『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第14回 カンボジア料理のなかの胡椒、さらにカンボジアの王都ウドンが日本の麺類“うどん”の呼び名の起源であるという説を探る

香りをお届けできないのが残念 この胡椒ミルは2005年にカンボジアでの教育支援プロジェクトが終了した際に戴いたもの。

 前回の連載第13回(以下から飛べます)ではフランスでのグルメの誕生、欧州でのインチキ食品規制の歴史、さらには19世紀後半からのパリでのカンボジア(アンコールワット)ブームについて書きました。
 グルメ、という話題がでましたので、今回は胡椒を使った料理カンボジア編、さらにはカンボジアの王都であったウドンという場所が、日本の麺類うどん、という名称の起源説をご紹介します。この起源説の背景にも胡椒がからんでおります。

カンボジア料理の中の胡椒

 簡単にカンボジア料理の中の胡椒についても触れよう。東西の隣国ベトナム、タイの料理はもはや日本でもかなり有名だろう。ベトナムのフォー(麺)や春巻き。タイのトムヤムクンなど辛い料理。両大国に挟まれて影の薄いカンボジア料理は、それぞれの影響を受けつつ、ベトナムほどハーブを添えず、タイほどトウガラシの辛さはないものが多い。カンボジア研究の大家デルヴェールの大著『カンボジアの農民 自然・社会・文化』には、カンボジア料理の記述の中に胡椒も挙げられている。

 カンボジアの料理は、恐らくインドの影響を受けたものであろうが、香辛料とと強い香料を用いる。食事には二つの型がある。とても巧みに、非常に美しく作られた貴族的な食事と大衆的な食事である。後者は香りのある草を用いる。唐辛子、にんにく、玉葱、胡椒などである。[i]

 現在のカンボジアでも、胡椒はひろく使われている。特に目を引くのは、多くの食堂で粉胡椒と塩――店によってはこれに味の素が加わる――を混ぜたものが小さな皿で供され、客はその皿に自分でライムを絞って料理の薬味とすることだ。

 次に紹介するのはカンボジアではなく、タイの17世紀、1634年から2年間アユタヤのオランダ東インド会社商館に勤務したファンフリートが著した「シアム王国記」による描写だ。

 かれらの食事はなみはずれたものでなく、質素である。通常は米と乾魚、塩魚、生魚および野菜である。ソース、つまり調味料にはプラチャン、魚、および胡椒で味をつけた水を用いる。プラチャンはえび、蟹、胎貝および魚から作られ、それに胡椒と塩がまぜられる。それはわれわれにとっては悪臭を放つだけのものに過ぎないが、かれらにとっては美味なのである。[ii]

 ここではライムではなく魚醤――プラチャンは現在のナンプラーに近いものだろう――に胡椒と塩が混ぜられている。おそらく同じころカンボジアでも胡椒を同様に使い、それが現在の食し方につながっているのだろう。ちなみに、タイではナンプラー、ベトナムではニョクマム、カンボジアではトックタライ、みんな同じような魚醤だ。

 また、胡椒の使い方として、タイ北部やラオスで一般的なラープも挙げておく。ラープを人類学者秋道智彌による『図録 メコンの世界 歴史と生態』では次のように説明している。

ラープ 牛肉、水牛肉、豚肉のラープは「モチ米手食」文化圏のラオス平地部、タイ東北部、タイ北部に共通する代表的肉料理のひとつである。それらは農村の宴には不可欠なご馳走といえる。他に、ニワトリ、魚、アオミドロなどのラープもある。
 ラープの調理法には地方色がある。牛肉、水牛肉や豚肉のラープの場合、タイ北部では生肉・内臓片などを生血で和える。刻んだレモングラス、ナンキョウ、ニンニク、赤玉葱、干し唐辛子、胡椒などのラープ用香辛料(ナムプリック・ラープ)を混ぜ、苦味を利かすために胆汁か腸汁を加える。
[iii]

 このラープに似たような料理はカンボジアでもさまざまある。ここでも胡椒は重要な香辛料として使われている。

 その他、イカの緑胡椒炒めのような胡椒の若い実――緑胡椒を野菜として使う料理方法もある。これは東南アジアで広く見られるチョプスイという中華風野菜炒めの応用だろう。その他、カンボジア麺の代表格のクィティウを出す食堂では、よく緑胡椒の酢漬けが薬味として用意されている。

 1957年生まれの華人系カンボジア女性の半生を聞き書きした『燃えた雨』という本の中に、胡椒を出産後の母体の回復効果のために使う事例が紹介されている。

 たとえば尿飲療法。特に七歳以下の男子のオシッコに胡椒を入れ、煮沸したものを産後の母親にのませるとからだにいいとかで、母は産後のたびに飲んだ。ただし、オシッコは朝一番のものが効果てきめんだという。(中略)
 食事には豚肉や卵を甘辛に煮て、これにも胡椒を加え、「暑い土地では、こういう辛いものを食べて汗を流すとからだにいいんだよ」といいながら、母に食べさせていたこともあった。
[iv]

 最初に紹介されている尿飲療法は、私(筆者)のカンボジアの友人は誰一人知らなかった。おそらく、華人系カンボジア女性の父親の生地(中国)に伝わる風習だったのではないだろうか。ふたつ目に紹介されている豚肉と卵を甘辛に煮て胡椒を効かせるのは、出産後の女性向けに限らず、ごく普通にカンボジアで食べられている惣菜だ。

「うどん」カンボジア起源説

 平野久美子が著したカンボジ現代史の中でのカンボジア青年と日本女性との数奇な運命をたどった『淡淡有情』には、日本の麺の名前「うどん」がカンボジの古都の名前から命名されたと書かれている[v]

 冬至に煮て食べるカボチャの語源が、カンボジアにあるという通説は比較的よく知られている。カボチャの原産はコロンブスが「発見」した新大陸で、ポルトガル人が日本に持ち込んだ。その際に「これは何だ」と聞いた日本側の質問に、「カンボジアからだ」とポルトガル側が答えたことで、カボチャと呼ばれるようになったためだと言われている。

 そのカボチャに加え、麺類のうどん(饂飩)もカンボジア由来だと平野は書いているけれど、この説はカボチャほど知られた話ではない。

 平野の書く「カンボジアの古都」とは、プノンペンの北40キロメートルほどに位置する町ウドンのことだ。ウドンは17世紀から19世紀にかけてカンボジアの王都であり、現在でも町の近くの丘には最近の王族の墓が残されている。

 この古都の近くに、17世紀前半日本人町があり、ここから伝わった麺が日本のうどん(饂飩)の呼び名の元になったと言う説は、インターネットで調べると簡単に見つかる[vi]

 この「ウドンがうどんの呼び名起源説」を強化するのが、江戸時代初期には、うどんの薬味には粉胡椒が一般的だったことだ。米粉を使って作られたカンボジアのうどんに似た麺に粉胡椒を薬味に使う習慣が、まるごとに日本に伝わって、ウドンから来た麺をうどんと呼んび、現在のラーメンに胡椒のような使い方が日本でも広がったとする説だ。

 この説の真偽を検討してみる。

 江戸時代初期、17世紀の中ごろ、寛永20年(1643)に出版された『料理物語』という料理のレシピ本がある。著者は不明のまま、本だけが現代に伝わっている。その中のうどんの項を見てみよう。

 うどん 粉をどれほど打つといっても、塩加減は夏は塩一升に水三升、冬は塩一升に水五升の割合で入れる。この塩水でちょうどよい加減にこね、臼でよく搗き、よく搗けたら、ひびきめがないように美しく丸めて、櫃に入れ、布を湿らせて蓋にし、かぜをひかないようにしておく。それを一つずつ取り出して打てばよい。ゆで加減は食べてみて吟味する。汁は煮貫(にぬき)、あるいは垂れ味噌がよい。胡椒、梅を添えて出す。[vii]

 ここでは、うどんには「胡椒と梅を添える」とある。江戸初期には確かにうどんには胡椒だ。
鈴木晋一が記した『たべもの噺』という本には、次の記述もある。

 近松門左衛門の『大経師昔暦』という本に〈本妻の悋気と饂飩に胡椒はお定り〉という文句があるように、江戸時代の前期にはうどんの薬味は胡椒ときまっていたものだった。いつごろからの風習かはわからないが、文禄4年3月28日に太閤秀吉が家康の京都の邸を訪れたさいの饗膳の中に見られるうどんにも、胡椒の紙包が添えられていた。江戸後期になって胡椒はその付きものの座を唐辛子に奪われたらしい。〈近頃まで市の饂飩に胡椒の粉をつつみておこせしが、今はなし〉と、大田南畝はその著『奴師労之(やっこだこ)』に記している。[viii]

 ここで書かれているように、うどんに胡椒とされていた風習が、江戸時代後半には、今と同じようにうどんには赤いトウガラシ粉、あるいは七味トウガラシ、と変化してきたようだ。 
 江戸時代後半には、胡椒は薬味ではなく、薬として使われていた。江戸時代後半に作られた古典落語のひとつ「胡椒の悔み」という胡椒をネタに使った噺の中では、胡椒は食あたりの薬として箪笥の引き出しにしまわれている[ix]
 トウガラシが胡椒にとって変わられたのは、江戸時代後半には胡椒の輸入が激減したことと関係があるようだ。江戸幕府が始まったころ、徳川家康は積極的に朱印状を出して東南アジアとの貿易を促進していた。しかし、キリスト教の伝来を防ぐなどの目的で、朱印船の往来は制限されるようになっていく。そして、幕府は1633年に海外に五年以上滞在した者の帰国を禁じた。結果、胡椒の輸入は減っていき、気楽にうどんにかけるのではなく、薬としての位置づけとなっていったようだ。
 さて、鈴木の文章からは、うどんに胡椒を添える食べ方は江戸時代よりも前、豊臣秀吉の時代にはすでにあったことがわかる。文禄4年というのは1595年、16世紀の終わりになる。カンボジアのウドン近郊に日本人町ができるのとほぼ同じころのことだ。

 さらに調べてみると、うどんのような麺に胡椒を添える習慣は、この秀吉の時代以前からも日本にあった。『論集 東アジアの食事文化』という厚い本の中で、奥村彪生は「日本の香辛料 その使い方と歴史」という一章を書いている。その中に胡椒が次のように出てくる。

 永世元年(一五〇四)、小笠原備前守政清が著した武家の礼式の秘伝書のひとつである『食物服用之巻』にめん類一般の食べ方が記されている。そのひとつである「むしむぎ」の供膳の図には、「あおみ」と「からみ」を配し、箸置きには祝い粉とよばれるコショウの粉を包んだコショウ紙を使用している。「ひや汁」にからみとあおみ、粉コショウを適宜入れ、せいろうに盛ったゆでたてのめん(切りむぎ)につけたものと考えられる。[x]

 「切りむぎ」とは、切麦、切り麦、とも書いて、手元の広辞苑によれば「小麦粉でうどんのように製し、細く切ったもの。多くは夏、ゆでて水に冷やして食べる。冷麦。」とある。単純にいえば、細いうどん、といっても間違いでもないだろう。そして、「むしむぎ」とあるのだから、当時は細く切った麺を蒸したのだろう。麺を蒸すのは、中華麺でも使われる料理の仕方だ。そして、その麺を今のざる蕎麦と同じように冷や汁につけて食べる際、その冷や汁に粉胡椒を入れた。この記述が指しているのは1504年、16世紀初めのことだ。つまり、カンボジアで日本人町ができる百年前から、麺類に胡椒を添える食べ方が日本にはすでにあったようだ。

 ここに来て、「麺類に胡椒を添える習慣がカンボジアのウドンから“うどん”の名と一緒に伝わった」説は怪しくなってきた
 次回、うどんはウドンから説を、もう少し深堀りしていく。


[i] 165ページ J・デルヴェール/著 石澤良昭/監修 及川浩吉/訳『カンボジアの農民 自然・社会・文化』2002

[ii] 189ページ ファン・フリート/著 生田滋/訳「シアム王国記」『大航海時代叢書 オランダ東インド会社と東南アジア』岩波書店 1988

[iii] 92ページ 秋道智彌/編『図録 メコンの世界 歴史と生態』 弘文堂 平成一九年

[iv] 18ページ 楠山忠之/著『燃えた雨』情報センター出版局 1985

[v] 12ページ 平野久美子/著『淡淡有情』小学館 2000

[vi]海外旅行の検索・比較サイト「エイビーロード」の2008年2月12日掲載記事『「うどん」発祥の地!? 約250年の歴史を有する古都ウドンへようこそ!』

https://www.ab-road.net/asia/cambodia/phnom_penh/guide/01176.html

など。

[vii] 179ページ 平野雅章/著『料理物語(教育社新書―原本現代訳)』 教育社 1988

[viii] 68ページ 鈴木晋一/著『たべもの噺』 平凡社 1986

[ix] 45ページ 落語協会/編『古典落語3』ハルキ文庫 2011 

[x] 563ページ 奥村彪生/著「日本の香辛料その使い方と歴史」、石毛直道/編『論集 東アジアの食事文化』 平凡社 1985

5件のコメント

毎日、楽しみにしています。胡椒にまつわる連載も、本当によく調べておられるので勉強になります。昨日の結婚式の話も、カンボジアの人たちの生活を知るのにとても役に立ちました。アメリカ人と結婚したいというのは、全く初めて聞く話でした。

うどん=ウドン説の行方をはやく読みたいです!

TSUZUKI Isao様
アメリカ人というよりは、カンボジア系アメリカ人との結婚は特に女性側には人気だと思います。
ホワイトのアメリカ人の場合は、チャレンジですけれど、東南アジアの女性を求めるホワイトアメリカ人という存在はあるように感じます。だから、それに乗ってアメリカを目指す女性も存在する。
ブラックに対する偏見は、カンボジアは残念ながら強いです。日本もそうですけれど、触れ合う機会がないというのは一因でしょうけれど。

yumiko様

ウドンから麺に胡椒の習慣が伝わったというのは、どうやら間違い、というところまでが今回。
次回は、麺そのものの考察です。お楽しみに。

徳川時代の初め、海外へ日本人が行った一つの理由は,武士の失業対策とも聞いたことがあります。いわば、外人部隊ですね。戦国時代を生き抜いた武士達ですので,結構強かったとのこと。また、奴隷としても日本人は海外へ行っていますね。確認されているのはアルゼンチンまでも!

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