本当の勉強って?
「これ、いまがんばって覚えても、試験が終わったらみんな忘れちゃうんだよね」
中学校のときから、漠然と抱いていた疑問でした。
「それに教科書をめくれば全部書いてあることを、なんていちいち覚える必要があるんだろう?」
AちゃんとNちゃんの表情に、こころなしか神妙さが帯びてきます。
「仮に、ここにあることが絶対に覚えておくべき重要なものだとしたら、こんなふうに、やいくもに暗記するんじゃなくて、もっとこう、全体の流れというか、それぞれの出来事の背景を順を追って把握したうえで、ちゃんと理解しながら一つ一つの用語や単語を覚えたいよね」
Nちゃんがうなずきます。
「いいね。その方法なら、知識がしっかり定着しそう」
「でも、残念ながらいまのわたしたちに、そんな時間はないんだよ」
Aちゃんがため息まじりに宣告したとおり、「世界史B」の試験は数日後に迫っていました。
(温又柔 著『「国語」から旅立って』新曜社 2019 146-147ページ)黄色い下線を引いたのは、私、ムラヤマです。
以上、温又柔さんの著作『「国語」から旅立って』からの引用でした。温さんは、台湾出身のご両親を持ち、日本で日本語を教育言語にして育った方。台湾語(中国語方言の華南語から派生したもの?合ってるかしら?)を話す両親がおられて、さらに中国国語(北京語)も学んで。そんな言語環境の中で、自分は誰なのかという揺れる世界を歩んで来られた温又柔さんの書かれるものから、学ぶことはとても多いのでした。でも、それは今回の本筋ではないので、置いといて。
で、改めて引用した先の文章。どうですか?身に覚えのない人は、むしろ少ないのではないでしょうか? テストのために暗記して、とにかくその場をやり過ごしてしまった。ぼくにはそんな経験が山程あります。英語の長文読解なんか、試験範囲の日本語をほぼ覚えて(前の夜に!)、試験に望んでなんとか対応しておりましたものねぇ。だから、その後、英語では本当に苦労しました(苦労しています、現在形ですね)。
ぼくは今でも「単位が足りない」「卒業できない」という夢を見て、夢の中でハラハラドキドキしています。それだけ、高校や大学での学業の心理的プレッシャーが強かったのだなぁと、今になって当時の自分の心境を理解したりしています。大学でも、朝一の現代物理、2年生、3年生と2回落としました。教員資格をとるためには必須の授業だったので、4年生のときにいよいよ必死になって出席してなんとか単位をもらいましたけれど。ほんと、ヒヤヒヤだったなぁ。
国家試験中止、受験予定生は全員合格!
さて、カンボジアでは高校卒業時にG12国家資格試験(以下、G12試験)という共通試験があり、高校卒業資格を獲り、さらには大学に進学するためには、G12卒業を控えた学生は全員この試験を受けなければなりません。小学校に入学した児童のうち、このG12試験まで到達できるのは現在では3割程度と思われます(2019年度の統計資料を見ながら、ぼく自身が推計したものですので、あくまでとってもラフな概算です)。この試験、以前から不正行為が多く行われていることが知られていました。カンニングシートの持ち込み、そういう不正資料の受験生間での共有、それをお目溢ししてもらうための受験生から試験監督官への謝金支払い等々。5年ほど前に、新しい教育大臣が、敢然とこの不正行為撲滅に特組みました。不正行為を防ぐために、試験会場への入場時に厳重な身体チェックが行われるようになりましたし、不正行為を見逃した試験監督(現職教員が務めます)への厳罰処分などが実施されました。その年のG12試験の合格率は壊滅的な数字を示し、新入生(G12試験合格者)が居なくなってしまった大学業界の悲鳴を受けて、総理大臣の鶴の一声で、その年にはG12試験の追試が実施されました!けれど、やはり合格率は低レベルでした。
不正撲滅運動は翌年以降も続き、不正は確実に減り、その分、しっかり勉強した生徒が合格するというG12試験の正常化は進みつつあり、合格率も撲滅運動が始まる以前の状況にもどりつつあります。
そして、コロナ禍の昨年。このG12試験は中止となりました。中止にあわせて、受験者は全員合格の措置が取られました。従来、成績優秀者は公立大学での奨学金を得られるなどの〈ご褒美〉があったのですけれど、全員合格の中で、このような〈ご褒美〉がどう処理されたのかは寡聞にして聞いておりません。とにかく全員合格!
実は、私の義理の姪っ子が、その前々年、前年と2年続けてG12試験を受験して、不合格となりました。彼女は、昨年の全員合格というニュースを聞いて、本当に悔しそうにしておりました。「私も1年遅ければ、合格だったのに!」というわけです。
ちなみに、彼女もどういうわけか、大学生です。今は、コロナ禍でその大学も封鎖されて、彼女はコーヒーショップでアルバイト、一時期はそのコーヒーショップも閉まってしまいましたけれど先日再開となり、で忙しい日々です。彼女は毎日午後2時から午後8時までのシフトで、週6日勤務で、月給でおよそ90ドルです。時給に治すと、60円ほど? これは、カンボジア政府が定める最低賃金以下です。アルバイト生活では、将来、彼女がひとりで自立するのは難しい。ま、それもまた別の話。
とにかく昨年のG12試験は、全員合格措置でした。今年はどうなるのか? もう随分と学校は閉鎖が続いています。再開の見込みはまったく立っていません。おそらく、多くの受験予定生が、「今年もG12試験が中止となって、全員合格になりますように」と、お寺に行ってお祈りしているんではないかと、ぼくは勝手に妄想しております。
カンボジアではコロナ禍の中、教育省は一生懸命にリモート授業を推進しています。フェースブックには、リモート授業推進のための教員研修プログラムの様子がよくアップされています。また、インターネットだけではなく、テレビでの授業も多く放映されているようです。社会や国家の経済レベルからすれば、すごく健闘しているようにも見えます。
私の身近な人が、私立の小学校で働いています。彼女は、連日、リモートクラスの実施でてんてこ舞いです。カンボジアの私立小学校の一部も、まさにブラック企業のようで、連日深夜まで、週末も多くの時間を仕事に割いています。いやいや、すごいなぁ。見ていると、リモートクラスの出席率もいい。あれだけ手間をかけていれば、登校しての授業がなくとも、生徒さんたちはかなり勉強が進んでいるはずです。欠席の生徒さんがいれば、すぐにご家庭に問い合わせの連絡が行きますから。
けれど、それがカンボジアの平均像かといえば、絶対にそんなことはありえません。公立学校を支援している日本のとあるNGOの調査では、公立高校の生徒さんは、やはりあまり勉強していない様子です。テレビ授業の視聴も、けしてそれほど高くない。
そりゃそうだよねぇ、なかなか難しいことをやっていますもの。結局は、とてもやる気のある生徒たちは、先生がやっている私塾で勉強しているんだろうなぁと、やはりぼくは想像しています。やる気のない生徒さんたちは「全員合格!」を祈っているのだろうと。
どうして簡単な分数計算ができない大学生がゴロゴロいるのか?
そもそも、G12試験の内容には依然問題ありと、私は考えています。G12試験の試験範囲は、G12つまり高校3年生で学ぶ内容に限られているのです(最新の情報を確認していないので、ぼくの認識が間違っている可能性はありますけれど。でも、試験内容が改定された、という話があれば、耳に入ってくると思っております。それがないから、G12試験ではG12の内容が問われているという状況に変化はないとぼくは理解しています。
また、以前も書いたことが合ったかも知れませんけれど、このG12試験は、公開されません。どんな問題が出ているのかは、わからないシステムになっています。それでも、試験の採点に関わる先生たちは内容を知っているわけで、そんな先生たちが私塾で試験対策の授業をやられたりするわけです。もしG12試験の試験内容がG12以外からも出るようになれば、それは従来の試験対策を根底からひっくり返す大事となるわけです。
でも、実は、だから分数計算ができない大学生がゴロゴロいる(あちこちから報告多数あり)、なんてことにつながっているようにぼくは感じるのです。G12試験前には、とにかくG12の内容を覚える!そのことが、一番大事なことなのです(ぼくの高校時代の英語長文読解の日本語丸暗記と同じです)。それでも、それを成し遂げてG12試験でいい成績を取る生徒さんたちには、優れた点があるのは確かと傍から見ていてそう思います。受験戦争、それに勝ち抜くというのは、けして伊達ではないのです。叩けば伸びる力を持った人たちが多いですよ。
飛び級はいいこと。でも系統だった勉強という意識が(教える側に)ないことの証明でもある。
先日、あるカンボジアの方の学校遍歴をうかがう機会がありました。その方は、現在30代。地方の小学校で学び始め、勉強がよくできたので、進学する機会があり、高校はプノンペンの親戚の家に住み込んでがんばった、勉強家さんです。その方は進学する際に、何回か飛び級をしています。つまり、小学校3年生から4年生を飛び越えて5年生になる、みたいなことです。飛び級はそれだけ勉強ができる証拠ですので、カンボジアの人たちにとってはちょっと誇らしい出来事でもあるようです。けれども、飛び級すると、どうしてもその飛んだ学年の内容を学ぶ機会を失うことになっちゃうのですよね。もちろん、勉強家のその人は、飛んだ学年の内容は自習したと言っていましたけれど、でも、やっぱり限界はあるはずです。しかも、進級時の試験内容はその学年で習ったことに限られます。
カンボジアでは日本のような自動進級制度ではありません。毎年、担任の先生や、学校が課す進級試験に合格しなければ、進級できません。つまり、小学校から留年があるのです。それが中途退学者を生む元凶と言われていますけれど、現場の先生たちにすれば自動進級にしたら生徒はますます勉強しなくなる!という声が普通です。
その進級試験で、改めて過去の基礎的なことは問題には出ないのです。だから簡単な分数計算を忘れてしまっても、とにかくなんとかなる。なんとか、する。
飛び級のアレンジは、各学校の裁量のようです。でも、飛び級が普通に行われている背景には、系統だった学習という観念がそれほど価値を持たないことがあるように思われます。大事なのは、効率よくサティフィケイトを獲得すること、なのです。
小学校の算数でつまずいて、挽回がなかなか難しい甥っ子、姪っ子
コロナ禍で学校が閉まっていて、なぜか今我が家には3人の姪っ子がいます。どうやら自宅で一日過ごすよりも、叔母と叔父のいるこの家のほうが気楽らしいのです。
23才大学生と、21才大学生(先のバイトの子)、そして13歳の中学1年生。13歳の姪っ子は私立中学校に通っていて、リモートクラスもやっている様子ですけれど、けっこうサボっている(寝坊してリモートクラスに参加しない)様子もあります。やれやれ。でも、13歳になると、もうある程度自分で管理してもらわないと、なかなかどうしようもないところもあって。
で、なぜか、私、今、毎晩、彼女に算数・数学を一時間ほど教えているのです。彼女は英語も日本語もわかりませんし、私はカンボジア語はほとんどしゃべれない。昨夜も中心角とか円周角とか、そのあたりはちょっと妻に手伝ってもらいながら、でも、ほとんど言葉抜きで、算数の計算やらをやっているのです。
で、彼女の弱点は小学校3-5年生辺りにあるのがわかってきました。その段階での、練習がとっても不足している感じなんです。どうやって、進級できたのかなぁ。
そういえば、ここで暮らしてはいませんけれど、今高校1年生の甥っ子もいます。彼の算数の計算力は………、とてもとてもつらいものがあります。でも、日常生活、困らないんだよねぇ。そして、彼はそんなとてもつらい計算力のママ、高校生になってしまって、とにかくG12卒業を目指すのだそうです。
学校というのは、けして勉強するだけの場ではない。社会生活を送る上での、さまざまな人間模様を擬似経験して、タフになる場でもある。もちろん、そこでの人間関係は、将来の大きな財産になることもある(ならないことも、ある)。だから、彼があと3年学生をやるのも、今の社会、モラトリアム期間として、けして否定されることじゃない。
けれども、うーん、彼が学校で学んだことを将来活かせるかというと……、サティフィケイトだけが活かせる可能性があるけど………。でも、彼がG12試験に合格できるかと問われれば、不正撲滅が継続される限り、かなり厳しい可能性が高い、とぼくは思っているのです。
不正撲滅、実は学校現場では、まだなかなか進んでないようにも思えます。学校で、無理やり落第させることで得する人はだれもいない。だから、きちんと私塾に通っていれば(学校の授業だけではなかなか進級できないというのがカンボジアの実情です)、そりゃ、先生も仁義として進級させるよねぇ。でも、G12試験はもはやかなり高い壁なのです。落ちる人は、落ちる。
学校の敗北? 学校教育制度の死?
でね、結論。コロナ禍は、学校というシステムの実情を露呈させているところがあります。つまり、学校はやっぱり勉強するふりをすればいいところで、大事なのは卒業資格、進級資格なのだということをと、露骨にあぶり出している。
たしかに、自分自身を振り返っても、大事なことはみんな学校外で学んで来たようにも思うのです。結局は、ぼくも、大学卒業、修士取得、というサティフィケイトを活用していて、そこで勉強したことで今、人生に使っていることは、それほどあるわけじゃ、ないみたいな。
もちろん、学んできましたよ。でも、それは学校以外の場でのことのほうが多かったんじゃないか?本とか、友人知人たちとの議論からとか、そういう場から学ぶことのほうが、学校カリキュラムから学んだことよりも、多いし役にたっている。でも、その本を読んだり、友人知人と知り合う場としては、学校時代というステージはやっぱり大切だったよなぁ。コロナ禍は、そういうネットワーク構築の点でも、学校という場に牙をむいているように感じます。
リモートなどの可能性を開いた、とも思う。でも、それは学校制度なんてなくてもいいんじゃない?というベクトルを向いているんじゃないかな。
ぼくたちは、はからずも学校教育制度の死に向き合っているんじゃないだろうか?けっこう真剣に、そう思ったりする、カンボジアでの静かな日々です。


















小学3~5年の練習ができていない、、どんな状態か、想像できます。「どうやって進級試験に合格できてきたか?」それは、算数という教科で、計算力があまり重要視されていないからだと思います。例えば、5年の教科書に帯分数を仮分数に直す問題が出てきますが、先生方が重視しているのは、その直し方「帯分数を仮分数に直すには、分母を整数にかけた答えと分子を足して分子に書き、分母はそのまま残す」という文を覚えさせることであって、実際に帯分数を仮分数に直すことではないように思います。黒板に書いたその文をノートに写させ、はじめはそれを音読、次に黒板をかくして暗唱させたり、一列ずつ立たせて暗唱させたり、その文を覚えさせることに授業時間のほとんどを費やす。その下に10題ほどある練習問題の多くは宿題になってしまうので、他の子の答えを見せてもらって翌朝提出している子は、できるようになりません。
そもそも数学は、定義や公式こそ大事で、それを使って問題を解くほうは、時間があればやると良いという考え方なのではないでしょうか。抽象的なほうが具体的なことより上に位置していると考える。禅問答のできる僧は、お経が読めるだけの僧より格が上という感覚なのかなあ?理科でも、カンボジアの先生方には「実験は法則を学ぶために時間があればやっても良いのではないか」といった感覚があると思います。道具がないとかいう問題以前に、何でも「理論が上」と思っているのではないでしょうか。その精神世界を尊重しつつ、「でもやっぱ、実験しないと確かめられないよね」と思ってもらうにはどうしたらよいのでしょうか。
伊藤明子様 いつもコメントありがとうございます。
「帯分数を仮分数に直すには、分母を整数にかけた答えと分子を足して分子に書き、分母はそのまま残す」という文章を暗唱する・・・ってのは、なんともブラックジョークのような風景でございますね。
計算問題は宿題になって、実は先生の私塾で解法は教えたりしているようにも想像します。私塾に通わないと進級できない(逆に言えば、私塾に通えばたとえ試験のできはあまり良くなくても進級できる?私塾で試験の内容は教える?)。
各学年を教える先生は、その学年を何年も続けて教えている事例が多いようにも思います(これはカンボジアだけの問題ではなくて、実は多くの途上国がこの問題を抱えているように思っています)。そして、毎年同じ授業計画ノートを使っている。だから、先生は他の学年(その学年より前の学年)で何を勉強してきたかはあんまり知らなかったりする。結局、その学年の内容だけを抑えておけば、先生も生徒もOK、で進級となる。それが11回繰り返されると12年生になって、G12国家試験では12年生の教科書の内容からだけ出題される。そんな状況なんじゃないかなぁ。系統だった学習が重視されていない背景はここにもありそうです。
結局、文系の学習法、つまり教科書の記述を覚える、というのが算数や理科にも応用されてしまっているんじゃないでしょうか?特に小学校は一応ひとりの先生がその学年の教科を全部教えますから、その先生がどちらかといえば文系で育ってきた方だと、算数や理科も文系っぽく「教科書の記述を覚える」ことに重点が置かれてしまう。計算力は、実は先生もあんまり自信がなかったりするので、ついつい後回しになる。そんなことが背景にあったりしないでしょうか?
これは、ずいぶんと深い問題なのだなぁと改めて思いますね。
ここ10年のPTTC卒の若手教官とそれ以前の教官との間に差は出てきていないだろうか?そのあたり、ホントはしっかり調べてみたいところです。途上国の教育開発に興味のある大学院生が調べてくれないかなぁ。調べる人がいたら、リサーチ計画とか積極的に支援するんだけれどなぁ。新しく大学化されたプノンペンとバッタンバンの教員養成大学で集団でリサーチかけるとかやってくれたら楽しいのになぁ。
機会があったら関係者けしかけてみなくちゃいけませんね。
村山哲也
「新しく大学化されたプノンペンとバッタンバンの教員養成大学で集団でリサーチかけるとかやってくれたら楽しいのになぁ。
機会があったら関係者けしかけてみなくちゃいけませんね。」という意図は、カンボジアの若い教員候補の人たち、つまり教員養成大学の生徒が卒業論文みたいな感じで、現在の算数の教え方、計算力向上の方法、みたいなあたりをリサーチしてくれないかなぁ、という意味です。
カンボジアの人たちが、カンボジアの教育の現状をリサーチすることには、とても意味があると思うのですけれどねぇ。
村山哲也
その通りですね。プノンペンと田舎の格差をちゃんとわかってほしいです。都会で私塾が盛んだった頃に小学生だった人たちが、今、大学生になっていますよね。私塾というか教員の副業は、今は取り締まりが結構あって、以前のように堂々とはできないようで、子供たちも英語塾やらパソコン塾やらで忙しいので、以前のようにクラスそっくり午後私塾みたいなのは減っていると思いますが。英語塾というか、英語学校といっても良いかな、英語で算数を教えている学校もありますね。午前午後違う制服を着て別の学校に通う、そしてそれを父母が送り迎えするので、これまた大変という風景もよく見かけます。
一方、田舎はもちろんそんなことありませんから、相変わらず「かけざんとわりざんは、足し算と引き算より先に行なう」と暗唱して練習問題をしないような世界があったりします。ブラックジョークじゃなくてまじにやってます。教員養成大学の卒論で、田舎の学校の実態調査をしたら、学生の良い勉強になりますね。
文科系でも「科学的な考え方」つまり理詰めで物を考えていくこと、は大切だと思います。それを算数で学んでほしいと思うのですが、算数の教科書がいけません。1年の引き算の一番最後の問題が17-4ですが、2年で少し「借りなしの2桁の引き算」をやった後、初めてさせる「借りのある引き算」が32-7なのです。その前に12-7 とか、15-8 とか、13-9とか、練習しなくては、子供はできるようになりません。
そういうスモールステップを大事にしようという動きが出てこない根本のところに、理解より知識を重んじるというカンボジアの学者の傾向があるのではないかなと疑っているのですが、どうでしょうか。
伊藤明子様
教科書に掲載されている演習や問題が、生徒の学習の実際に適応していない(難しすぎるとか、系統だっていないとか)という問題はもう20年前から指摘されていることです。小学校の教科書作成支援には、USAID(米国のODA機関)が支援をしたことがあるのですけれど、教科書の細かい記述までは支援の手が回っていない印象です。USAIDが質的な支援をしたのは、いわゆるLIFE SKILLという分野に限られていて、残りは制作費資金援助にとどまったのだろうなぁと想像します。以前、国家試験の支援をしたオーストラリアのODAも、質的なところには入り込めていなかった。試験結果の電子データ化では成果を上げているのだけれど、試験の質はなかなかタッチしきれない。そこにはクメール語というローカル言語が使われていることも一因になっていると思います。
以前から、カンボジアの「編集力」という分野の変化のなさが気になっています。どんな教科書を作るか、というイメージ作りからのリーダーシップ力がここ何年も向上していないような気がして仕方がないのです。結局、ライターを配置して、あとはライター任せの教科書づくりが続いているのではないか。編集と称してやっていることは、いわゆる校正が大部分だったりする。編集力を上げる支援としてどんなことができるのか、どうやってそこで優秀な人材を養成するのか?そこがなかなか難しくて、うーむ、と悩んでいるのであります。
個人的には、いい本を作っていくこともひとつのきっかけ、見本の集積?にならないかなぁ、なんて思いながら、今仕掛けを考えているところなんですけれど。自分の残り時間を考えると、10年20年なんかすぐに経ってしまうので、さて、間に合うのか?????
とにかく、教育って本当に重層的で、どんなに先走りしてもその社会で消化されないものは通用しないし、本当に難しいと感じます。その点では、すでに50年近く経ったとはいえ、人材が一気に粛清されてしまったあの時代の影響は今でも続いていると痛感します。
で、クメール語で出てくる本は、いわゆる啓発本が一番多いし。そこもなんというのかなぁ、表層的で、隔靴掻痒の感がして仕方がないのですよねぇ。
でね、伊藤さん、今度、数学の現状把握本を書きません?最終的にはクメール語にして出しましょうよ。書いてくれれば、あとはなんとかする。もちろん、原本は日本語で。やろうやろう。
ぼくは、今回の議論でも改めて思ったけれど、カンボジアの先生や学生さん向けに、理科史を書くつもりです。人類の貴重遺産である理科がどんな営みで今日まで開かれてきたのか。それをきちんとまとめることで、それを読んだ人たちが、理科が理論だけではなくて試行錯誤や事実誤認を含みながら歩んできたことを少しでも体感してもらえたら、と思うのです。特に、最近の生徒中心の学習法の世界的な広がりの中で、理科史はちゃんと勉強する機会が減っていると感じるので。
村山哲也
あら、井の頭線で書いたのが消えてしまった!理科史、カンボジアの科学の歴史?アンコール遺跡をたてた技術力と今の計算力が結びつきません。算数現状調査ぜひやってみたいけど、先生たちに叱られそう!
伊藤明子さま
カンボジアの科学の歴史じゃ、一冊の本にするだけの内容が私には集めきれません。
けれど、第一章?はじめに?は、アンコールワットと科学のことを書こうと妄想しています。
エジプトのピラミッドは今から4000年前の建造物。それに対してアンコールワットやアンコールトム
などのアンコール遺跡は、古くても1000年ほど前で、せいぜい700年ほど前のもの。
エジプトのピラミッドの建築想像図と、アンコールワットの建築想像図、両者にそれほど大きな違いはないように私には思えるのです。
どちらも、人力が主力。てこの原理はどちらでも応用されていたでしょうし、科学という点では、東西南北の計測はどちらもしっかりと取り入れられている。おそらく星の観測と暦の作成は、どちらの権威制度も取り入れていたでしょう。では、数千年の時を挟んで、アンコール遺跡時代にはあって、エジプトのピラミッド遺跡時代にはなかった科学とはなんだろうか?
エジプトには、ミイラ文化があったことで、おそらくある種の化学もあった。アンコール遺跡時代はどうでしょうか? なんてあたりから紐解いていけたらと思っているのです。そこから後は、基本は通常扱われる近代科学史。天動説から地動説への転換から、ニュートン力学、さらにはアインシュタイン物理への流れ。生物ではやはり革命的なのは進化論。化学は、錬金術から分子論、元素の発見。地球科学は、じつはもっとも科学として歴史は長いのかも知れない中で、やはり宇宙の(人類の知識としての)拡大。太陽系から、銀河系、銀河系外宇宙、ビックバン……。
そこにある発見の歴史とつながりと、面白いエピソード。等々、あぁ、時間が足りない!
村山哲也