『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』外伝2 連載第26回 戦後日本でのカンボジアへの移民計画

上野英信 著『追われゆく坑夫たち』 (岩波新書) 1960(昭和35)年 今から60年前の日本、カンボジア移民に夢を見れる時代だったのですよ。

 『カンボジアの胡椒とその周辺の物語』、前回の投稿から「番外編」ということでお伝えしています。まず1941(昭和16年)の太平洋戦争日米開戦の前辺りに始まった日本でのアンコールワットブームについて前回には書きました(前回の投稿へは、以下から飛べます)。今回は、“戦後”1955(昭和30)年、カンボジアのシハヌーク首相が日本訪問したのを機に巻き起こった、日本人のカンボジアへの移民計画について、ご紹介します。

昭和30年のシハヌーク首相の日本訪問時に生まれたカンボジア移民計画

 カンボジアがフランスからの完全独立を果たした翌々年の1955(昭和30)年12月にシハヌーク首相(当時)が日本を公式訪問している[i]。その際に、カンボジア側から日本側に、カンボジアへの日本人移民が打診された。この当時、日本はそれまで日本の産業を担ってきた多くの炭鉱が縮小廃山となる時期で、そこで生じた“失業者”の就労対策が急務であり、その中で海外移民も大きな選択肢と成り得る時代だった。
 日本に留学しその後カンボジアの外交官になったカンボジアの若者と日本で若者を世話し彼の第2の母親となった日本女性の数奇な運命を描いた『淡淡有情』(平野久美子著)という事実を基にして書かれた本がある。そこでは、このカンボジアへの移民計画について以下のような記述がある。

 友好条約の第五条には、両国の移民の自由が盛り込まれた。ヴェトナムと国境を接するコンポンチャム州、クラティエ州などに、日本からゴム栽培と米作の農業移民を年間一万人ほど受け入れ、カンボジア人女性と結婚させ、人種融合を促進したいというシハヌークの強い希望を取り入れたものだ。また、プノンペンから西南約百キロメートルの高原都市キリロムの都市経営権をカンボジアが日本に与え、日本企業がインフラ整備を進め、林業や農業をおこすという計画も同時に発表された。往年の日本人町を再現すべく、さっそく政府は全国から移民の募集を始めたほど、前向きに取り組んだのだった。[ii]

 シハヌーク首相の来日直後に出た週刊朝日『キリロム物語 カンボジアの新・日本人町』と題された記事がある。それによれば、計画は日本からの移民を毎年1万名、5年間にわたってカンボジアが受け入れるという内容だ。5年間で5万人。かなりの数になる。

 移民の中には工場、鉱山の労務者、漁夫などもふくまれるが、農業移民の大部分は西北部のコンポン・トム省、ストウン・チュン省、クラティエ省の三省に送り込まれる予定。大体がメコン河の流域で、タイやラオス、ヴィエトナムと接する国境省の未開発地。南部の平野にくらべると気温もずっと下がるので、カンボジア人はあまり住みたがらないところだという。しかし温帯育ちの日本人にはかえって良いところかもしれない。[iii]

 この記事を読むと、日本人移民で新しい産業、新しい町が、カンボジアに築かれるようなイメージをを持つ。
 でも、カンボジアのことをよく知る人であれば、「特に温帯育ちの日本人にはかえって良い」というあたり、なんとも眉につけたツバがだらだらと垂れて目に入ってしまい大変だぁというぐらいインチキ臭い内容である。そのときのストウン・チュン省とクラティエ省は今のラタナキリ県、モンドルキリ県を含んでいる。そこは当時最も開発が遅れた地域であり、現在でもプノンペン在住のカンボジアの人たちにとって、ちょっとして高原の秘境ムード漂う地域でもある。ラタナキリまではプノンペンで車で今でも10時間近くかかる場所だ。残された森林地帯には、マラリア汚染区でもある。実際、私のカンボジアの友人がひとり、モンドルキリの森の中でもらったマラリアで2010年に死んでいる。30歳の若さだった。
 もし、日本人の大量移民が実現したとしても、移民開拓が成功する可能性は高くなかったと私は想像してしまう。シハヌークさんは、ときどき夢のような計画を妄想される方だったとも聞くしなぁ。

 そんな無茶な移民計画の中には、カンボジアから西に車で2時間ほどの場所にあるキリロムという高原地帯の都市計画も含まれているのだ。週刊朝日の記事から続ける。

 日本人の手による都市計画の方は、場所はプノンペン西南約百キロのキリロム高原(Plateau de Kirirom)ここからさらに西南に行くとコンポン・ソム湾に出るが、ここはjフランスの手で築港計画が進められている。プノンペンの南方、キリロム高原の東南に当たるケップには有名な海水浴場があり、昔からフランス人などのしゃれた別荘が立並んでいたが、こんどは、高原に近代的な避暑地を作ろうというわけだ。[iv]

 キリロムは、ポルポト時代の前、たしかに新しい高原都市として開拓されようとしていた。プノンペンから車で2時間ほど。気楽に行ける観光地として現在ではカンボジアの人たちに親しまれているキリロムには、ポルポト時代以前の別荘が瓦礫となっていくつか残っている。私の知人には、昭和30年代にキリロムに開設された郵便局で技術指導をしたという方もいる。
 しかし、キリロムも、ポルポト時代以後も長らくポルポト派が支配下に置き、市民が遊びに行けるようになったのは、2000年以降のことだ。もしキリロムに日本人町ができていたとしても、1970年ごろには放棄するしかなかったはずだ。

日本社会に共有されていた“カンボジア移民”という選択

 1950年代、急激に増え続ける国内人口への対策として海外移民は日本の国策のひとつだった。具体的には、1954(昭和29)年に設立された「財団法人日本海外協会連合会 (海協連)」と、1955(昭和30)年に設立された「日本海外移住振興株式会社(移住会社)」により、国の施策として推進されていた[v]。この移住進行株式会社が米国の銀行から毎年300万ドル借りて、それを移民希望者へ貸し付けることで海外移民を促進しようとしたのだ。ニクソンショックで米国の変動為替制度が始まり、1ドルが360円の固定相場制が終わる1971年より16年も前の話しであり、300万ドルは10億円を超える額となる。小学校教員の初任給が8000円(1957(昭和32)年度[vi])という時代だ。そして、日本海外移住振興株式会社の1956(昭和31)年度の移民計画には、ブラジル4300人、ドミニカ800人、パラグライとボリビアがそれぞれ600人と中南米の国々が並ぶ中に、カンボジア2000人という数字が上がっているのだ[vii])。しかし、この2000人のカンボジアへの移民は計画だけで、実際には実施されていない。

 読売新聞社から1959(昭和34)年に発行された東南アジア稲作民族文化綜合調査団という長い名前のグループが編集した『メコン紀行』という本がある。当時のバンコクからアンコールワットを経由し陸路プノンペン、さらにはメコンを辿りながらラオスのビエンチャンを経てルアンプラバンまで旅する様子を綴った、ある種の探検旅行記だ。当時のタイ、カンボジア、ラオスの様子がよく記述されていて、興味深い内容となっている。

 その中の「カンボジア地方」の章の中に以下のような文章が見つかる。

 とくに華商がカンボジア人の生活によく溶けこみ、決して特別なぜいたくをせず、同じ程度の生活に甘んじている点は、日本人が移民する際には、十分留意せねばならぬ事実である。[viii]

 「日本人が移民する際には、十分留意せねばならぬ事実である」という箇所が、今読むと何か唐突な感じがするけれど、この本が書かれた昭和34年には日本人がカンボジアに移民するという計画が社会に共有されていたのだと考えれば、不思議はない。そう思いながら読み進めると、本の「むすび」の中で、カンボジアでは土地を持たない農民の比率が多いこと、かんがい設備が不足していることなどに触れた後に、以下のように書いてある箇所を見つけた。

それらの事実は、最近よく話題にのぼる日本人移民の問題に参考となる資料である。[ix]

 やはり、シハヌーク首相から持ち込まれた移民計画は、昭和30年中ごろには日本社会の中には、ありえる人生の選択肢として生き続けているのだ。

 しかし、実際にはカンボジアへの移民計画が実現することは結局なかった。ひとつにはもともとの計画の杜撰さがあったろうし、さらにベトナム戦争がその後カンボジアにも拡大して移民どころではなくなってきたことが大きな理由としてあげられるだろう。先に紹介した『淡淡有情』のなかには、次のような記述もある。

 両国政府が期待していた入植計画は、日本の婦人団体の猛反発にあって頓挫した。若い女性の結婚問題が深刻化しているというのに、これ以上独身男子を国外に連れ出し、外国人女性と結婚させるとは何ごとであるか、という抗議に配慮したためである。[x]

 当時の週刊誌などの記事を探しても、この「婦人団体の猛反発」にかんする記事を見つけることはできなかったけれど、実際にそういうことがあったのだろう。どう考えても、頓挫の最大の理由は、計画そのものに無理があったからだ、と私は想像する。当時の関係者からすれば、「婦人団体の猛反発」は渡りに船だったはずだ。
 もし移民が実施されていたら、おそらく多くの移民が辛酸の苦労を味わったはずだ。カンボジア内戦に巻き込まれて、命を落とす人も少なくなかったろう。同じころ、中南米にわかった移民の中にも、杜撰な計画に泣かされ、それに対して相手国政府も日本政府も責任を取らない悲劇が起こっている。

昭和30年の日本、今のカンボジア 重なる貧富の格差

 上野英信が記した『追われゆく坑夫たち』[xi]という本がある。元本は1960(昭和35)年に出版されている。その当時、つまり高度経済成長が始まる少し前、九州の筑豊にあった中小炭鉱の坑夫の厳しい仕事と貧しい生活を描いた秀逸なルポルタージュだ。

 21世紀の今、私も含めて、カンボジアのさまざまな事象を日本人は「だからカンボジアは遅れている」と気楽に評価する。
 たとえば、カンボジアの特に貧しい人たちの労働条件などもそうだ。労災もなく、安い給金で使い捨ての労働力として使われることの多い、そんな労働環境は当たり前。カンボジア国内だけでなく、隣国のタイやベトナムでも、カンボジアの人たちは僅かな、それでも少しでもいい収入を求めて出かけていって、そして安く使われる。例えば、2014年6月にはタイの軍事政権による不法労働者排除強化によって20万人以上のカンボジアの不法労働者が強制的に、あるいは自発的にタイからカンボジアに戻り、国境は大騒ぎになったことがある[xii]
 その時のタイでの最低賃金は1日あたり300バーツ、日本円で千円弱だった。それでも、それが魅力で多くのカンボジアの人がタイで働いていた。不法労働者のなかには、最低賃金以下で働かされた人もいたことだろう。それでも日給千円以下のために、国境を超えるカンボジア労働者はいまでも少なくない。

 そして、そんなカンボジアの労働者と同じようなことが、1950年代、九州の炭鉱ではいくらでも起こっていた。それは、富めるものは富み、貧しいものはより貧しくなる、今のカンボジアで見られる構図と同じだった。炭鉱経営者がどれだけ甘言を使って労働者を集め、そして彼らの犠牲の上に利益を上げていたのか。それが『追われゆく坑夫たち』を読むと、痛いほどよくわかる。それを知れば、ひどい労働環境でも働きに出るカンボジアの人たちを、そして一方で不思議にも富んでいくカンボジアの成金の存在を、「まったくカンボジアは!」と私たちは簡単に笑うことはできないだろう。

 『追われゆく坑夫たち』の解説(鎌田慧による)によれば、1950年代から1960年代初頭の日本では、「エネルギー転換」のかけ声のもとに、多くの炭鉱が潰されていった時代だった。マルタンと呼ばれた炭鉱失業者と生活保護世帯が激増し、その解消のために日本政府は国策として海外移住を進め、遠くブラジルやペルーなどの南米へ移民した人たちも多くいたのだ。そして、その中には調査不足などにより農地に適さない僻地に送られた移住者が多くいた。

 そんな中、中南米よりも距離がずっと近いカンボジアへの移住計画は、今想像するよりもずっと具体性のある計画だったのだろう。カンボジアと日本の距離が、そのときとても近づいていた。新天地をもとめて、貧困からの脱出を求めて、カンボジアに移住計画のパンフレットを手に取った日本の人たちが、きっと多くいたのだろうと思う。それだけ、1960年代の日本も貧しかったのだ。


[i] 在カンボジア日本国大使館による日本・カンボジア関係略史http://www.kh.emb-japan.go.jp/political/nikokukan/history.htm

[ii] 平野久美子著『淡淡有情』小学館 2000、86~87ページ

[iii] 週刊朝日(1956年1月15日)『キリロム物語 カンボジアの新・日本人町』82-83ページ

[iv] 週刊朝日 前掲書 83ページ

[v] 海外移住事業継承の流れ(JICAの主な設立母体)https://www.jica.go.jp/regions/america/ku57pq0000207h3n-att/inheritance.pdf

[vi] 戦後昭和史 小学校教員の初任給
 http://shouwashi.com/transition-primaryteacher.html

[vii] 週刊読売1956年4月15日号 21ページ

[viii] 東南アジア稲作民族文化綜合調査団 『メコン紀行』 読売新聞社1959、70ページ

[ix] 東南アジア稲作民族文化綜合調査団 前掲書 219ページ

[x] 平野久美子 前掲書 88ページ

[xi] 上野英信著 『追われゆく坑夫たち』同時代ライブラリー 岩波書店 1994

[xii] 「カンボジア人労働者20万人帰国 タイの違法就労取り締まり強化懸念」SankeiBiz 2014年6月25日記事 カンボジア人労働者20万人帰国 タイの違法就労取り締まり強化懸念 (1/2ページ) – SankeiBiz(サンケイビズ)

4件のコメント

「追われゆく坑夫たち」,懐かしい題名ですね。「地の底の笑い話」とともに高校生の頃に読んだ記憶があります。ただ、カンボジア移民計画は知りませんでした。書いてあったのかなぁ?

間々田和彦様

いつもコメントありがとうございます。
『追われゆく坑夫たち』の中には、カンボジアも含め南米への移民のことは特に記述はないようです。
南米への移民が、元坑夫の人たちだったかどうかは確認していませんけれど、海外移民が国策となった背景に、多くの炭鉱の閉山があったことは確かなようです。

村山哲也

私が生まれた頃の日本が、カンボジアを通して描かれており、今は亡き父母の苦労に思いを馳せる事ができました。丹念な資料を提示し、ご自身の主張を静かにしかし強く訴える文章に、ついつい没頭致しました。

土居清美様

いつも読んでいただきありがとうございます。『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』ただいま外伝の連載中ですけれど、それも含め、連載は30回で終了予定です。
あと少しですけれど、ぜひ楽しく読んでいただければ、とっても嬉しいです。どうぞよろしくおねがいします。

村山哲也

コメント、いただけたらとても嬉しいです