矛盾1 野球について
野球とサッカー、世界に広まっているのはもちろん、サッカー。
サッカーの良いところ。まず、ルールが簡単。オフサイドがちょっとややこしいだけで、初心者でもかんたーんに遊べます。審判の役割は、単純にいえば、無理やりな危ないプレーに笛吹くということ。そういう乱暴なプレーがない限り、審判は登場しなくてもゲームは続く。必要な道具は、とりあえずボールさえあれば、なんとかなりそう。さらに加えたいのは、安全。サッカーボールがちょっとあたったぐらいでは、そうそうは大怪我にはつながりません。
野球は、とにかくまずルールがむずかしい。投球ごとに審判のコールが必要だし、打球が飛んでもいちいち審判・塁審が登場します。それもちょっとうっとおしい。道具もいろいろ必要です。ボールはもちろん、バット、グローブ、捕手の防具…。さらに、硬球は固くてあぶない。ファールが飛べば、その危険性はフィールド外にも広がります。
そういうことで、野球を世界に広める?うーん、正直に言ってしまうと、野球を広めることにぼくはあんまり興味がないのです。サッカーのほうがいいですよ、広めるなら(もう、広まっているけれど)。
でもね、ぼく自身は、子どものころから野球に出会ってしまって。やればやるほど楽しくなって。選手時代も楽しかったけれど、高校野球の監督もとてもおもしろかった。どうやってうまくなるか、どうやって勝てるようになるか、考えるのも好き。
ということで、今でも野球ファンではあるのです。
けれどね、途上国で野球を広めるってのは、どうなのかなぁ。一番気になるのは、怪我です。硬球が頭に当たったら、怖い。どのスポーツ、サッカーだって、事故はある。けれども、その確率や、起こった事故の深刻さを考えると、野球のほうが危険だと思います。
けれど、たとえばカンボジアで、カンボジアの人が野球をやり始める。別に、ぼくがオススメしたわけではなくて、ね。そしたら、一緒に試合しましょうってなりますよね。子どもたちが野球やっていれば、どうせなら正しいルールでやってね、ってことになる。
たまたまそんな風に、ぼくはカンボジアで野球を応援するようなことをちらっとやっていました。なんとも不思議なご縁です。プノンペンに戻ると、また子どもたちの野球ゲームに出かけて、審判をやりたくなるのだろうなぁ。ちょっと楽しみ。
そもそもですね、幼いころのぼくは、男っぽいとかいう価値観に影響されちゃってたんですね。で、そのころ出会ってしまった野球の中の糞アナクロ的な価値体系にも一回は染まっちゃってたと思います。閉鎖的なクラブでの先輩と後輩の密な関係性みたいなものを良しとする、みたいな価値観を持っていたのです。今もあるかもなぁ。ケッと思いつつ、捨てきれてないみたいなものが、ぼくの中にある。矛盾です。
閉じているとか、開いているとか の事例
出入りの自由のないグループって、よろしくないなぁって思うのです。たとえば、ぼくはプロ野球では広島カープのファンなのですけれど、知らない方とお話していて、その方がカープファンだったりすると一気に意気投合するみたいなことってあるんです。球場でカープの応援をするときには、そのときだけの「一体感」みたいなものを感じたりする。勝てばみんなで喜ぶ。
そこにある「仲間意識」ってのは、かなり出入り自由なものがあります。共通項はカープファンってだけで、それ以外はどうでもいい。明日、路上ですれちがっても誰だかもわからない人と、そのときだけの仲間意識。さらに、無理して一体感を感じる必要もなくて、ひとり離れて応援するってのも、ありです。
それに対して、出入りの自由がないってのは、たとえば海外の「日本人会」みたいなもの。日本人以外は、入れません、って雰囲気。”日本人でない者は、どんなに努力したって“日本人”にはなれないですよね。
多分、そのあたりが、カープファンの仲間意識と違うんだと思うんです。昨日まではタイガースファンだったけれど、今日からはカープファン、ま、実際にそういうことは多くはないでしょうけれど、そんなことが起こってもいい。
けれど、“日本人”という種類のカテゴリーには、そういうことが起こらないわけです。そこが出入りの自由がないってことの意味かな。ぼくは、そんな閉鎖性があんまり好きじゃないんです。
カンボジアのソフトボール(野球)仲間は、日本の人が多いです。そして、そのソフトボールの集まり(グループ)は、現在は日本人会の一支部みたいになっているようです。
実は、ずっと昔(といっても10年ちょっと前)、ぼくがそのソフトボールの集まりと出会ったころ、そのころもプレーヤーは日本の人が多かったのですけれど、その集まりはあえて日本人会とは距離をとっているようなところがありました。ソフトボール(あるいは野球)好きが集まってプレーするというスタイルを固持したがるような雰囲気があったのです。日本人の集いにはしない、みたいな。フランスの人、アメリカの人、台湾の人、韓国の人、フィリピンの人、カンボジアの人……、彼らも別にお客さんではなく、好きなら一緒にやりましょうって感じ。
2000~2010年のころは、カンボジア在住の日本人は今と比べて少なかった。だから、ソフトボールの集まりも、多くても20人ぐらい? 今のカンボジア、特にプノンペンは日本人の在住者が多くなりました。で、週末に集まるソフトボールの集まりも、いつも数十人あつまります。4チームぐらいできてしまう。そして、いつしか、日本人会とシンクロ度が高くなりました。日本人以外の人も来られますけれど、ちょっとお客さんっぽいです。
どっちがいいとか悪いとかじゃありません。けれど、日本の人以外にとっては、今のソフトボールの集いは、前よりも閉じているだろうなぁってぼくは感じるけど。もちろん、今でも日本人以外の方も来られています。もっと増えたら面白いのになぁ。
矛盾2 同窓会のようなものへ親和、と警戒感
日本人会もそうですけれど、学校の同窓会ってのも、かなり閉じているって思うんです。だって、特定の学校の卒業生しか、その同窓会のメンバーにはなれないわけですよね。出入りの自由がない。
自由がないと言ったって、そんな集まり、嫌なら参加しなければいいわけですけれどね。実際、おられますよね、そういう同窓会的なものに背を向ける姿勢って。その点では、入る資格を得るのはむずかしいですけれど、出ていくのは簡単かなことかもしれません。
ぼくは、引っ越し引っ越しが多かったので、小学校中学校時代の人たちとは、今ほとんど縁がありません。また、ぼく自身、小中学校時代の自分自身があんまり好きじゃない。だからあんまり振り返りたくありません。
けれど、高校の仲間とはわりとつながっております。同窓会があれば、顔を出します。幹事もやっちゃったことがある。彼らと会って話をするのは、けっこう楽しみです。でも、やっぱりあれは閉じてるよねぇ。だから、あんまり寄りかかってはいけないなぁとは思ったりもするのです。
数週間前、4人で集まって同じ空間でおしゃべりを楽しんだのです。全員、同じ高校の卒業生。ぼく以外の3人は、ぼくより2期前の方々、つまりぼくにとっては皆様、同窓の先輩です。その3人の方は、同期で、すでに昔からのお知り合い。ぼくにとっては、初めてお会いする先輩もひとりおられました。
でもですね、同じ高校卒業生ってこともあったのでしょう、とても優しく明るい時間だったのです。あぁ、やっぱりこうやって顔をあわせて話すって楽しいなぁと、ぼくは改めて感じました。Zoomで顔を合わせて話すという選択肢もあったのでしょうけれど、でもZoomではあそこまであの時間は濃厚にはならなかったと思いました。
でね、改めて、同窓ってことの怖さも感じるわけです。閉じてるって、強いんだよねぇって。
初めてお会いした方が、ぼくに対して親しく接してくれた理由のひとつが、やっぱり同窓なわけです。後輩、こいつを応援してやらなくちゃな、って感じで接してくれた。とてもありがたい。嬉しいですよ、そりゃ。
一方で、用心用心、なんて思っているのです。用心ってのは、同窓でなにかがチャラになってしまうことに対してでしょうね。同窓という閉じたものに、あんまり寄りかかっちゃだめだよ、ってやっぱり思うのです。ちなみに、先日の4人の集まりが暖かかったのは、単に同窓生ということだけではなくて、きっとかなり近い価値観も持つ者同士の集まりだったということがあったのは間違いありません。おそらく、同窓以上に、その価値観の共有が大事だったのでしょう。価値観であれば、誰でも入れる、開いているよね。同窓でなくても、価値観の共有で集えていたのだと振り返れば、そうそう、そうだったんだなぁ。むしろ、そっちを意識したほうがいいよね、って思う。楽しかったのは、同窓だけではなく、価値観の似たものが集まって話したからだ、と。
高校の同窓会が楽しいのも、そういう価値観の親和性があるからなのかもしれないなぁ。同窓だからって、きっと楽しい集まりになるとは限らないはず。
そういえば、ぼくが何冊も本を読んで影響を受けている上野千鶴子さん、最近日本オリンピック委員会会長を辞任したMoさんと同じ高校だそうですね。Moさんが先輩で、上野さんが後輩。ねぇ、同窓だからって、安心できないですよねぇ。お二人の価値観、かなりかけ離れている印象だもんなぁ。同じ学校の卒業生だって、同じ国のパスポートを持っていたって、安心できないのは、むしろ当然でありますよねぇ。安心しちゃうメンタリティーが、むしろ問題なんだろうなぁ。チャラにしちゃうってことが、ね。
今回は、ちょっと頭でっかちの話となりました。反省。 ではでは、またまた。
コメント、いただけたらとても嬉しいです