学部生対象の国際教育開発論の授業で
2021年2月に、以下の記事を当ブログに投稿しました(この記事を開くと表示される2012年5月11日は、おそらく記事のどこかをちょっとだけ書き換えた、その最後の日にちです。メインを書いて掲載したのは、2月上旬でした)。
都内の私立大学で学部の学生さんたちに国際教育開発論を担当しているOさん(学生たちにとってはO先生)が、この記事を授業の資料に昨年、今年と続けて使ってくださいました。授業の前から、この記事の読者数がグーンと増えます。今年も5月下旬に100名を超える方がこの記事にアクセスしてくれました。
まったく知らない誰かが読んでくれる。ブログを書いていて、こんなにうれしいことはありません。Oさん、そしてわざわざ訪ねて読んでくれた学生さんたち、本当にどうもありがとう。
昨年、授業後に学生さんが書くてくれたコメントを、Oさんが私にも送ってくれました。そのコメントを紹介したのが2021年6月30日投稿の以下の記事です。
海外支援に無色透明はない!という投稿を多くの若い方が読んでくれました。ありがとうございます。 – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
そして、今年も学生さんのコメントが先日届きました。となれば、彼らのコメントも紹介しないわけにはいきますまい。ということで、2022年の学生さんたちのコメントを以下ご紹介します。
以下、学生さんたちのコメントと、それに対する私のコメント
そもそも、人間とは思考する生き物であり、意見を押し付けあって共同生活をする生物である。その前提から考えさせられた記事であった。しかし、だからと言って放置するのではなく、講義でもあったように「良い押し付けとは何か」を常に問い続けることが重要だ。ただ、その「良い」も、自分がそう感じているだけかもしれない。だからこそ、支援する側とされる側での相互的なコミュニケーションが不可欠である。そして、そのコミュニケーションを行う相手も、できる限り多様である必要がある。そこが海外開発支援の難しい点であると感じた。
「そのコミュニケーションを行う相手も、できる限り多様である必要がある」のは確かにそのとおりです。教科書的な事例なら、村落に入って油断すれば村長はじめとする「男性」たちとばかりコミュニケーションすることになる。
一方で、プロジェクトによっては、あるいは私/あなたのプロジェクトととの関わり方によっては、多様な相手とそうそうコミュニケーション取れないという状況はよくあります。技術支援の場がすでに設定されていれば、その場にいる人とだけコミュニケーションは成立する。もちろん、その限られた場でだって、よく話す人話さない人、なんとなく相性が合う人合わない人、性別、等によってコミュニケーションにはグラディエーションがどうしたって生じます。
コミュニケーションとは、実は話すことだけにも限りません。静かに静かに見守る、観察する、それもひとつのコニュニケーションです。そして往々にして、出会いからしばらくは、無理に話さずに、ただただ観察することが重要だったりもします。さらには、時間の制約があって観察する間もなかなか取れないなんてこともある。
単純にいえば、正しい答えなどない。「良い押し付け」の「良い」をつねに疑う、それしかないのかもしれません。疑いながら、やる。高等テクニックでもありますね。
「援助される側」と「援助する側」が一枚板ではないという言葉が響きました。大学で国際協力の分野で主に支援を学ぶ自分は、国対国・地区対地区・団体対村などの構造で考えてしまっていた。支援は突き詰めれば個人対個人のもので、そこで考える思いは一人一人異なってくるということだったが、改めて支援が複雑で難しいものなのだと感じた。
はい、そうそう、自分の「側」があることから私たちは絶対に自由になれません。支援しにきた「側」のレッテルは、剥がせません。まぁ、剥がす必要もそうそうはないのですけれど。
構造で捉える鳥瞰的な視点も必要です。でも、やがては地上に降り立つときがくる。するとそれまでの上空から見えていた視点は、あんまり役にたちません。そこに立ち上がってくる個人と個人のからみ。私自身は、そこが途上国支援の醍醐味とおもってやってきました。
でもね、そういうのが苦手な人もいるのよ。ずっと鳥瞰の立場でものを考え続けている人もいます。そっちのほうがワイドに影響力を駆使できると言っている人もいる。実は、単にローカル食が得意でないとか、不衛生なトイレがどうしてもだめだとか、そういう“貴族的”な理由が背景にあるってこともある。生理的に嫌なものを乗り越えるのは、大変ではあるから。
でもね、地上に立って見えないと理解できないことは確実にある。そこを他人任せにするかどうかは、結局はやはり個々の支援者が決めるしかない。そういうものだと思います。その判断の結果、「あの人は現場が見えていない」と批判されることもある。それも含めて、自分です。
価値観の押し付けの問題が挙げられていたが、理想的な国際的援助の関係は対等で、上下関係のないものである。しかし植民地時代や帝国主義時代の影響によって支援を行う先進国が支援をされる国より上の立場にあると認識されてしまう。このことからやはり歴史の影響は大きく、現代の私たちは歴史に翻弄されているなとこの記事を読んで感じた。
はい、ケニアで働いているときに日本からきた自分が「植民地主義」からちょい離れた気楽なポジションでいられたという感じがしました。スワヒリ語で「白い人」、つまり領主国側の人を、「ムズング」と呼びます。私も最初は「ムズング」でした。でもやがて「こいつはムズングではない」と酒場でケニアの友人が周りに紹介してくれたりする。それはとっても嬉しい瞬間でもありました。
でも、ならばフィリピンでは「私は(父を殺した)日本人と一緒には食事をしない!」と拒絶されたこともあります。どうしたって、日本人=侵略者の看板を個人で払拭することには限界があるのです(ちなみに、そういった方ともやがては一緒に飯を食える関係になりましたけれど)。
それらは上下関係というよりも、その記憶のようなもの。とにかく、私たちは育ちと時代は自分では選べずに存在しています。歴史にも当然のように翻弄されます。仕方ない。
私の理想は、むしろこっち(支援者)が(被支援者よりも)ちょっと下、という関係。国際関係で上下がないのが理想というのは、むしろ外交の世界なんじゃない? 援助関係、特にODAは結ぶところまでは外交でしょうけれど、現場は違う。外交感覚で援助をやっている人もいないわけではありませんが、私はそれに共感できません。国益とかすぐに意識する人は、現場じゃ多くないですよ。で、国際支援の現場では、支援者がちょっと下、それが理想だと感じています。その点では、支援と介護ってちょっと似ています。
援助において、価値観の押し付けになるか否かは受け取り側が判断する、という点が印象的であった。援助する際には、する側とされる側が対等であることが重要であり、決して押し付けてはいけないと今まで思い込んでいた。しかし、される側にも個々の価値観があり、その価値観をする側の一言で変えるわけではないことを見落としてしまっていた。この記事を読み、する側がされる側に及ぼす影響を自分が過大に信じていたことに気付かされた。
「援助する際には、する側とされる側が対等であることが重要」って、本当?どこかに書いてありましたか? 絶対に対等じゃないですよ。「される側」の意志のほうが「する側」の意志より重要なんじゃない?
広い目でみるとね、もはや国際支援・援助はひとつの大きな産業です。国連も多くの部分がその産業に組み込まれていますし、特にユニセフやユネスコは存在そのものが国際支援・援助です。世界銀行、アジア開発銀行、アフリカ開発銀行、等々の開発銀行。国際的な大手NPO組織から、小さなNPO組織まで、みんなこの産業界の一員です。ODA関係組織もそう。そして、支援する側の立場に身をおける者だけがその産業の一端で、自分の食い扶持を得ているのです。
「支援される側」も緊急支援などでは、国際支援・援助から生存のための物資を得るということはあります。けれど、それはこの大産業のごく一部でしかありません。多くの場合、「支援される側」がいてくれるおかげで、「支援する側」は日々の収入を得ているのです。
だとすれば、お客様第一、じゃない? 売る方も、買う方も、対等ってことあるのかな?それが理想かな? さて、どうだろう??? 実は、支援する側こそ、買ってもらうための努力や遜りが必要なのじゃない??
記事を読み、今の社会は「価値観の押し付け」に少し敏感になりすぎているのではないかとか感じました。記事の話題とずれるかもしれませんが、社会の多様化によって価値観を押し付けることが「悪いこと」として扱われることが増えた結果、逆に生まれる無関心な状態があると思います。だからこそ、相互のコミュニケーションがとても重要なのだと思いました。
そうですね。「価値観の押し付け」なしに他者に接することはほぼ不可能で、「価値観の押し付け」が悪いとなれば、他者と接することそのものを回避する、つまりはそういうことなんでしょうね。確かに、「村落的」な緻密な関係性はうっとおしい、と私も思います。都会的な無名性「隣は何をする人ぞ」で、別にそれほど困らない。それが、無関心のはびこりにつながっている。で、さて、そこまではわかっている。
で、どうする?「相互のコミュニケーション」これから以前よりもっと大事にする??あなたはどうするの?? おそらく私もね、縁のあった人とだけしか「相互のコミュニケーション」大事にできないだろうなぁと思っているの。みんなと?無理無理!って。あなたはどう?
で、そうだとして、さて、社会はどうなるのかなぁ。どうやって良くなってくれるのかなぁ。58歳になっても、そういうことジクジク考えているのよ。多分、あなたたちのご両親もそうだと思う。
ブログ記事を通して、「価値観の押しつけでない提案はあるのか」という言葉がとても印象に残った。私は途上国を支援するにあたって、価値観をおしつけることはその地域の文化や価値観を壊しかねないという考えをもっていたので、援助自体がすでに価値観を押し付けているということにきづかなかった。そういった意味で文献のように、支援する側とされる側間の援助を通したコミュニケーションは非常に重要であると感じた。
「その地域の文化や価値観を壊しかねない」ならば、援助を止める、という判断もあります。実際、アマゾン最深部の先住民や、インド洋の孤島の先住民への接触は、できるだけ控えるという政策だってあります。
私の若い頃の先輩は、大学時代に休学して世界をバックパッカーした後、「(途上国の人たちは)支援されることなんて望んでないよ!」と自分自身は日本で公務員になりました。おそらく彼も、もともとは「世界に関わってみたい」と思っていたのだろうけれど、援助は望まれていないものなのだとさっさと喝破したのです。
コミュニケーションが、「その地域の文化や価値観を壊す」ことのエクスキューズに使われることも、世界史には度々起こっています。コミュニケーションによって、教育された若者たち(洗脳された若者たち?)が自らの文化や価値観を見直すのです。そういう人が、開発計画に地元代表として同意書にサインしてきたのが、特に植民地以降の開発の世界史でもあるわけです。タイで先住民の言語教育をしようとしたNPO団体が、現地の人たちから「少数民族語ではなく、タイ語を教育してくれ」と懇願されたという話もあります。タイ語ができなければ、良い稼ぎの仕事につけないからです。
「価値観の押し付け」という批判には、真剣に耳を傾けるべきだと思います。そのうえで、自分はどうするのか? このように考え出すといろいろと面倒くさい援助という行為を、自分の生業にするのかしないのか。それを考えるのが、きっと大学生活の大事な意味なのだと想像します。ますますの健闘を(検討を?)祈ります。
「助けは迷惑かもしれない」という価値観が近年は当たり前になってきた。私自身この問いには悩んできたが、文章を読み、支援をする側の人にとってはこの価値観は障害になる一方で、小さな支援でも必要としている人からすれば、「助けを簡単に求められない」という世の中になっているのではないかと思われた。双方向に、助けられず、助けを呼べないという世の中であるのなら、冷たい社会であると思う。
「助けは迷惑かもしれない」と思って助けを躊躇した、という意味に読みました。あなたはそういう体験があるのですね。で、助けを提示できない、あるいは求められない、というのは「冷たい社会」だと思っているのね。 私もまったく同感です。
ぜひ次、機会があったら「迷惑かな?」と心配しつつも、ぜひ「助け」を提供してみてください。それが空回りに終わったって、いいじゃないですか。たいして減るもんもない。せいぜい「あぁ、やめとけばよかったかな」って思うくらいでしょう? おせっかいって、大事だと思うよ。海外支援も、けっきょくはおせっかい心の発揮でもある。
ぜひね、考えるより先に、動いてみて。そんな日もあっていい。そのためには、日頃からの心のシュミレーションは大事です。こういう状況に出会ったら、こう動こうとか。私ね、飛行機事故に出会ったときのシュミレーションってよくしていました。運良くまだ生きていて、脱出口がある。そのとき、周りを見回すというシュミレーション。子どもは周りにいないか?いたらその子を先に脱出口に送り出すべきじゃないか、というようなシュミレーション。
あなたにはあなたのリアリティのあるシュミレーションがきっとあります。トライしてみて。
支援・被支援という2者ではなく、双方向ともに与え、受け取るといった新たなコミュニケーションだと捉えられれば、支援に対するネガティブなイメージも払拭されると思う。
支援って、ネガティブなイメージを持たれているのですか? 誰に? 「海外支援とは、価値観の押しつけである」というようなネガティブなイメージなんですか?
それはそれで、もしそういうイメージが世間にあるのだとしたら、興味深いです。
支援・被支援という関係を脱構築して、双方向ともに与え受け取る、という新たなコミュニケーションは、確実に始まっています。支援する側も、支援を通して変わるのです。ある意味、当然、当たり前な、ことでもあります。
記事の中でも特に、支援される側も個々の存在であり、それぞれ勝手にこちらの支援を咀嚼している、という意見にハッとさせられた。
学校現場で教育を受ける側であるあなたも、そうしているんじゃない? 学校が提示するさまざまなものを、勝手に咀嚼して食べたり吐いたりしているんじゃないですか? あるいは、学校に働きかけて、学校を変えようとすることだって可能なわけで。
被支援者が素直じゃないなんて、ちょっとした想像力があればきっとすぐに「そうだよなぁ」って思えると思うよ。
私たちは、無意識に支援される側とする側をそれぞれ一括りにした上ではっきりと区別しているだけでなく、支援される側は、する側の意見や価値観を100パーセント吸収してしまうという思い込みがあると考える。支援される側にいる人々にも元々持っている考え方や意志があり、支援する側が一方的に意見を押し付けたとしても、自分たちでそれを必要かどうか、使えるかどうかを考えながら活用していけるはずである。大きな括りで考えれば、先進国から途上国への価値観の押し付けであるかもしれないが、筆者が述べていたように、私たち1人1人の影響力は自分で考えているほど大きくはない。支援をあくまで人と人との間で行われるコミュニケーションと捉え、自分の価値観に則り、その時に最善だと思うことをすることが重要であると認識させられた。
「私たち1人1人の影響力は自分で考えているほど大きくはない」。そうね。私自身は、「自分で考えているように」自分のやっていることはそれほどは大きくない、手が届く範囲は限られてきた、と思っています。そして、どうやって微力ながらも「大きな効果を上げられるだろう」とあれこれ今でも考えているわけです。自分が良かれと思ってやっていることは、できるだけ多くの人に伝えたいのですから。それでも、なかなかね、うまくいかない。だから、また考える。最大効率を上げるにはどうすればいいかと。トライアンドエラーを繰り返している。とにかく、自分のエネルギーと時間は有限ですから。
でも、ときには「1人1人の影響力は自分で考えているほど小さくない」って局面もあるのだろうと想像もします。私自身は、それを実感する機会はこれまでほとんどないのですけれど。でも、「自分で考えているほど小さくない」ってことは、運や縁を得て、ありえる。
それは身震いするような喜びかもしれないし、その責任感の底知れなさに心底震える、ということになるかもしれない。あなたにそんな体験が降りかかる日があることを、切に祈ります。そのときは、ガンバッテ。逃げ出さないで、ガンバッテ。
価値観を押し付けまいとすることが重要でありながら、双方の価値観からは逃れられない、そして時には翻弄されることもあるという葛藤が自分の人間関係における経験則と酷似していて非常に共感できた。支援者と被支援者という構造の中では、相互理解が重要であるし、特に支援者側は幅広い理解が求められる。支援者を自分に落とし込めば、対人関係も同様で、自分自身の価値観とすり合わせながら他者への理解、そして他者からの理解を得る必要がある。そのように再確認させられるブログだった。
はい、基本は個々の対人関係っていうのは、私も常々そう思います。「自分自身の価値観とすり合わせながら他者への理解、そして他者からの理解を得る必要がある」、ほんとうにそうだよねぇ。
一方で「理解」って可能なのかしらねぇ。おそらく「そこそこの理解」だけが可能なのだと思います。だって、自分のことだって自分で理解しきれないのがヒトというものじゃないですか。他者のことを理解する、他者に理解される、それは多くの場合幻想で、幻想であっても悲しむことでもない。「理解したい」「理解されたい」という思いこそが尊い。そんなふうに思いながらやっております。「理解できない」「理解されてない」ってこと、あるでしょう。でも、それが当たり前の出発点なのかもしれません。そこからしぶとくじわじわいけるか、そこが大事。
ブログ記事を読んで、自分の価値観は全ての環境から形成されていることをなにをするにおいてもまず認識しなければいけないことを痛感した。その価値観も変化するものであり、自分の価値観からフリーになることなどできないことが軋轢や戦争を生むことになるが、この世界を面白くしている要因でもあると感じた。
ものごとには、必ずポジとネガがあると常々感じます。自分の価値観からフリーになれないことが負に作用するのは困りものですが、あたながいるから「この世界が少し面白い」ことになることを切に願っています。そうなると、いいね。本当に、そうなるといい。
記事で若者は価値観の押し付けを気をつける意識が高いと書いてあり、その通りだなと感じた。この価値観の押し付けは今国際協力を学ぶ人々が一番触れる国際協力「失敗例」の失敗要因となっていることが多い気がするからだ。「先進国」と「途上国」、「支援者」と「支援される側」という関係性の中で対等な関係を持つことは難しいと感じるのも、価値観の押し付けへの懸念からだろう。そんな中筆者の支援する・されるのはコミュニケーションの一部なのではという考えは新鮮で、自分が「先進国」に生まれ「支援者」であるというステータスに固執していたのではないかと考えさせられた。同時に、支援する・される人の間で完全に個人として接しコミュニケーションを働くことは可能なのか?とも疑問に思った。例えば、教授にいくら「対等だから何でも意見を言って」と言われ、個々人のコミュニケーションであっても生徒である私は教授の顔色をうかがいながら意見を述べるだろう。身近な例で考えると支援の場で立場が違う個々人がコミュニケーションを図るには超えなければならない大きな壁があるのではないかと感じた。
教授と学生という立場の例、面白く読みました。
教授と学生というのもね、実際には長くても数年なんですよ。もちろん師弟関係は続くわけですけれど、学生もいつまでも学生ではない。やがて、同じ社会人となり、もしかしたら同僚となることもあるかもしれない。一方で、教授は往々にして学生より早く老いていく。長い関係を持続したとき、そこに師弟関係を超越した、友人関係が生まれることもある(それはいろんな事例が証明しています)。「支援する・される」人の間で完全に個人として接しコミュニケーションが働くためには、きっとそれなりに時間と努力が必要でしょう。
縦横軸をそれぞれ「フェア」と「ピュア」にわけて人間関係をプロットしてみることが私にはあります。どんなに純粋な思いでも、金がからむと公平さを維持することはむずかしい、とか。どうやって、フェアとピュアを高めるか。難しくとも可能であると私は信じます。
私は途上国に、心底信用できる友人がいます。そのなかには、支援する・される、という関係だった人も、もちろんいます。
筆者の無色透明ではありえないという話はもっともだと感じました。そもそも無色透明なら何も新たな価値は生まれないと思います。その一方で、「価値観を押し付け」に対する恐怖があることも理解できます。それを防ぐために支援する、される側の双方の対話は重要になります。しかし、支援のニーズが満たされていたとしても結果論として、その支援が良い影響を与えるのか悪い影響を与えるのかは時間が経ってみないと分からないし、個人によって感じ方も異なるだろうと予想できるのでなかなか難しい問題です。なので、結果よりもとにかく良い支援にしようと双方が追求し続ける姿勢そのものが一番重要ではないかと思っています。
いや、本当に書かれたとおりです。
ただ、ひとつだけ。支援する側がこの論をエクスキューズ(言い訳)に使ってはいけないよね。「とにかくよい支援にしようと追求し続けた」結果が、悪い支援になってしまった。そういうことは起こりえます。そんなとき、最終的に去る人である支援者が「良い支援にしたかったのだけれど……」と被支援者の前でうなだれてもなぁと思うのです。じゃ、どうするのか?
人生をかけてその尻拭いをする、という選択肢もある。そういう人生を知ると、本当に頭が下がります。俺ならどうする、と考えます。
私自身も支援や開発、国際社会と地域社会のあり方の相違や理想像の対立について考えていく中で、何かをする側とされる側の価値観の違いというものを尊重し合わなければならないという考えを持っていましたが、結果的にそれを気にし、摩擦が起こらないようにするという意識ばかりでは何もできないという結論に辿り着きそうだったタイミングでこのブログを読みました。このブログを読んで、やはり価値観などの違いは完全に払拭することは不可能であることを認識しました。その上で何ができるのかということを考えていく必要性を感じます。
「摩擦が起こらないようにするという意識ばかりでは何もできないという結論」が出たとして、だから「摩擦が起こっても仕方ないのだ。やる」ということになるのかどうか。
必要のない摩擦はないほうがいい、これも確実です。そのために、さまざまな技術があります。語学だって、その重要な技術のひとつです。開発をめぐる様々な理論も、技術です。さまざまな知識も、あったほうがいい。過去の事例も知っていたほうが、摩擦は減らせるかもしれない。そう考えると、果てしない道です。インプットに終わりはない。100持っているから、10ぐらい役にたつ技が見つかるのです。残る90は、結局使わず無駄に終わる。
おそらくそれが勉強する、という意味なのだと思います。
押しつけかどうかを、援助する側が勝手に迷うのは独りよがりという意見に対して、ではどこまで支援する側が支援される側のことを考えるべきなのか、という疑問が生まれそれが永遠にサイクル化し難しい問題だと思った。
大丈夫、あなたの疑問は永遠には続きません。どんなに長くてもあと50年?60年?絶対に100年は続きません。心配しないで、悩んでください。
あと、はっきりしているのは「どこまで支援する側が支援される側のことを考えるべき」の答えは出ている、ということです。考えられる限り考える、それに尽きませんか? 考えすぎるということはないと思います。暇さえあれば、考えるべきことだと思います。もしあなたが「支援する側」の立場を選ぶなら。そして、そうやって選んだ選択でも、それはあなたの価値観から自由ではないのです。それでいいのです。それが良い仕事をする、ってことじゃないかしら?
問題となるのは、支援する側と支援される側の間の利益が相反するときです。投入すれば支援される側には利益になることはわかっているけれど、支援する側としてはそこまで投資できない、というケース。そこには妥協は必要です。だって、無い袖は振れない。それにしたって、その妥協点をどれだけ「支援される側」の視点から検討できるか。それがあなたの人間力、度量の広さを試すことになるんじゃない?
上記のように支援活動を行う際に、される側の立場に立って考えるべきという考えに縛られて神経質かつ過敏な考え方になっていたが、一種のコミュニケーションという考え方は一気にそれを吹き飛ばし、純粋に支援をしたい・受けたいと思う人の熱意を支えてくれると思った。
支援をしたい人は、たくさんいます。それはどうやら確からしい。支援を受けたいと思う人は、さて、それと同じくらいだけたくさんいるのかしら? もちろん、緊急事態では「支援を受けたい」人はたくさんいるでしょう。災害や紛争や、明日の食事、住み場所、必要な医療……。
でも、日常の生活の中で「支援を受けたい」人はどれだけいるのかしら。多くの社会で、ことさら被支援者になるのは、けして「嬉しい」ことではない。他者の助けを必要とするということは、自分の尊厳の問題とも絡みます。
支援をしたい人は、ときどき、支援を受けたい人を生産してしまいます。学校がなければ、そこに「学校が欲しい人」を創り出す。井戸がなければ、「井戸」が欲しい人を見つけ出す。そしてそこにズレが生じる。学校や井戸は、本当に必要なのか。それを誰が決めるのか。
もっと正直に、「学校を送りたい」、「井戸を掘りたい」と支援者が言ってみるというのもありなのかもしれない。でも気をつけないと「いらない」という声は聞こえないことが多い。だって誰も言わないから。もらえるものはもらうけど、それを実際に使うかどうかは、さて? そういうケースは意外と多いのではないでしょうか。
「人類が歩んできた歴史から考えれば、自分はプランクトンほどのもの」という考えかたが印象強かった。私も自分の影響力を考える一方、ふとした瞬間に自分一人の持つ力の少なさを感じることがある。「プランクトンほどの力」しかないからやめるのか、それともだからこそ気楽にいくのか、考えようによってプラスマイナスどちらの方向にも進むと思う。少し切なさを感じるこの考え方を、プラスの原動力にできるようになりたい。
そうですね、自分の微力さをしることは、切ないですね。特に自分の力を信じてきた若い人にとっては、自分の微力さを認めることは一種の敗北かもしれません。あるいはそれが成熟の第一歩なのか。
プランクトンが気楽かというと、実はそうでもないのよ。プランクトンなりに、生きるとはやっぱりいろいろと大変なことなのです。まず自分が生き残らなければ、微力ですら発揮できないのですから。まずは、お身体大切に。
ブログの内容と講義の内容から、「押し付け」ではない支援の在り方を求めることは相当に厳しいものなのだと分かった。以前、国際協力系の講義を受けた際に、自分たちの「外部者性」を知り、現地住民のニーズに合わせることが大切だという話を聞いたが、それはあくまでも理想論なのであって、ブログにもあったように現地住民と言っても個人がそれぞれ存在するのだから、支援される側のニーズに100%合うものなど存在しないのだろうと感じた。
そうそう、厳しいのよ。でも、それは海外支援に限らない。おそらく何事も厳しいのだろうと想像します。だから、怖気づくことはない。
自らの「外部者性」を知ることは重要です。基本は、誰に対しても私たちが外部者でしょう?たとえ恋人であれ、両親であれ、つきつめれば他人です。自分の中でさえ、自分にはコントロールしきれない何かが存在したりする。つまりは、孤独なのです。外部者性を知るということは、孤独を知るということでもあるのだと思います。
そして、ニーズに100%あうものなど、実は多くのケースで被支援者にもよくわからない。緊急援助は別ですよ。食料が必要、医療が必要、それは絶対ニーズなのです。でも、私が関わってきた教育という分野になると、絶対ニーズはなかなかわかりません。量的ニーズは必要かもしれない。たとえば就学の機会の提供ですね。学校がないなら作り、先生や教材を供給するというようなこと。そして、世界はかなりこの目標は達成しつつあります。とすると、さらに僻地のニッチに教育を届けるということを目指すか。そうでなければ、次は質的ニーズに応えることに励むか。私は後者でした。この質においても、何を目的にするか喧々諤々です。教科書の質を上げる、教員の質を上げる(それは教育年数を短大から4年制大学に移行させるという形を取ることもあります)、などなどなどなど。
もしかして明日のそれを担うのがあなたなのかもしれない。責任重大です。あなたの提供する支援はニーズに100%沿えないかもしれないけれど、でも70%、80%沿えれば、かなりすごくいい線です。100%を目指すのもいいですが、実はあんまり意味があることには思えないです。だってあなたが書く通り、100%なんか幻だからです。
「支援をうけた「援助される側」も、突き詰めれば、個々の存在」という考えが印象的だった。改めて考えたら実に当たり前のことで、何も特別なことは言っていないように思える。しかし、「自分」は一人の人間として教育開発についていろいろ考え、議論しているのに対し、支援する相手として頭で考えるのは「途上国の子どもたち」という集団であった。
「途上国の子どもたち」、はいそのイメージには私も共感します。そして、実際にはその「子どもたち」も多様なのです。
特殊な事例では、たとえば兵士だった子どもたちがいます。彼らの心の回復をどう図るのか?おそらくここには専門性の高い投入が必要になるでしょう。私は今カンボジアという国に住んでいます。カンボジアの子どもも多様です。簡単にいえば、都会の子と田舎の子。彼らが使える教育資源には大きな格差が存在します。具体的な事例としてインターネットへのアプローチ。今回のコロナ禍でこの格差はこれまで以前に明確になりました。
親・保護者の意識の差という問題もあります。学歴の高い親の子は高学歴、という傾向はカンボジアでも顕著です。それが生まれながらの格差とすれば、世界は当然この問題にチャレンジすべきと私は思っています。
つまり「途上国の子どもたち」からだって、いくらでも多様性は広がっている。そして、あなたはどこにアプローチしたいのか?あなたのエネルギーをどこに投入するのか。もちろんそこには運と縁がどうしたって絡みますが、しかしその運と縁を引き寄せるのは「私はこれがやりたい」という思いです。太平洋を泳いで渡りたいと思わない人は、絶対に太平洋を泳いで渡ることはできません。そういうことだと思います。
日本の大学の一授業で学んでいるだけの自分には、見えない一人一人の相手を毎回考えることは難しいが、支援される側が突き詰めれば「個人」であるように、今自分が持っている教育についての考えも、一個人の考えでしかない、と良い意味で軽く考えられるようになった気がする。
そりゃそうですね。あなたの考えは、あなた個人のものでしかない。
でもね、それはどこかで表明することが求められる。そしてそれは他の人に揉まれ、洗われ、批評される。一個人の思いなのに、他者は介入します。仕方ないです。ひとりで生きているのではないから。世界は開いているから仕方がない。
だから、あなたはあなたの考えを磨きをかけなくちゃいけません。もちろん簡単なことじゃない。思っていることがうまく表現できない。悔しい!私が言いたいことはそういうことyじゃないのに、うまく伝わらなくて、批判される。そういうこと、あるよ。
だから、軽く考えすぎていると足元すくわれます。道中、お気をつけて。
でも怖がり過ぎることはないですよ。きっと味方になってくれる人もいるはず。だからお友達はどうぞ大事に。学生時代の友人ほど、心強い存在はそうそうはありませんから。
援助される側もする側も一個人であって、全員が全員同じ価値観だとまとめられるはずがない。しかし、そのずれを無視して、葛藤を避けて生きるのもまた違う。というなんとも曖昧にも取れる結論であったように思うが、きっとこの文章は、葛藤する自分を悪い人間だと思ってしまう支援者の心を軽くすることができる文章であると思う。同じ国籍でも、日常生活で価値が合わない人や、立場が違う人との関係で葛藤する経験は誰にでもある。「援助」という単語がついてしまっただけで、ズレについて考える姿勢を忘れなければ、所詮は同じ個人の話で良いのだと手を差し伸べてもらえる文章であった。
「葛藤する自分を悪い人間だと思ってしまう」……、エーっ、葛藤するって悪いことなの??ちょいびっくり。
葛藤するってポジティブな言葉だと思うよ。だって葛藤する人ってかっこいいじゃない? そうでもないのかしら? 優柔不断に思われちゃうの?? 葛藤のない優柔不断のない人って、信用出来ないように私は思うけれどなぁ。
あと、たまたま書いてくれた「国籍」。国ってなんか必要以上に強い存在ですよね。まぁ税金払って、そしてあれこれ社会保障を担ってくれているのが「国家」ですし、飛行場などでの出国手続き、つまりパスポートの存在が国家という存在を否応なく私たちに印象付けるから、国を強く意識するのは仕方の無いことかもしれないけれど。
ただ、近代国家なんてせいぜい数百年の歴史しかないわけです。あなたの国籍がどこかはわからないまま書きますけれど「日本人」という意識を多くの市民が持つようになってからまだ200年経っていないのですから。パスポートが機能し始めてからだって、100年?150年? 其の程度。とっても歴史の浅い存在でもあるわけですよ、国家なんて。
自分と国家をリンクさせる考え方は、自分の可能性を狭める要素大だと私は思うよ。国籍?そんなんどこでもいいじゃない?もちろん、非常に利便性の高いパスポートを使えるという有利さを自分で勝ち得たわけでもないでしょう。美味しいところは使えばいいし、必要ないところにまで国家を持ち込まない。あなたはあなた全身個人で勝負する。他者に対してもそう。その人の国籍で何が決まるわけでもない。旗を振ったり、旗に帰属したり、つまらないことだと思いますよ。
もちろん儀礼としての国家への礼の示し方が必要になることはあります。それはそれ。そして日の丸君が代に意見を言える権利をもっているのは、第一次的に日本人だろうとも思います。うらをかえせば、他国の国旗国歌にものを言うのは慎重であるべき。フィリピンの人で国歌には口を閉ざす人、いましたよ。それなりに訳はあるのです。国と個人、わけて考えるようにしたいものですね。自分自身も国家からは自由であることに自覚的でありたいです。
その観でいえば、自分の身は自分で守る、国内でも国外でも、そういう気持ちでいたいものです。
コメント、いただけたらとても嬉しいです