「貧すれば鈍する」が気になって、書き直しました。
先日、このブログの投稿(「○○ファースト、さて…」6月20日)の中で以下の一文を書きました。
日本ファースト、はい、それはそれでいいですよ。でもね、それは排他的でいいってことじゃない。目を皿のようにして(自分より弱い、叩きやすい)悪者を探すみたいなことが大きな共感を得るって、怖いよ。貧すれば鈍するにならないようにしませうよ。
○○ファースト、さて○○に何を入れるのが素敵なのだろうかなぁ。「自分(たち)」ファーストを声高に言うのは、やっぱり格好悪いと思うわけで。 – 越境、ひっきりなし
この中の「貧すれば鈍する」という言葉が、投稿後も頭の中にひかかって。なんか気になって仕方がないのです。知らず知らずに自分は地雷を踏んだのではないか? その後、上記の部分を以下のように書き替えました。「貧すれば鈍する」の部分は、今後の戒めのため取り消し線をかぶせて残しました。
日本ファースト、はい、それはそれでいいですよ。でもね、それは排他的でいいってことじゃない。目を皿のようにして(自分より弱い、叩きやすい)悪者を探すみたいなことが大きな共感を得るって、怖いよ。貧すれば鈍するにならないようにしませうよ。(この取り消し線の部分、以下に変更します)→ 経済が悪化したからといって、外国からの人たちを攻撃するのは止めましょうよ。税金(けして日本人だけが払っているものではない)は日本人のために使うべき、という言い切りは、良くないです。
貧すれば鈍するの意味は?類語は?
「貧すれば鈍する」の意味を改めて調べてみると、次のようになります。
人は貧乏になると、利口な人でも愚かになる。
先の文章で、私は「お利口な日本の人たちも、最近は経済が悪化したせいで愚かになり、そのために外国人排斥みたいなことがふえている」という意味で「貧すれば鈍する」を読むことになります。
もちろん、「貧すれば鈍する」は、「貧すれば必ず鈍する」ではない。貧しても鈍しない人たちもいるわけで、あくまで戒め言葉として受け取ればいい。はい、私も他者が書いた文章であれば、そう受け取ります。けれども、自分が書いた/使ったとなると、また話は別な気がするのです。
「貧すれば鈍する」の類語として次のような言葉が見つかります。
衣食足りて礼節を知る。
英語でも次のような言い回しがあるそうです(英語をことさら引っ張り出す必要は無いのですけれど、私にはもっとも馴染みのある日本語以外の言葉で、今も使うことがあるものですから、ここはどうかご容赦ください)。
Poverty demoralises. 貧困はモラルを低下させる。
It is a hard task to be poor and leal. 貧しくかつ正直であることは難しい。
これらの言葉が戒めとして使われているのなら、問題はないのかな。でも、「貧しさ」で苦労している人がこれらの言葉と出会うとどんな気持ちになるだろうか。あなたは「貧しい」から、「鈍している」、「礼節がない」、「モラルが低い」、「不正直だ」とたしなめられているように聞こえないか。聞こえるときも、きっとあるだろうと想像する。悔しい気持ちになるんじゃないだろうか?
一方で、清貧という言葉もあります。
清貧とは、お金持ちではないけれども慎ましやかに暮らしていること、あるいは、富を求めず正しいおこないをしていて貧しいこと。さらに、清貧は必ずしも「貧乏」な状況を指すとは限らないそうです。貧乏の場合、お金がなく、貧しい暮らしをせざるをえない。しかし、清貧の場合、お金があるにもかかわらず「物質的に豊かな暮らし」をあえて求めない状態も指し示すそうです。所有するお金やモノが増えると、多くの人はそれらに人生を支配されるようになり、精神的な豊かさが奪われてしまう。けれども清貧の精神を持っていれば、お金の有無に左右されずに慎ましく清い暮らしができる。つまり清貧かつ金持ちもいる。本当かいな? 俺か? ⇦嘘ですよ。
とにかく、「貧すれば鈍する」という言葉は、「貧しさ」と「人のダメダメさ」を強く結びつける言葉です。再度書くけれど、「貧すれば必ず鈍する」わけではないにせよ、一般論として貧しい人は道徳心を欠きやすいと言っているわけです。これ、偏見じゃない? いや、そういう傾向はあるよ、とおっしゃるあなた、それは本当なのかしら?
たとえば、飢餓が深刻化するガザで迂闊に食料を配布しようとすれば、多くの人が我先にとパニック状態になる。弱い者を押しのけてでも自分がその食料を手に入れようとする。それは貧すれば鈍するの事例なのだろうか? それは高いところからそれを見下ろして「やだねー、貧すれば鈍するだねー」って感じしませんか? 私はするのですよ。 貧すれば鈍するというような状況が生まれやすいのは確かかもしれない。いや、確かだろう。でも、それを「貧すれば鈍する」と形容する立場は、なにか安全圏からの高飛車な視線を感じるのですよ。そんなこと言っている暇があったら、その「貧」の背景に目を向けようよ。ガザであれば、何が彼らをそこまで追い詰めたのか? そっちのほうへ訓垂れるほうが大事じゃないのか、と思うのです。
そして「貧すれば鈍する」を一般化することで、私たちはやがて「貧すれば必ず鈍する」という認識に近づいていかないだろうか? 自らは貧しくない人が、貧しい人をみて彼らを鈍していると評価しないだろうか? 「女は地図が読めない」、「男ってのは大雑把だ」、「東洋人は眼が細くて釣り上がっている」、「○○人は××だ」……、そういう偏見促進のことばのひとつが「貧すれば鈍する」なんじゃないかなぁ。そう思うのですよ。
だから、やはり「貧すれば鈍する」に類する言葉を無理して使う必要はない。他のもっと丁寧な言い回しが可能なんだから、そういう表現を追求するのが筋ってものです。
ということで、この件はフィニトー。以下、蛇足で。
「健全な精神は、健全な肉体に宿る」とかもキモいよ。
「健全な精神は、健全な肉体に宿る」という言葉もありますね。だからしっかり身体を鍛えよ、そして健全な肉体を手に入れよ、さすれば精神も健全になるであろうってような意味で使われてます。体育会系マッチョ派には嬉しい言葉?
けれども本来の意味はちょい違うらしい。この言葉、調べてみると古代ローマの詩人であるユウェナリスって人が言い出しっぺであるらしい。そして、ユウェナリス氏が表現したかったのは「健康なる肉体には、健やかな魂が願われるべき(なのに、けれども実際は違う)」という反語を使っての風刺だったらしいのです。
その意味が、やがては現在使われているような健康礼賛、マッチョ礼賛的な使われ方をした。おそらく近代オリンピック(第1回は1896年に開催)の弊害じゃないかしらね。あるいは国民皆兵という近代国家の成り立ちにも関係がありそうです(国民といっても、この場合の皆兵は男性のみに適応されたのが始まりで、女性は銃後の守りと産めよ増やせよ国民生産マシーンとしての役割が期待されたわけでしたね)。
似たような言葉に、「文武両道」もあります。私、高校がいわゆる進学校でしたんで、そこで野球をやっていると「文武両道」とかおっしゃる人(先生も?)いたりして、内心辛かったです。もちろん、私は「文」がともなっていなかったし、さらに「武」もダメダメで我が校と初戦に当たった相手は小躍りしたという……。いやいや、実際に学業をきちんとやっていて、さらに野球が強豪だったとしても、やっぱり文武両道ってわざわざ言うか? そもそも、厭らしいじゃないですか、文武両道って?二兎追うものを称えるわけ? もし御本人が本気で「俺/私は文武両道、いやぁ素晴らしい」なんて思っていたら、気持ち悪いに他ならないと私は思うんだけれどもなぁ。
これを書いていて思い出したこと。高校野球を一生懸命やっていたころ。ある進学校と対戦した際、チームメイトから「あいつらは何人も東大行くんだろうなぁ」なんて声があがったことがあったのです。私はなんかとっても辛く残念な気がした。俺らは今野球で勝負しているんだよ。それ以外の尺度は関係ないじゃないか!と私は思ったからです。でも、多分、その場でそのことをチーム内で話題にすることはなかった。どこか遠慮みたいなものがチームメイトに対してあったのかもしれません。そういえば、その言葉を発した彼は東京大学に行ったなぁ。もしかしたら、彼にとっては野球の尺度よりも、そっちの尺度のほうが重要だったのかもしれません。それはそれで悪くはないのよ。でも野球やってるときに言うなよって、やっぱり今でも思う。
「健全な肉体に健全な精神が宿る」や「文武両道」を私が嫌らしいと思う背景には、それらの言葉がどうしたって国民兵士を育成する教育制度の実践と深く根っこがつながっているから。そして、障害を得ている今は、その嫌らしさに拍車がかかる。健全な肉体を失えば、健全な魂も失うのか? 文だけで武での貢献はまったくできないものは、やはりカタワ者なのか?
でもだからといって、健全でない肉体だけれど健全なる精神を持っている、とか、武のない分よりいっそう文をがんばる、という気持ちも私にはさらさらない。むしろ高らかに「健全」を嗤おうと思う。「両道」をダメと言うつもりもないけれど、両道だろうとなかろうと、どっちでもいいじゃない。そして、これらの言葉を他者(特に若者)を鼓舞したり賞賛する言葉としてつかう大人を阿保らしいと憎む。そういう気持ちがある人は、ぜひそれを自らの心の中にとどめて自らを高めればよろしい。他者にそれをわざわざ強いるな、と思う。それが謙遜の美学だ。
若者よ。権力が使いこなす言葉の罠にはまらないで。兵士として能わず。そんな“健やかな”精神を目指しましょうや。
コメント、いただけたらとても嬉しいです