぼくは気楽に「役に立つ」と口にできる世界から、気楽には「役に立つ」とは口にできない世界に移住したんだ。ここは、大上段から「役に立つって、なによ?」と、いよいよ真剣に問うしかない世界だ。
「なんのために、生きるのか?」
「生きる価値が、あるんですかね?」
「迷惑をかけながら、生きていていいんですかね?」
「人の助けを必要とするぐらいなら、死んだほうがましじゃない?」
「そうまでして、生きて何の役に立つの?」
「無駄飯食い?」
「生きる資格がない?」
「生産性が低い、効率性が悪い、資源的価値がない?」
……………
新型コロナが拡がる世界で、同時進行で鳥インフルエンザが見つかった養鶏場のすべての鶏が殺傷処分になっていく様子がテレビのニュースで流れる。なんという未来予想。ぼくがしゃべくり芸人なら、なんとかブラックジョークとして爆笑をとりたいネタだ。もちろん、テレビじゃやれない。舞台にきてくださったお客様だけが味わえる、至芸になるはずだ。
いつ、あの鶏が自分になってもおかしくない、と、感じる。過剰反応だろうか。実は、つい数十年前まで、もしかしたら今も、「殺傷処分」的な対象として「役に立たない人たち」はあったし、いた。殺されても仕方がない、存在。今だって「生かされている」存在。自動詞ではなく、他動詞としての「生」。そういうことを無意識だろうと意識してだろうと、感じる世界に、ぼくは住んでいる。
卑下じゃないと思いますよ。殺さないためには、殺すをなくさなくちゃいけない、ってことだけ。防衛機能が働いているだけ。
じゃ、どうするよ?それは今回のテーマではないので、また。今月発売予定の拙著『超えてみようよ!境界線』(かもがわ出版 1月21日かな、発売予定であります)の中で、この問題にはチャレンジしています。

知識としての理科の、絶滅寸前の遠吠えを、君は聞くか?
と、大風呂敷を広げといて、ズッズッと理科にフォーカスしましょう。役に立つ理科とはなにか?真面目な質問として、これを読んでくれている理科の先生たちに、それぞれご意見を聞いてみたいです。大〇〇先生、間〇〇先生、杉○先生、○○ワー先生、どう考えておられるでしょうか?
日本だけではなく、世界的な風潮として「教師が生徒に知識を伝える授業スタイル」から「生徒自身が知識を発見し、知恵を身に着けていく、生徒中心の授業スタイル」への移行が試みられています。そこでは、知識獲得は本質的な学習課題ではなく、獲得のプロセスそのものを身につけることがゴールとされる。課題発見力、問題解決力、が大事。知識はそのときそのときで調べればいいこと。記憶はアーティフィシャル・インテリジェント(AI)に任せればいい。開発業界でもよく言うじゃない、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」って。理科も、知識を与えるのではなく、知識にたどりつく技法を伝える科目にならないと、「役に立たないよ!」
うん、各論賛成、総論には賛否がつかないでいる、ぼくなのです。知識を与えることは、役に立たないだろうか。はい、狭義には、立たない、と思います。
以前、本ブログで紹介したカンボジアの車イス者、ボッパーさん。彼女は小学校しか卒業していません。中学校には進まなかった。それでも、その後、テレビやラジオの修理技術を身につけたし、必要にせまられてパソコンの使い方も覚えました。
おそらく、彼女はニュートンも、キュリー夫人も、進化論も、DNAの二重螺旋構造も、冥王星が準惑星にカテゴライズされるようになったことも、核分裂も核融合も、水やアルコールの分子式も、……知らないんじゃないかな。でも、それで困ることは全然ありません。彼女は、世界に「役に立っている」。それは確実です。
さーて、理科に限らず、「教えること」にかかわっている者として、ぼく(たち)はかなり劣勢状況にあります。なぜ科学は「必要」なのか。そろそろ、ぼく(たち)は、口にしちゃうしかないかもしれない。「学校なんか行かなくても、なんとかなる」って。ぼくたちが知識量でAIに勝てるはずもない。論理的思考を学ぶなら、理科はやめて、碁はどうでしょう?碁を必須科目として学校教育に導入するってのは?(書いていて思うけれど、けっこう悪くないかも!)科学的思考を鍛えるのには、何が有効でしょうか?実験を取り入れた探究型授業でしょうか?
敗者復活をかけて、キュリー夫人は愛を叫ぶ!あるいは、誰が時計を作ったのか?
ここでぼくはおずおずと手を挙げて発言を求めます。
理科史は私たちに必要なんじゃないでしょうか?ガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたり、キュリー夫婦がおそらく放射線による健康被害を被っていたことや、メンデル(遺伝法則の発見)やヴェゲナー(大陸移動説の提唱)の功績が理解されるのは本人たちの死後になったことや、エドワードジェンナーが天然痘の予防接種を試みたのが19世紀直前だったこと(1796年、ほぼほぼ200年前)や、アインシュタインが語ったという「神はサイコロを振らない」という言葉の背景や、なぜハッブル望遠鏡という名前がついているのかや、とにかく、こういうことを書いているだけでワクワクしちゃうことを、「教えて」もいいんじゃないかと思うんですけど。それはホモサビエンスとしての私たちの尊厳にかかわることなんじゃないかって、思うんですけど。広義には「役に立つ」。広義には「役に立たない」ことなんて、この世にない。つまりは「役に立つかどうか」という問いは、無駄な問いなんじゃないでしょうか?
ねぇ、理科史と世界史をまとめて人類史って科目を新設しませんか?
たしかに、「〇〇は誰でしょう?」「キュリー夫人!」と彼女の名前を覚えることは、それほど意味があるかはわかりません。「〇〇は何年でしょう?」「1838年(…これは、ティコブラーエが16世紀に観測できなかった星の年周視差をフリードリッヒヴィルヘルムベッセルが人類始めて観測に成功した年、だそうです)」、も1838という数字を覚えてもすっごくつまらない。興味深いのは、ティコブラーエからベッセルまで200年以上が経っているにもかかわらず、すでに地動説が一般的になっていた(年周視差を観測できないことは、地動説には不利な“科学的事実”だった)というあたりなんだけれど、試験問題にするにはセンスが必要そうですよね。
理科史も人類史も、学ぶ絶対的な「必要性」はないんです。でも、絶対的な必要性とはなんでしょうか?「役に立つ」かどうか?でも、その問いが無意味なことはすでに書きました。野に咲く花を美しいと思う感性と同じように、知識を楽しいと思う感性を、ぼくたちは持っているんだと思います。時計の作り方を知らずに、時計を美しい、すごい、と感じることも、あっていいのだと思います。ぼくたちは、神が時計を作ったのではなく、ぼくたちの仲間の誰かが時計を作ったことを、信じることのできる時代に生きているのです。
今回も、結局、煙にまくような形で幕を閉じることになりました、かねぇ。このテーマに関しては、ぜひぜひ不満、反論、異論、大歓迎であります。どうぞお気楽に暖簾をくぐってくださいませ。それでは、またまた。


















カンボジアの理科教育の研究を始めて教科書を見たとき、日本の教科書と大きく違うのに気づきました。小学校低学年では野糞をしてはいけません、蠅が食物にたからないように網をかぶせましょう、から始まって肥料の作り方、作物の害虫、性感染症、マラリアなど、日本で保健の領域に至る内容に多くのページがさかれていたのです。一方、日本では学問体系に沿った内容で各専門領域が勢力バランスをとった状態で小中高とつらぬかれています。また、どうも日常生活と関わりの深い内容はレベルが低いと見られてしまいがちです。8月ににウイルスや感染症について日本の理科では扱わないことを学会で発表し、こんどの日曜日にはヒトの生殖や発生を中学高校で全く扱わないことを発表し、日本の生物教育は国際的にもずれていると発表しようとしています。究極的には、「一人一人が幸せになるための理科教育とは?」ということを考えざるを得ません。最後の段落の「役に立つ」かどうか無意味というのは、「直接」あるいは「経済的に」という言葉を入れたうえでなら同意します。「すごい、美しい」という感動も直接ではないが世界観というか、心を豊かにするという点で大いに「役に立って」いると思います。
知識としての理科を学ぶのであれば,理科は必要ないですね。
私のとっての理科の目標は「問題解決の基礎を作る」です。
なぜ、理科で実験や観察をしなければならないのか? それは、仮説を立てて,実際に検証していくことができる唯一の教科であるからです。問題解決の基礎が無ければ、問題の数だけ,答えを覚えなくてはなりません。
カンボジアの実態を知らしめて、日本で実験や観察がなかなかおこなわれない事への警鐘を鳴らすことが私のカンボジアでの使命の一つとしています。もちろん、大きな使命は、実験や観察をおこなうことの重要さを伝えることですが。
都筑功様
いつも読んでくださりありがとうございます。
はい、カンボジアに限らず、途上国(私、先進国のほうはあんまり知らないんですけれど、「14才からの生物学」などを読むと、やはりヒトにひきつけている印象を持ちます)では、衛生とか強調された内容になっていますよね。
それでもですね、高校ぐらいになると、やはり知識が中心になっていきます。たとえば、遺伝。メンデルの法則は、うまくもっていけば(血液型とか?)ヒトにひきつけられるけれど、物理化学あたり、あるいは地学も宇宙に入ってくと、「役に立つ」にもっていくのはなかなか難しい面も多いように思います。
それでも、教える理由はなぜか。もちろん、高等教育に進むには必要になりますよね。
となると、やはり中等教育は高等教育への選抜機能を無視できないのか。
悩みは、尽きません。
またいろいろとお考えをお聞かせくださいませ。
村山哲也
間々田和彦様
いつも応援ありがとうございます。
さて、
「知識としての理科を学ぶのであれば,理科は必要ないですね」、出たー間々田節、って感じで読みました。
もちろん間々田さんのご意見はわかります。共感します。
でもね、その場合、なくてもいい「理科」たくさん出てきますよね。
ケプラーの法則なんかは、仮説から自分たちで解いていくのはむずかしい。宇宙系は、みんなそうです。仮説の立てようがないことが多い。冥王星の準惑星への「格落ち」も、間々田さんがいう意味での理科の要素を入れ込んで学ぶのはむずかしい。現代でも、星の季節視差を学校レベルで観察するのは無理でしょう。地球が太陽を公転しているのも、知識として伝えることになる。
「問題解決の基礎」を学ぶための、実験や観察を中心にするのであれば、現在の理科ではなく、違う科目として考えて、それを中等教育で深めるという選択肢もありそうです。
でも、そうなると、人類の遺産ともいえる「科学的知識」の蓄積は、それほど重視して教える必要はないのだろうか?(私の代案が、科学史、あるいは人類史の導入なんですけれど)
悩みは尽きません。
またいろいろとお考えをお聞かせください。
まずは、このへんで。ではでは、また。
村山哲也
小学校中学校の理科でおこなう実験観察はおこなってほしい! というのは私が盲学校に勤務していたからです。盲学校の小中学校の理科教科書は盲学校教員が中心になって、検定教科書を点訳し、文部科学省検定ということで児童生徒に配布されます。教科書にある実験観察は「無理だ!」と言って,カットするわけにはいきません。原則、彼らがおこなえるように点訳します。簡単に点訳できるものではありません。どうしてカットせざるを得ないときには教科理科の目標をきちんと踏まえないと作業できませんでした。
知識についてですが、私が「人類全体」として知的財産を共有できれば良いと思っています。
現在の子ども達と昔の子ども達の違いは、パソコンスマホの検索機能です。例に出されましたケプラーの法則でも、「ケプラーの法則」と検索すれば、かなり丁寧に解説しているサイトに巡り会います。これは、ケプラーの法則を専門的に教えた人ばかりでh無く,わからないので調べて、納得した方が書いたケースが多いように思います。
知識を持つことは必要だが、それを検索する能力を高める・・・だから情報が発足したのですが・・・ことこそ必要です。
実験観察にこだわっているのは、手を動かし考える体験の重要性です。その中で、問題解決能力が育成されると信じてますけど。