「私はただ自由に生きたい、そして安全に生きたい」強く共感します
周庭さん、お元気ですか? 2020年11月にあなたと同時に禁固刑を受けた林朗彦さんと黄之峰さん。林さんは今年(2023年)7月に香港国家安全維持法違反の容疑で再逮捕されました。周庭さんよりも厳しい判決を受けた黄さんは、私の知る限りでは現在も収監中です。周庭さんのしんどい気持ちを想像しています。私だったら…、そりゃ辛いだろうなぁと。でも、周さんは自分がカナダに居ることで、自分を責めないで欲しいです。なーんも、悪くないもん。自由を求め行動する、みんなそうしている。その表現の仕方は、人それぞれで仕方ないと思います。精一杯生きてる。その道を行くしかない。私も、きっとそうだもの。周庭さんの選択は、それでいいのだ。
どういうわけか、年末になるとあなたと民主主義のことを特に思うのが恒例になってしまってます。
師走に入り、この年末もあなたのことを思いながらブログを書かなくちゃなぁなんて思い始めていたそのときに、あなたがカナダにいること、そして香港には戻らない(戻らない/will not よりも、戻れない/cannot、がより現実に近いと私はあなたがインタビューに日本語で答えるのを聞きながら思いました)つもりであること、がニュースで流れたのです。驚きました。そして、私はあなたの“元気”そうな現在の姿を見ることができて、すっごく嬉しかったのです。
亡命の理由を問われたあなたは「私はただ自由に生きたい、そして安全に生きたい」と答えた。それは、もうそれだけで十分な理由で、それ以外にないだろう理由で、そんな単純なことを自分のものにするために、あなたがどれだけのエネルギーを使い、時間を使い、肉体と精神を使ってきたのかを思うと、まずは一次的には、今それを言える場所に身を置いていることを「よかったね」と思う。でも、さまざまな危険、リスク、それこそ命がけの行為であることを思うと、さらなる火事場が続くことを思うと、心配です。どうぞ、多くの人たちがあなたを理解し、あなたをサポートし、あなたを守ってくれますように。
あなたの辛い決断を、あれこれと言う人はいます。「今後、香港の学生たちは海外留学がしにくくなる」なんてあたりも、あなたの心に響き、しんどく思うのだと想像します。でも、そんなこと気にしなくてもいいと私は思う。そういうのは、歴史には多数ちりばめられちゃっていて、あなたに類似するような事例はもう星の数ほどある。その観点からすれば、あなたの判断も歴史の中に無数ある星々のなかのたった一つの事例に過ぎません。人は時代にどうしたって翻弄されるし、そして人々は歴史を乗り越えていく。仕方ないじゃないですか。仕方ないよ。それで済ませていいことだと、私は思う。そして、あなたも悠久の歴史の中で小さな芥子粒のひとつにすぎません。私よりは、かなり大きい芥子粒みたいだけれど。でも、芥子粒は芥子粒。
だから、なんだかんだいうマイナスの声のことはどうぞ気にされませんように。世界は出る杭を打つ人半分弱、打たない人半分強ぐらいで構成されているんじゃないかなぁ。出る杭、私は本当に心から大好きだなぁ。
これからここで書く文章はけしてあなた独りに向けたものではなく、このブログを読んでくれる(けして多くはないのだけれど、そして多くなったらいいのにと思いながら書き続けているのだけれど)人たちに向けてです。それでも、キーボードをタイプする私は、周庭さんの存在を意識している。あなたがいたから、今日のこの記事があるのです。忘れないうちに、同じ世界に居てくれて、どうもありがとうございます。非常感謝您同時喺同一個世界與我哋喺埋一齊。 您的身心健康、幸福和自由。
私もただ自由に生きたい、そして安全に生きたい。でも蟻をつぶしたぼくの人差し指が、他者の自由の侵害につながってもいる。
周庭さん、わけのわからない有罪判決で、実際に身柄を収監され、その後も発言の自由を奪われ、監視され、意に沿わぬことを強制的に書かされ、心身崩壊の危機を経験されたあなたにとって、「ようやく言いたいことを語り、やりたいことを実行できる」という最近のインタビューでの言葉はまさに心から湧き出た表現で、私の胸に響きました。
あなたにとっては、けして十分ではないにせよ、カナダの民主主義が保証する自由、あるいは日本を含む(いわゆる)西側諸国の民主主義が保証する自由は、言いたいことが言え、行きたいところに行ける。それこそ手足をいっぱいに広げて自分を表現し感じることができる。
そんな自由、後退させずに、もっともっと継続させたい。本当に私もそう思う。
「村山、お前は自由が好きなんだよ」と昔友人に言われたことがあります。うん、そうだよ。無駄なルール(規制)はいらない。若いころは、もっと規制に囚われていましたよ。今から思えばバカバカしい校則も、あまり気にせず従うことができちゃてた、もっと気になること、大事なことがたくさんあったし。
自由が好きと目覚め、自由を保持するためのさまざまな“学び”に目覚めたのは、おそらく10代後半からで、そしてその学びは今も続いている。
もし私が人より一層自由が好きだとすれば、なんでだろう? 母なら、ワガママに育ててしまったと反省するだろうし(実際に、彼女はことあるごとに自分の息子に「あんたはワガママだ」と批判します)。でも、持って生まれた性みたいなところもやっぱりあるとも感じます。だとすれば、母上、あなたにも幾ばくかのご責任があろうというものです。
私のパートナーのサンワーさんは、以前ある人(日本の方)から「自由大好きなサンワーちゃん」と言われたことがあります。この言葉には揶揄があった。ルールをあんまり気にしない人というような。
サンワーさんが自由大好きで何が悪い!と私は思った。頭に来た。そういうことを言う輩が、小さな権力を発動して気持ちよくなりたがるから、日本の校則に象徴される無駄な決まりが無くならないのだ、と。そういう無自覚な小権力者、多い、サンワーを揶揄するあんたもそのひとりだと、つくづく情けなくなった。
(ちなみに、サンワーが自由大好きなのも、なぜなのかしら? 彼女の両親兄姉妹や、姪っ子たちがことさら自由大好きって感じでもないのですよ。やっぱり不思議)
そして、サンワーに揶揄の言葉を投げかける小権力者たちの積み重ねが、大きな権力につながって個人の自由を抑圧するんじゃないか? そんな気がしてしかたがないのです。
国の話なんか以前に、個人の話なんだよ、と思うんですよ。他者の自由を侵害する小さな個々の集まり。そして、自分がそっちの輩になったりしていないか? そこ、大事、猛烈に大事。
たとえば、そういう小さな権力を行使する組織の中にいるんじゃないか? 賞罰を出す部署とか、危険だよねぇ。賞罰って、結局「いい子」「いい社員」を育てるために出すわけでしょう?
組織に都合のいい人、つまり組織に不都合が自由を謳歌されちゃ困るわけだ。
溺れている人や迷子のお婆ちゃんたちを助けて賞状って、本当に必要なの? 誰がその人を顕彰しているの? あれも結局、権力の誇示、権力から賞状もらって「ありがとうございます」って、僕には滑稽に見えるのです。いらないじゃん賞状なんて。それにニュースとして、わざわざどうなのよ???
なんで子どもは「夜8時までに帰宅しなさい」なの? その子どもの安全を強調するけれど、実は(保護者としての)自分の小さな権力に酔っているんじゃないの? 帰宅時間なんか、そのときそのときで話し合って決めればいいじゃんねぇ?
自分より小さい弟妹の遊び玩具を取り上げちゃう姉兄ってのはどうなの? それも支配の濫用? つまりさ、俺らの心には「権力行使の喜び」がかなり根深く巣食っているんじゃない? 他者の自由を許せない意地悪な気持ちって、あるんじゃない?
そう意地悪な気持ち、ここがかなりキーワードだと思うんですよ。虐めとか、この「意地悪な気持ち」がかなり大きな発動装置になっているんじゃないかなぁ。そして、俺にもあるとおもうんですよ、これ。小さなところだと、机の上を歩いている蟻を見つけると、指でつぶしている。別に放っておいても、特別の悪さはしないのに。この虫けらを殺せる小さな意地悪、圧倒的な力量の差の気持ちよさ。これが始まりなんじゃないのかなぁ、独裁につながる長く曲がりくねった道の。
蟻をつぶしたぼくの人差し指が、他者の自由の侵害につながっていくって考えたら、可笑しい? 僕は結構真剣にうたがっているのです。
そして、はい、他者からの評価があるように、自由が好きな私も、これからもただ自由に生きたいし、安全に生きたい。それができるのが、たまたま私が生を受けた場所と時間/時代だったとしても、それはまず個人として享受したく、謳歌したい。拘束されたくないし、言うこと書くこと、読むことを制限されたくない。聞きたい音楽を聴き、見たい映画を見たい。行きたいときに行きたいところへ行き、食べたい時間に食べ、寝たい時間に寝る。さぼり、なまけ、ふざけたい。
その実現のためにも、必要もないのに蟻を殺してしまう自分の「意地悪性」をこれからも見つめていくのだろうなぁと思う。「殺す」側に立たないように。「殺される」より「殺したくない」。(ならば、蟻殺すなよ、とも思いつつ、そこ厳密になり過ぎちゃうと怖いとも思っているの、で、小さな小さな芥子粒よりも小さいような蟻、やっぱりこの人差し指でつぶしちゃってるの)
面倒くさいのよね、“DeモクRAシー”って!そして、世界はいつでも灰色。でも、そういうものだから仕方ないし、けっこう悪くない。
自由が好きって、それは我儘なんじゃないか? はい、それは耳を傾けなくちゃいけないときはあるでしょう。
自由が好きとか言っている輩が、自由主義を促進して、強者優位の社会を作っていく。うん、これも気をつける点ではあると思います。
でもね、自由が好きだと、他者の自由もとっても気になるのです。だから、今言われている新自由主義とか、乗れないのですよ。あれは、弱者の自由を阻害していると思うから。弱者の生きるための社会保障とか、絶対に後退させてほしくないですよ。そう思うのが、自由が大好きな者の矜持だったりもするのです。
自由が大好きだとね、いわゆる差別にも敏感になるんだと思うんですよ。性差別、“民族”差別、異文化差別、障害者差別、等々、等々。やだやだ、やめなくちゃ、ねと。
言いたいことを言い、表現したいことを表現し、行きたいところに行き、安全で安心しながら生きる自由。暴力を振るわれないで、そういう自由が維持されてくれればいいんですよ。自分だけじゃなく、隣のあなたと、隣の隣のあなたと、お向かいのあなたと…、みんなに自由があると嬉しいのです。まず、表現の自由から。あ、選挙権は、表現したいことを表現する自由の一部かな。もちろん、偽善選挙じゃなくて、ちゃんとしたのをやってよね。
人権の中の、発展権(これ実力のあるものが、より豊かになる権利ってことかしら)が第一に大事だという学者もいるらしい。でも、やっぱり違うと思う。生存権が大事ともいう。でもそれは当たり前じゃん? ガザのような天井のない殺戮場で「まだ生きてるじゃん」って言われてもなぁ。
そりゃ、表現の自由には制限はある。ヘイトスピーチ、死ね・殺せというような連呼、児童ポルノ、児童虐待、集団内での虐め・・・・。
でも、それ誰が規制するの? 私が「ねぇ、止めなよ」と言ってもダメな場合、どうしたらいい?
あるいは、ちゃんとした選挙は誰が準備し実施するの?
ほら、どうしたって“権力”は登場する。その権力の正しい規制と、行き過ぎた規制はどう判断する? 市民だって考え方はさまざま。裏金作ったって、支持者がゼロになるってことはない。求める権力の在りようも、議論でそうそう一致はできない。
つまり、多くの人が言っていることだけれど、民主主義ってとっても面倒くさい。多くのプロセスに自分も首を突っ込むと、時間も体力も消耗させられる(例えば、辺野古埋め立てに反対を表明し、本気でそれに向けて行動すれば、そして自分の生活を維持するための労働も継続すれば、もうアフタファイブも週末も休日も観光旅行もデートもなくなっていき、さらに寝不足になり・・・・)。できれば、民主主義の面倒くさいところは、他人任せにできれば助かるってことは、やっぱりある。だから、投票に行かない人が相当の割合いるって、それこそ自由な感じで悪くないとも私は思う。
周庭さん、あなたは否応なく「国家」と向き合い、避けがたく闘うことになった。
けれども、あなたも含む市井の暮らしを営む人たちの中では、個々人としては自由のために闘う場面は、国家よりかなり身近なところにもある。
まず自分の中の意地悪な気持ち。その存在を否定し糾弾する必要はないと思うのです。あくまでそういうものを自分が腹の底の部品として抱えているとして、その部品は使わないように心がけるってことが大事なんじゃないか。さらには、他者の意地悪。それとどう向き合うか? 小さな虐めを減らすことに意識的でない個人が多数な社会では、きっと私“たち”の好きな自由は弱まるよ。虐めは絶対に撲滅できない。虐めがあるたびに、「それはダメだ」と言う、そういう行為の必要性は永遠に続く。「わが校に虐めはない」なんて、馬鹿かと思うよ。それこそ、権力を行使して押さえつけてるだけなんじゃないかって、疑うよ。
周庭さんの場合、国家との闘いは、きっとなかなか向こうが放っておいてくれないこともあるのだろうと想像します。なんとか、耐え越してくださいませ。じっと負け越すとき、あるよ。あなたの負け越す時間を支える人たちが、あなたの周りにはきっといるとも想像しています。
そして、国家との闘いはさておき、個々のレベルでの小さなモノを感じましょう。いいものも、良くないものも、どっちも。世界はこれまでもこれからもずーっと灰色です。それが晴れ上がることはないし、完全な闇にもならない。それはそういうものだから仕方ない。でも、灰色も良く見えればバラエティー。たくさんの灰色がある。僕はね、真っ白も真っ黒もいらない(この場合の白黒は良し悪しを示す意図はまったくないのです、ブラック企業とかいうの、やめて欲しいよ、聞いててとっても嫌。)。見上げる空はいつでも灰色、そのこと自体はどうしようもない、それが世界だ。
その中を泳いでいきましょう。息継ぎは忘れずに。灰色の空を、ぜひこれからも一緒に味わいましょう。そこには、雨雪も落ちてくれば、虹も出るし、オーロラが流れることもあるのですから。なかなか、楽しいモノなんだろうと、思うのです。
じゃ、また。元気で。
追伸 これを読んで、何怠けたこと書いてんだ、って、ガザから、ウクライナから、ウイグルから、香港から、飢餓の東アフリカから……、礫のように飛んできても、それは甘んじて受けようと思います。ゴメン、としか言えない。爆弾が5分後に落ちる可能性がゼロのところに僕はいる。SNSの政府批判に共感のメッセージを送っても、逮捕されない。自分の母語を使い続けて、逮捕されない。好きな人と一緒の場所にいられる。 乗りたい飛行機のチケットを買えば、それに乗れる。 それはゴメンなのか? 想像力をどんなに発揮したって、食事の時間がくれば美味しく食べるし、夜中には電気の明かりを消して眠りにつく(まぁ、私はちょい睡眠障害あるけどさ)。恵まれてる。ありがたいし、ときどき心苦しい。でも、よく笑ったりしてる。
新年のお祝いとか、やっぱりそういう気分じゃないよね。ひどい気分だよね。あなたを救えてない。明日も新年も、救える術が見当たらない。ゴメン、ゴメン、ゴメン、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。新年のお祝い言葉とか、僕も今は使いたくないよ。でも、だからどうした? でも、でも、でも。
Note 以下、大晦日に書く周庭さんへのメッセージシリーズ。上から2020年大晦日、2021年大晦日、2022年大晦日、の投稿です。
周庭さん、元気?来年がいい年になりますように。 – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
民主主義のことを書く師走大晦日(になりつつあって、困ったなぁ) – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
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