11月20日の投稿で、
「ODAでは実験はしない。成果の上がるプロジェクトだけを実施する。税金を使う以上、ODAでは失敗は許されない」というODA実施機関のスタッフが語った言葉を紹介して、「税金を使う以上、ODAに失敗はゆるされないのか? ぼくの答えはNoだ」と書きました。(11月20日の投稿は以下)
なぜ、Noなのか。まず単純に、事実として成功でないODA援助プロジェクトは存在しているからだ。最近ではアフリカのモザンビークで計画されていた「プロサバンナ事業」という大型農業プロジェクトが取りやめになったことが話題になった(日本の援助史に残る「失敗」/アフリカ小農が反対する「プロサバンナ事業」中止へ(上) – 舩田クラーセンさやか|論座 – 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com))。中止にいたるまでに35億円が投入されたという。
こんな大きなプロジェクトではなくとも、成果が上がらないまま終了したプロジェクトも少なくはないはずだ。ある意味、当然だと思う。援助には「やってみなければわからない」部分はどうしてもある。ほとんどの援助は、その成果指標で、なんらかの経済成長への貢献を示そうとする。でも、そのときに1997年のアジア通貨危機や、2008年のリーマンショックでも起きれば、マクロ指標は何をやってもアウトだ。もちろん、それを「失敗」と呼ぶかどうかはさておき、うまくいかないプロジェクトの存在は避けられない。
そんなときに「ODAは失敗がない」とすれば何が起こるか。早い話は、粉飾だ。とりつくろい。ここであれこれ説明は要しないだろう。プロジェクトから上の方につながる報告の連なりの中のどこかで、あるいは何か所かで、悪気の有無はさておき……。
はっきり書くと、それが《それほど悪いこと》とはぼくは思っていない。組織というものの中で、そういうことはあるのだろうと思う。いろんな人がいる、ってことの一側面なのかもしれない。世の中、心の強い人もいれば、弱い人もいる。もちろん、粉飾のような類のことは誉められたことではない。度がすぎれば、それは罰を受けることになるだろうし、そのときは受ければいい。そして、それは「税金」だろうとなかろうと、「ODA」だろうとなかろうと、同じことだ。
ぼくが「税金を使う以上、ODAに失敗はゆるされないのか? ぼくの答えはNoだ」と強く思うポイントは「失敗はゆるされない」という点にある。
失敗のないODAと、事故のおきない原発と、ルワンダとカンボジアでの虐殺と、アイヒマンの「凡庸な悪」と…
1990年、青年海外協力隊(以下、協力隊)に参加したときのこと。
日本を発つ前に3ヶ月ほどの合宿訓練があり、語学を中心にさまざまな研修プログラムを受けた。20代前半から30代後半までのいろんな背景の青年200人ほどが同じ場所で3ヶ月過ごすのだから、なかなか濃くて印象的な日々となる。
そんな中に現職参加という制度を使って電力会社の社員が何人かいた。おそらく今もそうではないかと想像するけれど、東京電力はじめ大手の電力会社は、希望する社員を毎年数名、海外での2年間のボランティア活動に派遣する制度があったんだ。10回近くその制度に募集して、ようやく念願かなったなんていう人もいた。
合宿訓練中に、そんな彼らといろんな話をしたけれど、彼らが一様に「原子力発電に事故はない」と語っていたことをよく覚えている。原子力発電所は、絶対に事故のない設計になっているとのことだった。
いや、でもさ、絶対ってありえないでしょう?万が一ってときは、どうするのさ?広島や長崎の原爆の放射能は、世代を超えて健康被害を起こしているでしょう?、なんてこっちが原子力エネルギーを使うことの危険性を憂いても、彼らは「大丈夫、事故はありえない」と胸を張ったのだ。
でも、小さな事故は頻発していたし、そして福島第一発電所の事故は起きた。今、彼らは「あれは想定外だった」と語るのだろうか。
さらに話を広げる。
協力隊参加後、途上国での教育開発支援に関わり続けたぼくは、カンボジアとルワンダとという20世紀の後半に大きな虐殺を経験した国で働いた。それは開発支援に関わる者としてやりがいのある日々だったわけで、そして、当然、その虐殺の歴史に向き合うということでもあった。
1994年のルワンダ虐殺後に取材を続けた米国ジャーナリスト、フィリップゴーレイヴィッチは、1996年、隣国の難民キャンプから虐殺時の住居に戻った46歳の男性を訪ねて話を聞いた。
男はジャン・ギルムハツェと名乗った。わたしはあなたの名前は知っている、一家を皆殺しにしたという噂を聞いたからだ、と告げた。「そのとおりだ」とギルムハツェは言った。「わたしはすぐそこの検問所の責任者だったから、わたしが殺したと言われているんだ」ギルムハツェは家のすぐ近くを通る道路を指さした。「今は全部おさまっている。だがあのとき、あのころは、我々は国から殺せと命令された。その義務があり、さもなくば投獄されるか殺されると言われたんだ。我々はこのゲームではただの歩でしかなかった。ただの道具だった」[i]
1975年から4年近く続いたカンボジアのポルポト政権時代、トゥースレン政治犯収容所所長だったカンケクイウ。彼は、ポルポト政権時代の虐殺を裁くために設置されたカンボジア特別法廷で、一万二千人とも言われる収容所での殺戮の責任を認めつつ、その行為の理由として「上層部からの命令に従った結果」と証言している。
ナチスによるホロコーストの象徴的存在として、アドルフアイヒマンがいる。アイヒマンはドイツが占領した欧州各地からポーランドの絶滅収容所へユダヤ人を列車輸送する職務の責任者だった。ナチスドイツが倒れてから15年後の1960年、名を変えて家族で平穏に暮らしていたアルゼンチンで彼は逮捕され、イスラエルでの公開裁判後に1962年に絞首刑となる。その公開裁判で、アイヒマンは「命令された仕事だったから」という主旨の答弁を繰り返し、傍聴した哲学者アンナハーレントは、あまりに小市民的な彼を「凡庸な悪」と称した。
「我々は国から殺せと命令された」と言ったルワンダのジャンギルムハツェと、「上層部の命令に従った」と証言したカンボジアのカンケクイウと、「私の罪は従順だったことだ」と語ったドイツのアイヒマンと、原発の安全神話を信じていた電力会社職員と、ODAに失敗はないと語ったODA実施機関スタッフと。
みんな、細い線で繋がっている、とぼくは思う。もちろん、加害に直接かかわることと、組織の論理を唱えることの間には、「手をくだしていない」というとてつもなく大きな違いはある。でも、発言や行為に際して、語り手や実行者個人の顔が消えてしまっているのは同じだ。
指示と解釈。あるいは黙認。そして忖度と暴走。これらの言葉はオウムがなぜあれほどの犯罪を起こすに至ったのかを考えるうえで、とても重要です。さらに付け加えれば、ほとんどの組織共同体が過ちを犯すときの主要な要因です。[ii]
これは、オウム事件にこだわり、死刑にこだわり、つまり人が人を殺すことにこだわり続ける作家森達也の発言だ。殺すことからはずっと遠いはずの小さな罪――例えば、裏帳簿や、文章偽造や、統計操作や、小さな粉飾や、書いてもいいことを書かない行為、見ないことにする態度――も、そのすべてが「指示と解釈、黙認、そして忖度と暴走」の結果だろう。一度越えた境界は、どんどん低くなる。そして次の境界が現れ、それもまた超えることで低くなる。その結果、小さな暴走が始まりゆっくりと加速する。
ジャーナリストの田原牧は、無名の善意の人たちが組織の中に飲み込まれ、結果として加害者になっている様子を次のように書き表している。
旧原子力安全・保安院の職員にせよ、東京電力の社員にせよ、私が取材で会ってきた人びとの大半は真面目な善意の市民である。彼等の多くは日々の糧のために、国策や原子力ムラに服従しているわけだ。
しかし、その姿勢が結果的には、犯罪的なシステムを支えている。善意の個々人は無責任が加害者でもあるのだ。その姿はハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」と評したホロコーストの下手人、アドルフ・アイヒマンの心情と本質的には変わらない。[iii]
「ODAでは実験はしない。成果の上がるプロジェクトだけを実施する。税金を使う以上、ODAでは失敗は許されない」と、ぼくに語った人も、真面目で明るい誠実なひとだった。彼は、ルワンダのジャンギルムハツェのように隣人をナタで切りつけてもいないし、カンボジアのカンケクイウのように殺人収容所を管理しているわけでもない。その彼を、「殺す」というステージに上げて語ることは酷だと思う。
でも、ODAの失敗ぐらい、認めましょうよって、今ならしっかり彼に伝えたい。そうじゃないと、ぼくたちは「殺す」につながる「凡庸な悪」というレールの上に乗ってしまいますよ、って。
まだ人権なんて存在せず、疫病や飢餓や殺戮が日常茶飯事だった、そんな中世の時代ならいざしらず、21世紀に存在しちゃってるぼくたちがもっとも回避すべきこと、それが「殺す」につながるすべての行為なんだとぼくは思っている。だから「ODAに失敗は許されない」なんてことはないと、ここで書いておこうと思います。
[i] フィリップ・ゴーレイヴィッチ/著 柳下穀一郎/訳 2011『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実〈新装版〉』WAVE出版 414ページ
[ii] 森達也・深山織枝・早坂武禮/著 2017『A4 または麻原・オウムへの新たな視点』現代書館 引用は対談の中の森達也の発言 149ページ
[iii] 田原牧/著 2014『ジャスミンの残り香「アラブの春」が変えたもの』集英社 95ページ
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