柔らかい舌

昔々、カンボジアの小さな島で撮った、ぼくと彼

 どういうわけか、母がいなかった夜。父が夕食を作ってくれたことがある。ぼくが小学校低学年のころのことだ。

 専業主婦だった母の料理で育ったぼくは、父の料理に馴染めなかった。いつもなら喜んで箸を伸ばすサンマの塩焼きも、父が焼いたそれは生焼けで背骨のあたりに赤い血が滲んでいる。味噌汁に入る野菜の切り方も母が切ったものとは違っていて、それも口に合わない。ご飯もいつもより水っぽいような気がする。

 箸の進まないぼくの前で「たまには父親が作った料理もいいだろう、美味いだろう」とご機嫌を装う父。今から思えば、父なりに一生懸命明るくふるまっていたのだろう。ちょっとの生焼けや、味噌汁の大きすぎる大根も、今思えばたいしたことではない。でもぼくは「オイシクない」とむくれたし、「お母さんのつくった料理のほうがいい」と身も蓋もないことをいった気がする。母がいないのをいいことに、食べずに残したのかもしれない。父に悪いことをした、とは当時はそれほど思ってもいなかった。今は思う。

 その後、世界のあちこちでさまざまな人たちと色んなものを食べてきた。出されたものは食べるというしつけを特に母から強く受けてきたぼくは、とにかく出されたものは口にする。それどころか、それまで食べたことがないものが出てくれば、むしろ喜んで味見する。皿の上に何かが残っていると、なんとなく申し訳ないような気持ちにもなる。そわそわして、満腹でもつい手を伸ばしてしまう。

 ところが、世の中には、あれはだめ、これはだめ、食べられない、無理ムリ、なんて人が多くいる。そんな人と出会うと、かわいそうに、とつい思う。やはり食べ物を共有し、水でもお酒でも共に飲み、たとえ言葉が通じなくても「ウマい!」と伝える。そんな原初的なコミュニケーションが、親しくなるには手っ取り早いからだ。その取っておきの機会を、〝食べられない〟で逃してしまうなんて。なんてもったいない、と思う。

 しかし、食べられないものは、食べられない。それもわかる。スリランカの農村で働く「辛いものが駄目」という日本の若者と会ったことがある。スリランカの料理は、辛い。特に貧しい村になれば、ますます辛い。(から)いものが食べられないということは、村の住民たちと食事を共に楽しめないということで、それはさぞ(つら)いだろう。その若者は、普段は簡単な野菜炒めなどを自炊し、週末に都会に出て日本食や中華をお腹いっぱい食べるのだけが楽しみです、とちょっと寂しそうに笑っていた。うーん、働く場所を間違えちゃったのかなぁ。

 日本に研修に来ている海外からの先生たちに日本の町を案内する。そんなとき、やはり悩むのは食事だ。これまでの経験から寿司やうなぎは危険度が高いことは学習済みだ。寿司屋では、わさびがだめなのはもちろん、わさび抜きでも白身魚やタコには手が伸びない。大トロは油っぽすぎる。高価なうなぎも油っぽいと残す人が多い。日本の国民食であるカレーも、意外なことに苦手な人が少なくない。特に市販のカレールーを使ったちょっとボテッとしたタイプのカレーは、これまで海外の人に受けたという記憶が、ぼくにはまったくない。

 ラーメンも量が多すぎて食べきれないという人が少なからずいる。

 もちろん「食べたい」といわれれば喜んで同伴するけれど、こちらからはあまり勧めない。

 だからといって、せっかくの来日でハンバーガーもないだろう。最近は自分の好みもあって、ビアホールに入ることが多い。アルコールがだめな人にもジュースはあるし、和洋折衷のメニューから各自が食べられるものを選んでもらえる。

 先日もカンボジアの先生数名をビアホールに誘った。「このお肉、美味しそう」と指差す先は羊肉。それを伝えると、「羊肉は食べたことないから」と牛肉を探す。うーん、惜しい、これまで食べたことないなら、今ここで食べてみればいいのに、と思う。親しければ、遠慮なくそう告げることもある。初めての食べ物を恐る恐る口にして、ふっと顔から緊張がほどけて微笑むとき、人は美しい。勧めたこちらの緊張も解けて、ああ良かった。そして話がはずむ。例え「おいしくなーい……」でも、笑いが起こり、距離が縮まる。

 逆に海外に行って知人にごちそうになる。そんなとき、例えば「ドリアン、あーあれは臭くて美味しくないですよ」というようなことをおっしゃる人がいる。せっかくの興味探求への道を、小さな価値観で閉ざしてしまう、なんとも殺生な一言。自分が海外にいる側とすれば、気をつけたい。

 父の料理に顔をしかめたころのぼくと同じ年頃になった自分の子どもをつれてカンボジアを旅したことがある。

 彼はカンボジア料理が楽しめなかった。鶏肉には必ず骨がついていて食べにくい。カメムシの匂いがするような変な味覚の野菜(香菜、コリアンダー、パクチー、お分かりですね。苦手な人、多いですよね)が入っている(彼はいつカメムシを嗅いだのだろうか)。料理に使われている魚醤の匂いにも馴染めない。ぼくが「ここの麺はいいぞ」と勧める中華料理屋のヌードルも、日本のラーメンとはずいぶん違う風情だ。結局、彼が一番美味しかったのは、日本食レストランで食べた牛丼だった。よろこぶだろうと連れて行ったローカルな市場で一番の見所である魚売り場で、彼は生臭い匂いに気分が悪くなった。
 「ほら、いろんな魚がいるだろう!」とひとりでご機嫌なぼくは、あのときの自分の父と同じだった。

 いつの日か彼がなんでも口にできる柔らかい舌を持つ日がくるだろうか。そしたら、何を一緒に食べようか。

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