ヨルダンまでぼくを追いかけてきた『ルワンダの涙(Shooting Dogs)』

苦行(?)のような映画体験

 映画狂、というほどではありませんけれど、でも映画って好きなメディアです。
 高校野球部生のころ、たまに練習が休みになると、学校を休んで都内の名画座スタイルの映画館で1日過ごしたりしたものです。名画座スタイルとは、すでに公開されてから時間がたっている映画を、2本立てで安く上映するようなところ。ときどき、その映画座のはしごをしたのです。昼前から見はじめて、早い夕方に映画館を移動して、全部で4本の映画を見て、帰宅するのはもう夜も遅くなってた、なんてことを懐かしく思い出します。1日4本の映画を見るなんて、いまはもう体力も集中力も続かないよねぇ。若いって、バカバカしいけど、すごいよなぁ。
 ぼくが高校生のころは、まだVHSも出回っていなかったんじゃないかな。ということで、ぼくの世代は、映画は映画館で見るものだった、最後の世代かもしれません。

 2002年に赴任し、自分の年齢では30代後半から10年ちょいを過ごしたカンボジアでは、映画のDVDが安く手に入りました。21世紀にはいったころのプノンペンで入手できたそんな安価なDVDは、おそらくほとんどが違法コピーによるものだったでしょう。著作権を尊重するという価値観は、なかなか世界中に広まるというわけではありません。
 違法コピーで見るなんて申し訳ないと思いつつ、それでも見損ねた映画のDVDをマーケットで見つけると、購入してよく見ていました。

 ぼくが映画が好きな理由のひとつは、行ったことのない場所、日々、を追体験できることにあります。映像には文字とは違う力があって、自分の乏しい想像力を鍛えてくれるようなところがあります。
 たとえば、トムハンクス主演の『プライベート・ライアン(Saving Private Ryan)』(1998)で描かれるノルマンディ上陸作戦のリアリティは、単に歴史の教科書を読んだだけでは到達できない。上陸前の兵士の震える手、感情に任せて投降する敵兵を撃ち殺す状況……。
 あるいは、映画を通して、知らなかった生活、知らなかった人たち、が、自分の心の中の小さな部分を占めるようになる。『ミシシッピー・マサラ(Mississippi Masala)』(1991)という映画では、インド系ウガンダ人がインド系であるゆえにウガンダから追われ、米国に移民して…、という状況が描かれます。インド系であろうと、主人公にとってアフリカのウガンダは生まれ育った故郷です。そして、主人公の娘(インド系ウガンダ人ファミリーの米国育ち)が恋に落ちるのは、アフリカ系米国人(若き日のデイゼルワシントンが瑞々しい!)。そんな「マサラ(様々な香辛料を粉状にして合わせたもの)」な社会は、ぼくの日常生活の周辺にはないものでした。けれど、映画を見ることでその存在を知ることになる。知ってしまった「マサラ」は、もう知らないものではなくなり、その後の世界の多様性を理解することに、つながっていったかもしれません。

 だから、ぼくが選ぶ映画は、ついつい自分の知らなかった世界を追体験できるものが多くなります。さらによく見たのはドキュメンタリー系の映画。事実を切り取ったドキュメンタリーも、それはあくまで製作者の主観に基づいているんだ、ということがよく言われます。つまり、ドキュメンタリー映画を通して、「自分でない者」の視点を知るというのは、刺激的なことでした。

 太平洋戦争のパプアニューギニア戦を生き延びた奥崎謙三の戦後36年を撮った原一男監督の『ゆきゆきて神軍』(1987)や、オーム真理教事件を題材にした森達也監督の『A』(1998)、『A2』(2001)など、とても印象深い。

 そんな刺激を求めて映画を見ることが多いのですけれど、ひとつ、大きな問題があります。それは、そういう映画は、見ていてとても疲れることが多いのです。映画館を出るとき、ずっしりと重たい気分になっている、なんてことが少なくない。「いやぁ、楽しかった」と幸福感を高揚させるような映画とはなかなか縁がなくなっていく。なんでわざわざお金を払って、苦しい思いを「追体験」しているのか????と、ときどきため息も出ちゃうのです。

『ホテル・ルワンダ』

  さて、2000年代のカンボジアで、週末に見る映画DVDをよく漁っていたようなころ。
 1994年のルワンダでの虐殺を題材にした映画が、ぼちぼちと市場で出回るようになりました。その筆頭格と言っていいのが『ホテル・ルワンダ』(2004)でしょう。日本ではなかなか上映される機会がなかったこの映画が、有志の署名活動の結果ようやくミニシアター系で上映されたというニュースが流れたのは2006(平成18)年でした。当時、カンボジアにいたぼくは、インターネットでそんなニュースを読んで『ホテル・ルワンダ』という映画の存在を知ったのだと思います。
 もちろん、ルワンダの大虐殺のことは知識としては知っていました。そして、それまでの経験から、映画によってその知識が追体験されるのだろうこともわかっていました。でも、気が進みませんでした。どうしたって、辛い映画です。DVD屋で『ホテル・ルワンダ』をよく見かけ、けれども、なかなか手が伸びませんでした。「見なくては」という変な義務感があったものの、見る前から辛くなってしまうような気持ちにぼくはすっかり怯んでいたのです。

 虐殺の記憶は、カンボジアでも感じることでした。1970年代後半のポルポト時代に、200万人(当時のカンボジアの人口の4分の1から3分の1程度)が亡くなっています。そのこと抜きに、カンボジアの教育セクター支援の意味は語れない、とも思っていました。それは、自分の中では「大きなやりがい」でもあった。他人事になってしまいがちな他国の歴史を、自分にどう引きつけられるかということも、カンボジアでぼくが学んだ大きなことでした。
 そして、だからこそ、ルワンダの虐殺についてももっと知りたいと思っていました。でも、もう、見る前から辛いのです。……きっかけは何だったのか、わかりません。でも、ある日『ホテル・ルワンダ』を見たのです。知識通りの展開が、でも映像というより刺激の強い「情報」として、ぼくに侵入してくる。おそらく、新しい発見はそれほどなかったように思い出します。新しい発見ではなく、知識に映像がくっついて、なにか感情的な部分での理解は少し深まった感じはしたような。
 苦しいけれど、その感情的ななにかは、この世界を理解する上で、知っていていい。特に、「殺す」側に誰もがなれる、というこの世界でなんとか「殺す」側になることを回避するために。

 『ホテル・ルワンダ』以上に、『ルワンダの涙』(2005)という映画の評判がいいことは、なんとなく知っていました。そして、そのDVDもプノンペンで目にしていまいた。
 でも、もう『ホテル・ルワンダ』でお腹いっぱい。もう当分食べたくない。そんな気持ちでした。だから、『ルワンダの涙』のDVDを目にしても、かなり積極的に回避していたのです。

中東ヨルダンでテレビ放映された『ルワンダの涙』

 2002年からかかわったODAプロジェクトは2005年に終了し、けれどその後もぼくは、ODA以外の方法でカンボジアの理科教育の応援をちょっと意地になって続けていました。そして、2008年から始まったやはり理数科教育支援のODAプロジェクトに関わります。
 このふたつのODAプロジェクトの間に、たまたまヨルダンで短期のアルバイトをする機会があったのです。長期なら断っていた仕事でした。けれど、短期であれば、はじめての中東、はじめてのイスラム国、さらには収入の上でも、かなり嬉しいアルバイトでした。2007年ごろ、ぼくは1ヶ月の仕事を2回、つまり合計2ヶ月、ヨルダンで、やはり理科の先生たちと一緒に働いのたのです。

 仕事で海外にいると、さらには短期の場合、ぼくは週末は徹底的に寝ることに努めます。朝寝して、起きて昼を食べたら、また午睡。多くの場合、それで夜眠れなくなるってことはあまりありません。とにかく、疲れを貯めないことを重要視していて、そのためにも週末はできるだけ休養することが大事でした。(特に短期だと)週末に片付けなければいけない仕事もやはりあって、だからこそ余計に空いた時間は寝るのです。

 そんな睡眠と睡眠の合間、テレビをつけると、あれ、なんとなく知っているような映画の映像がながれました。あぁ、『ルワンダの涙』だ。それが明日土曜日の昼間に放映されるというアナウンスでした。あらー、まぁ、なんということでしょう。(ヨルダンの週末は、金曜日と土曜日。日曜は出勤日)
 もしたまたまテレビを付けてそのアナウンスを見なければ、きっと知らないままだったでしょう。でも知ってしまった。どうしよう。

 逃げられない、と思いました。ここで出会ってしまったのだから、もう逃げられない。

 翌日、覚悟を決めて『ルワンダの涙』放映の時間に合わせて、テレビをつけ、しっかりと見たのでした。

 『ルワンダの涙』、原題はShooting Dogs、直訳すれば『犬を撃つ』でしょうか。これは、映画の中で、虐殺に介入することを禁じられたルワンダに国連軍として派遣されていたベルギー軍が、せめて虐殺の被害者の肉を屠る野良犬に銃を向けた(おそらく事実そういうことがあったのだと思います)ことに由来した題名です。

 フツと呼ばれる多数派“民族”が、ツチと呼ばれる少数派“民族”を襲った虐殺の事実に基づいて作られているという点では、『ルワンダの涙』も『ホテル・ルワンダ』も同じです。『ルワンダの涙』が『ホテル・ルワンダ』に増して欧米日という支援国で評判が良かった(とぼくは勝手にそう感じている)理由に、『ルワンダの涙』に出てくる3つの「支援する側」の存在があるのだと思います。この3つの中で『ホテル・ルワンダ』で描かれたのは、1つだけ、国連軍だけです。どちらの映画でも、国連軍はけっきょく虐殺を止められない無力・無能な存在です。(さらに『ホテル・ルワンダ』では報道する側という『ルワンダの涙』では描かれていない「支援する側」も登場しますけれど、この報道する側も虐殺を止められない無力な第三者として描かれます)。
 『ルワンダの涙』で登場する残るふたつの「支援する側」とは、虐殺以前から支援を続けていた人たちです。そして、その支援者たちは、ひとりは結局ルワンダを去り、つまり生き残り、ひとりはルワンダに残り、つまり殺されます。

 昨年からのコロナ禍で、日本ODAのボランティア機関である青年海外協力隊は、活動中のすべての隊員を帰国させました。この行為を、無理やり上記の『ルワンダの涙』のケースにシンクロさせると、「援助をしていて、でも虐殺の事態に、結局ルワンダを去り、生き残った」立場となります。映画では、それは支援者にとってとてもつらい選択でした。その気持ち、わかるよなぁ。生き残るのも、つらいのだよなぁ。

退避できる“私たち”

 自分がケニアの田舎の学校で働いていたとき、ケニアで国内紛争が起こった際にどう退避するかとういことが話し合われたことがありました。そう、ぼくたちは退避できるのです。
 その後、ぼくはODAの末端にかかり続けたぼくは、次のような意見にも出会いました。

「紛争が起これば、支援者は退避すべき。支援者が残ることは、結局、その社会の人たちにも迷惑をかけることになる。通常の生活の中で役に立つ“技術移転”は、紛争中は多くの場合まったく役に立たない。望まれる成果を出すこともできない。ならば、去るべし。」

 はい、今のぼくも、大まかこの意見に賛同します。(アフガニスタンの中村医師のようなケースもありますよねぇ。彼と彼を支えた人たちは、はやっぱりすごい!)
 「大まか」と書いたのは、どうしたって例外はあるだろうから。去るべし、でも、去れない状況はあるだろうから。たとえば、ぼくの家族である妻や義理の両親は、日本国パスポートを持ちえない人たちです。何かのとき、彼女たちを置いて「去る」ことができない状況はぼくにはあり得ます。それは特殊例だけれど、でも、けしてごくごく少数でもないでしょう。

 さらに支援者としてだけではなく、異邦人ではあるけれど、でも生活者として異社会で生きる人たちもいる。そうなれば、支援者として以上に、「去れない」ことは出てくるでしょう。友人たちを見捨てて逃げられるのか?財産を捨てて、逃げられるのか?生活を捨てて、退避できるのか?

 そんな問いは、きっと歴史上、かなり“普遍的”なものなのでしょう。そして、『ルワンダの涙』はそんな普遍的な問いを取り上げたこと、つまり虐殺という問題に付随する退避できることのできる者たちの「葛藤」を描いたことで、支援する側が多い「退避先の社会」で、広く共感を得たのだとぼくは思います。
 ヨルダンの小さな宿の一室で、ぼくも引き込まれました。まさか、それから数年後に、自分がルワンダで仕事をすることになるとは、想像もしていなかったときのことです。

 乾いた抜けるような青い空と首都アンマンの白っぽい建物とのくっきりとしたコントラストはヨルダンの強い印象としてぼくには残っています。そういえば、『ルワンダの涙』に見入ったあのホテルの一室も、白い部屋だった印象があります。その部屋で、くもりガラスから差し込む明るい日差しの中、テレビ画面の中の緑や褐色や赤といった色鮮やかなアフリカの世界が輪郭濃く浮かび上がってくるあの感覚。忘れられません。

 Beyond the Gates、これはこの映画の米国公開時のタイトルだそうです。「門を超えて」と訳せるこのタイトル。邦題『ルワンダの涙』に、Shooting Dogsという原題以外のこんな米語タイトルがあったこと、この投稿のためにちらっと調べていて初めて知りました。しかも、この「門」は複数形です。なるほど。
 ぼくならなんとタイトルをつけるかなぁ。Shooting Dogs犬を撃つ)』という原題、かなりいいと思っているんですけれど、でも、これじゃ売れないよねぇ。でも『ルワンダの涙』……、邦題はちょっとなんですよねぇ。

 

3件のコメント

共に生活し、共に働き、という言葉と裏腹な逃げれる立場の葛藤に悩んだ隊員多かったです。福島の時に感じた失望感もありました。越境後の撤退は現実を突き付けますね。

匿名様
コメントどうもありがとうございます。
想像ですけれど、公用パスポートを返してから、私的に活動場所にもどられたなんて人がいたんじゃないのかなぁ。その気持ち、痛いほどよくわかる。ボク自身、状況は違いますが、似たようなことを専門家時代にしたことがないわけじゃない。。。。モゴモゴモゴ。一部には、もっとも嫌われる行為かもしれませんが。

とにかく、そのときそのときの現実にぼくたちはいつも正しい答えを出して行動できるわけじゃない。何が正しいかもわからない。だから、何かを簡単に批判することはしたくないなぁと思います。
人から後ろ指を指されてもいいから、人の後ろ指を指すな、と若い人たちには伝えたいなぁ。

村山哲也

大学院生のときに、初めて『ルワンダの涙』を観て、映像の強さを実感しました。
PKOの活動の限界や、ジェノサイドという認識が遅れた国際社会に対して、実際にその場にいた人たちの気持ちが『shooting dogs』という題に現れているのかな、など考えさせられる映画でした。
国際社会は、ルワンダでジェノサイドが起きる前にソマリアの内戦に介入し、失敗したその時の経験からルワンダへの介入に消極的だったと、よく?言われてますね。ソマリアでの介入は、『ブラックホーク・ダウン』で映像化されていて、この映画をみると、ある国の内戦に他の国が介入することは、それはそれで不思議な感じがします。
ジェノサイドや紛争が起きた際に編成される国連軍も確か、安保理の決議で通らないと組織できない(ちょっと不明確です…すみません)ので、国際社会の介入は弱いものだな…と思います。紛争やジェノサイドの起こらない世界になるといいなーと…!

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