現代における民主的な新しい王制度の始まりを見る“楽しみ”

2022年2月に日本を訪問した“大切な”お客様

 私がたまたまご縁のある某国の出来事に関して、思うところを少し。

 先月、某国の陸軍司令官が日本を訪問し、岸田首相(2月16日)や林外務大臣(2月14日)、岸防衛大臣(2月15日)と次々に公式会見しています。陸軍司令官という立場の人が来日した際に、首相や外務大臣と1対1で正式に会見することが恒例になっているのかどうなのか、ぼくは寡聞にしてよく知りません。あくまでぼくの感覚ですけれど、首相に会うというのはなかなか大変なことなんじゃないかと想像します。陸軍司令官という立場は、どれくらいのステイタスになるのでしょうか。日本国の軍隊である自衛隊の陸軍司令官が海外を訪問すると、その国の最高責任者と会見するものなのかしら?

 で、以下は私の妄想です。岸田首相が会見した陸軍司令官は、ただの司令官ではありませんでした。その男性は、某国の首相のご長男で、2021年12月にその首相後継者として現首相から直々に指名されたのでした。現首相は、1985年に32歳で首相職に就いてから、現在まですでに36年間その座を維持してきた某国の英雄です。途中、数年間二人首相制度の下で“第2首相”に甘んじるという期間もありましたけれど、日本語版Wikipediaでは2017年時点で在職期間で世界最長の首相とされるとも書かれる超長期政権の首班です。
 つまり岸田首相が会見したのは単なる陸軍司令官ではなく、某国の次期首相が確実視されている人物であり、だからこそ首相会見が実現したのだろうなというのが、ぼくの見立てです。ちなみに、現首相による長男への首班禅譲は、現首相が率いる某国の与党も党をあげて賛成の意を示したと報道されています。

当然、選挙で認められなければならない

 報道によると、長男を次期首相として指名した際、現首相は「当然、選挙で認められなければならない」とも述べています。つまり、自分が指名したから自動的に息子が次期首相になれるわけではなくて、選挙の洗礼は受けねばならないと明言しているのです。某国では日本と同じく首相は国政選挙第一党から選ばれる仕組みですので、首相の言う選挙は国政選挙と党内の首班指名の選挙との二つが考えられます。つまり、首相になるためにはその両方を勝ち取らなければならないと。はい、極めてまっとうな発言です。
 一方で世襲について現首相は「民主的国家の政治家でも、自らの子息を後継者にすることはごく普通に行われていることだ」と述べ、その例として日本国で世襲議員率が高いことに言及しています。確かに、日本の最大与党の世襲議員率は3割に達していると聞きます。ですから、自分の息子を後任首相に指名するのも、問題ないとしたわけです。うーん、ここはちょっと微妙ですよね。日本で世襲議員が多いと言っても、首相というポジションが世襲というわけではけしてないわけですから。このあたりは、民主的国家における議員世襲に対する現首相の巧みな「解釈ぶり」という感じもします。

 この首相後継者の指名の後、今から2ヶ月前に行われた国防省の新屋舎開所式でのスピーチで現首相は「2023年の次期選挙の後、私は首相の父親となり、2040年までには首相の祖父となるだろう」「(自分の)孫たちには、首相になりたいのならば、選挙に勝たなければならないと教えている」と語ったとも報道されました。つまり、次期首相として長男を指名しただけではなく、そのさらに後継者として自分の「孫たち」も意識していることを、首相ははっきりと公の場で語ったのです。そして、ぼくの知る限りですけれど、ぼくには衝撃的とも思えるこの発言は、某国社会ではさらっと流されているようです。あるいは、流すというよりも「当然そうだろうな」とかなり多くの人が感じているようにも思えます。

 つまりすでに首相の帝王学は子息孫たちにも伝授されつつある。そしてこのようなスピーチを通して「世襲」のアイデアは臣民たちにも伝えられ、じわじわと地固めが始まっている。そして、ぼくは今、民主主義下の新しい王制度の始まりを目撃しつつあるのだと感じているのです。

 さらに興味深いのは、我が祖国日本政府は某国で進行しつつあるこの新しい王制度の誕生を歓迎しているように思えることです。今回の陸軍司令官と岸田首相の公式会見も、このような日本国政府の考えを反映したものと思える。当然、理屈の上では、現首相の長男が次期首相になるかどうかは、国政選挙の結果次第なわけで、まだどうなるかはわかないことです。けれども、少なくとも日本政府は「次期首相」として彼を扱っているように思えます。もちろん、そんなこと正式には認めないでしょうけれど。せめて「次期首相候補有力者」という認識である程度のことは、日本政府は言うでしょうけれど。でも、ね、本心はどうでしょうか。やっぱりもう「次期首相」なんじゃないの?
 某国には2014年に大型ショッピングセンターで知られる日本の大手流通ブループが進出してます。その頃から多くの民間日系企業が進出するようになり、それに伴い某国の日本人会も大きな組織となりました。2000年ごろにも日本人会はありましたけれど、そのときの某国在住日本人の多くは政府関係者や援助団体関係者の多い日本人会でした。それと比較すると、現在の民間主体の日本人会の大きさは隔世の感があります。そして、これらの民間日系企業の皆さんの間でも、現首相の長期安定政権は大いにウェルカムです。首相の後任指名についても、平和裏に長男に政権移譲がなされることは大歓迎なのです。投資している人たちからすれば、当然そうでしょう。政変などあったらそれこそ一大事ですから。そんな現地の日本人社会の雰囲気を日本国政府もよく理解しているように見えます。官民団結、お見事です。

 ところで、この地でも2010年代中頃には一度反政府運動が活発化した時期がありました。国政選挙でも野党が大躍進し政権を脅かした瞬間があったのです。しかし、それに対して首相は敏速に手を打ちました。詳細は省きますけれど、その結果、現在与党は先の選挙で圧倒的多数を占め、この状況は今後も続くだろうと圧倒的多数の市民は感じているというのが今日の状況なのです。
 そして、そんな現首相による安定政権に対しては、その強権ぶりを「問題あり」とする国際社会からの批判の目も存在します。特に欧米諸国は、2010年代後半の野党弾圧に対してはかなり厳しい目を向けています。2020年には欧州連合(EU)は某国に対して人権侵害の改善が不十分であったとして関税における優遇措置を停止するという経済制裁を課しています。
 数週間前にウクライナに軍事侵攻したロシアのプーチン大統領を独裁者と形容する報道が目につきますけれど、もしプーチン大統領が独裁者であるならば、某国の現首相も筋金入りの、というのが欧米諸国の認識でしょう。プーチン氏がロシアのトップに上り詰めたのは1999年のことですから、まだたった22年ほど前のことです。国家首班歴36年の某国首相と較べれば、プーチン氏などまだまだヒヨッコ。確かに、ぼくもそんなふうに思います。そして、今回の首相の「世襲」宣言に、ますますその意を強くするのです。

見事な戦略、進行中

 ところで、王制とは何でしょうか? 日本大百科全書(ニッポニカ)の君主制の項を参照すると次のようにあります。
 「一般には、世襲の君主が、ある政治共同体において最高権力(主権)をもつ政治形態」
 しかしながら、世界史の中の王制には、世襲でない例もありました。たとえば、東南アジア大陸部に栄えたアンコール王朝です。アンコール・ワットやアンコール・トムなどの大規模遺跡でも知られていますよね。9世紀に始まり15世紀まで600年も続いたこの古代国家は、王朝と呼ばれはしていますが、その王位継承は世襲ではなかったと言われています。
 古田元夫著『東南アジア史10講』(岩波新書 2021)には次のような記述があります。

 アンコールの王位は安定したものではなく、八〇二年から一四世紀半ばまでに王となった二六人のうち、八人だけが先王の実子または兄弟で、その他の王は、その個人のカリスマ性と実力で王位を獲得した人々で、先王との遠縁関係は信憑性の低いこじつけだった。(26ページ)

 新しい現代的で民主的な王制を語ろうとする際に、アンコール王朝の事例はまぁふさわしくはなかったですね。
 とにかく、王制にとって大事なポイントは世襲以上に最高権力という部分になるでしょうか。特に「主権」であるというのが重要かもしれません。しかし、民主的な憲法を持つ国家であれば、主権が一人の「王様」に委ねられるということは現在ではありえないでしょう。とすれば、民主的国家にはもはや「王制」は存在できない、とも言えそうです、従来の解釈ならば。

 たとえば、日本の王制も、今は「主権」はありません。こちらは、世襲が残っていますけれど。ちなみに、某国にも日本の王制と同じように象徴的存在としての王制が存在しています。この伝統的王制と、姿を現しつつあるモダンな民主的王制とが、どのような共存を図っていくのかも興味深い点です。

 某国では昨年、中途半端な額面で新しい紙幣が発行されました。そこには、伝統的な王制の王(すでに死去され、今は新王がおられます)と、現首相が並んでいる図が描かれています。あの図案は92~93年ごろの写真を基にしていますね。パレードで写された王と首相がオープンカーに並んで乗っているその図では、沿道の人々に向かって王が現首相の手を持って差し上げています。そこでのまだ若かりし頃の現首相は、どこか恥ずかしそうに初々しい笑顔を見せている。あぁ、こうやって静かに王権の移譲が国民に伝達されていくのだなぁとぼくは思いました。それほど多くは流通しないだろう半端な額面の紙幣を使って、じわじわとでも確実に伝統的王から新たな“民主的”王への王権の移譲が進んでいる。社会の反応を見極めながら、慎重にそれを進めようとしている。見事な戦略だとも思います。
 私の予言ですけれど、長男への首相職の移譲が成功裏に進めば、いよいよ引退?した現首相(そのときには首相の父)は、一人で堂々と重要紙幣の図として登場し、そして彼の神格化が図られるでしょう。そしてそれが孫首相の登場とつながっていくに違いありません。 

 理屈でいいますと、某国の民主的な憲法でも主権は国民にあります。しかし、世の中、モノは言いよう、だったりするのも本当です。主権は国民にあると言いつつ、実際のところは……。先に名を挙げたプーチン氏だって、ロシアの政治システム上はけして「独裁者」とは言えない、という「言い様」もあるわけです。ですから、ぼくも某国の事例を、かなり気をつけて「民主国家における新しいシステムの王制」と形容しています。けして、旧来の王制と同じと言っているわけではありません。しかし、日本大百科全書が書くように、「世襲」の政治的存在が「絶対的権力」を持つような政治状況があるとすればそれは「一般には」君主制、つまり王制と呼ぶのは決定的に間違っているわけでもないように思うのです(あくまで個人的意見です、よ)。

 もしかすると、民主的選挙制度下における現代の装いを纏った王制が実現している国家は、すでに存在している可能性もあるのかもしれない。国連加盟国だけでも193カ国、非加盟国を加えると200を超える国家(あるいは国家的存在)すべての事例をぼくは把握しきれていません。民主主義人民共和国という名をもつ王国も存在しますしね(けれど、あの王制は選挙制度はなかったですよね、それとも名目上はあるのかしら)。

 しかし、民主主義の危機が囁かれる21世紀も四半期を過ぎようとする今日、選挙制度と共存できる新しい王制(繰り返しますが、私の私見ですよ、そしてそれが某国で世界初かどうかもわからないわけですけれど)が生まれようとしているのを目のあたりにできるというのも、遠慮がちにですけれどとても「興味深い」とぼくは思うのです。しかも、それを祖国日本政府が肯定的にとらえ支持しようとしている、それもかなり驚くべきことです。日本の外務省官僚のみなさんが、民主主義をどう考えておられるのか、今回の日本国政府の客人への対応にそれを知るヒントが隠されてはいないだろうか。隠れつつ、ちらちらと見えはしないか。そして、それはぼくをとても不安にさせるのです。おいおい、大丈夫かなぁと。今日のブログのポイントは、某国の状況以上に、実はここなんだろうなぁ。

(注 このブログで書いたことの情報は、本来ならその出典を明記すべきことだと思われます。けれども、今回はあえてそれをしていません。ただ、「嘘」や「作り事」は書いてないよと、書いておきます。それを信じてもらえるかどうかは…、さてどうなんでしょうか。すべてはぼくの妄想である可能性も考慮くださいませ。通常ならアタッチする冒頭の写真も、今回はぼくの妄想に合致する写真が思いつかずと言いますか、むしろ意図的に写真なしとしています。)

 

 

 

 

 

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