『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第9回 カンポットで胡椒を作っていたのは海南系の華人だった 

 13世紀周達観が見たアンコールの胡椒と、19世紀後半の仏領インドシナ時代のカンポットの胡椒。その両者のつながりはよくわからないままだ。またカンポット胡椒がアチェ戦争(19世紀後半)の際にアチェから移植された胡椒を起源とするという説も、アチェ戦争の数十年前にはすでにカンポット地方では胡椒が栽培されていたことから、明らかに否定できる。(前回の投稿は以下でした)

『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第8回 カンポット胡椒アチェ起源説への疑問 アチェ戦争の数十年前にすでに胡椒栽培は始まっていた


 一方で、カンポットの胡椒の起源を探っていくと、胡椒を作っていたのはカンボジア語を使うカンボジアの土地で生きてきた人たちではなく、中国からやってきた人たち、その中でも特に中国南部に浮かぶ島、海南島からやってきた海南系華人であることがわかってきた。

海南系華人が作っていたカンポット胡椒

 ジャンデルヴェールはフランスの地理学者で、1949年から10年間カンボジアのフランス大使館文化部に在籍し詳細な調査を実施している。ジャンデルヴェールがカンボジアに滞在した1940年代後半には、カンポット地方の胡椒栽培はすでに広く知られていた。彼が書き残した『カンボジア』[i]『カンボジアの農民 自然・社会・文化』[ii]には、胡椒の生産についての次のような記述がある。文中のカンポートやカンポーツは、カンポットのことだ。

1955年ごろまで、沿岸地方はほとんど取り残されたままであった。沿岸の住民はカンボジア人、マレー人、ヴィエトナム人、華僑と多民族で構成されている。とくに華僑が沿岸地方の開拓者として重要な役割を果たしてきた。(略)
 コショウ栽培ではカンポート地方が有名であるが、最初はコンポン・トラチュ地方に1840年ごろに導入された。
 コショウ栽培といえば、ほとんどすべて華人が取り仕切っている。コショウ農園の持ち主はカンボジア国籍の華人で、潮州出身者が大部分を占めている。賃金労働者として働いている人たちは海南島から連れて来られた移民の子孫である。
[iii]

(筆者注:カンボジア国内の外国人の主要な活動の紹介として)最初に大農園がつくり出す商品作物の栽培がある。胡椒とゴムである。胡椒の栽培については、ジャック・マリネ氏の「カンボジアの胡椒の経済と栽培に関する研究」が非常にすぐれた研究である。胡椒の栽培は、コンポーツ州に限定されている(一九四六年、コンポーツ郡に三〇万本、コンポァン・トラーチュ郡に七〇万本、一九四八年から一九五四年にかけてコンポーツ西部のベトミン支配地域に多数の胡椒園が造られた)胡椒の栽培は、好適な気候(乾季があまりはっきりしない)のこの地帯に一九世紀に、海南の中国人によって導入された。(中略)栽培法は、科学的というより非常に緻密なもので(挿し木による畝への植え付け、―― 枯れた支柱への蔓茎「誘引」――除草――散水――施肥――培土)、中国式である。金のかかる栽培法でもある。カンボジアの胡椒は、かつて世界の相場の最上位を占めていた。しかし農園は古くなり、病原菌がまんえんしていた(ミュレの植物寄生菌)。生産は、三五〇〇トンから一〇〇〇トンに下落し、全く危機に面している。優秀な働き手、人夫頭や労務者は、みんな海南人である。[iv]

 胡椒の栽培は、最初はコンポン・トラチュ地方に19世紀の1840年ごろに海南の中国人によって導入されたと明記されている。アチェ戦争の始まる30年前のことになる。コンポン・トラチュあるいはコンポァン・トラーチュ(カンポントラッチ)は現在のカンポット県の一部で、ベトナムとの国境に近くタイ湾から遠くない場所だ。

海南系華人の故郷、海南島から?

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カンポットと海南島

 海南系華人の故郷である海南島は南シナ海に浮かぶ大きな島だ。海南は東南アジアに進出した華人の五大勢力の一つだ(他の四つは、潮州、広東、客家、福建)。海南島は現在では中国国内では有数の胡椒の生産地になっている。では、海南人が海南島から胡椒をカンボジアに持ち込んだのだろうか。

 しかし、海南島で胡椒栽培が始まったのはわりに最近のことで、1951年にマレーシアから帰国した華人により海南島で胡椒の栽培が始まったという説[v]が一般的だ。1981年に人類学調査のために海南島を訪問した鈴木正崇もその著書で次のように記している。

 まず、海南熱帯作物研究院試験場を訪問した。一九五七年に開所し、一年後にいったん閉鎖し、一九六二年に復刊したもので、コショウ・ココア・コーヒーの三種が主たる研究作物である。副長の陳珠宝氏の案内でコショウ畑に出てみると、緑色の実が木々にたくさんなっていた。結実まで九ヶ月を要するとのことで、台風が来た時に背が高いと折れやすいので低く抑えており、石柱に寄りかからせて間隔を蜜に植えられている。一九七八年に植えて今年はじめて実がなったといい、一ムー(畝)あたり年間六〇〇~七〇〇斤(三〇〇キログラム)の収量があって、七〇〇〇元の収益が得られる。植えてから二五~三〇年間、毎年とれるので商品価値が高い。[vi]

 このように、海南島では胡椒は新たな農作物商品として20世紀後半から栽培が始まっていた。

 さらに、これまで紹介した中国の古文書でも、海南島の産物として胡椒の記載はまったくない。
つまり、1840年ごろに、カンポットで海南島系華人が始めた胡椒栽培が、彼らの故郷である海南島から伝わったとは考えにくい。

タイ湾岸にあった華人国家ハーティエン

 華人が移住先の東南アジアで胡椒栽培を初めたのは、中国で明(みん)から清(しん)に権力が移行した17世紀半ば以降だった。マージュエリーシェファーは『胡椒 暴虐の世界史』の中で書く。

一六四四年、明が満州族の襲撃を受け、漢族最後の王朝が崩れると、南部住民の多くが海を渡ってマレーシアへ逃れた。そこで胡椒の栽培を始めた中国人は、十七世紀末までには有力が胡椒商人の一団を形成していた。[vii]

 19世紀にカンポットで胡椒栽培が始まる以前、17世紀末にはタイ湾を挟んだ対岸のマレー半島では華人による胡椒の生産と貿易のネットワークが形成されていた。その17世紀後半に現在のカンボジアとベトナムとの国境がタイ湾とぶつかる辺りにハーティエンという華人国家が存在していた。ハーティエンは、カンボジアの歴史の教科書でも触れられていない、カンボジア正史からはその存在が無視されている消された国家だった。


[i] ジャン・デルヴェール/著 石澤良昭・他/訳『カンボジア』クセジュ文庫 白水社 一九九六

[ii] J・デルヴェール/著 石澤良昭/監修 及川浩吉/訳『カンボジアの農民 自然・社会・文化』 風響社 二〇〇二

[iii] 八二ページ、ジャン・デルヴェール/著 石澤良昭・他/訳『カンボジア』

[iv] 四一ページ J・デルヴェール/著 石澤良昭/監修 及川浩吉/訳『カンボジアの農民 自然・社会・文化』

[v] 現在海南島でコショウを栽培している人に問い合わせたところ、「マレーシアから帰国してきた華人により海南島でコショウ栽培が始まったのは一九五一年である」と中国語で明記された中国の健康医薬品会社のフェースブックのページを紹介してくれた。

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海南島の胡椒は、「マレーシアから帰国してきた華人により海南島でコショウ栽培が始まったのは1951年である」と中国語で明記された中国の健康医薬品会社のフェースブックのページ(赤線は筆者)

[vi] 九~一〇ページ 鈴木正崇/著 『中国南部少数民族誌』三和書房 一九八五

[vii] 四九ページ マージュエリー・シェファー/著 栗原泉/訳『胡椒 暴虐の世界史』 

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