プノンペンは知る人ぞ知る餃子の町だ。
それほど大きくない街中に、とても魅力的な餃子を供する店がいくつかある。中国で餃子といえば、日本で一般的な焼き餃子ではなく、茹でた水餃子で食べることが多いという。プノンペンの多くの中華食堂では水餃子はもちろんのこと、焼き餃子もメニューに上がっている。
この焼き餃子、プノンペンで広まったのは、1990年代に日本の人がある中華食堂に日本風の焼き餃子を紹介したのが最初という説がある。実際に、その焼き餃子を教えたという人を、ぼくはひとり知っている。彼がよく行った中華食堂で、自分の食べたい焼き餃子の焼き方を伝授したというのは間違いないとして、それがきっかけで、プノンペン中の中華食堂に焼き餃子が広がったのが事実かどうかは確認していない。
ぼくとしては、焼きでも水でも魅力的な餃子が食べられればそれで十分、ということではあるのだけれど。
カンボジアナショナルチームとの縁
話変わって。カンボジアにも野球がある。
その始まりは、米国に渡ったカンボジア移民がカンボジアにもどって伝えたのがきっかけのようだ。つまり、野球の導入はポルポト時代後。今ではカンボジア野球協会が設立され、協会はカンボジアのオリンピック委員会にも加入している。
そんなわけで、カンボジアにも野球のナショナルチームがある。ある年、そのナショナルチームのコーチとして日本からボランティアが派遣された。ところが、そのナショナルチームの練習試合相手がいないという。それならということになり、プノンペンで働く日本の有志が中心になって、にわか野球チームを結成してナショナルチームと練習試合をやった。
一応、元高校野球児、さらには高校野球監督経験まである野球好きのぼくも、そのメンバーのひとりだった。それが、ぼくが今でも楽しんでいるカンボジアでの野球チーム、プノンペンゴールデンバッツのはじまりだ。
(当時、プノンペンにはソフトボール同好会のようなものがあった。メンバーは日本の人が多かったけれど、台湾、フィリピン、米国、フランスなどなど、国際色豊かなチームだった。上記、ゴールデンバッツのメンバーは皆、このソフトボール同好会のメンバーで、やがて、ゴールんでバッツという名前はソフトボール同好会に使われ始めた。つまり、ゴールデンバッツにはソフトボール部と野球部がある。どちらも現在までしっかり続いている。)
ナショナルチームが使うのは、イチローだちが使うのと同じ固い硬式球だ。おじさんチームの中には、軟式球の経験はあっても硬式球は初めてというプレイヤーもいた。それで、記念すべき第一戦は、軟式野球にしてもらった。そしたら、ぼくたちおじさんチームがナショナルチームに勝ってしまったんだ。
当然彼らからは、「硬球なら負けないのに」という声があがる。ぼくたちゴールデンバッツ側も、無駄な盛り上がりを見せる。よし、なら、今度は硬球で、やりましょう、となる。
野球に興味がない方には、まったくどうでもいい話だけれど、日本の草野球で広く使われている軟式球というのは、世界的な野球界には、ほとんど広がっていない。あの軟式球、さらには準硬式球というのは、硬式野球が伝わった(1871年/明治4年)後に、安全面を考慮して日本で新たに開発されたものなんだ。第一回軟式野球大会が開かれたのは、1919年/大正8年だそうだ(Wikipediaより)。軟式球が広がったことが、日本の野球の裾野を大きく広げたのは間違いない。
でも、そんな軟式野球、使われているのはほぼ日本だけなのです。
野球にも、いろいろと越境のストーリーがある。
ナショナルチーム、苦節の歩み
ナショナルチームは、その後紆余曲折あってなかなか前途多難だ。カンボジアにはサッカーのプロチームはあるけれども、野球はまだほとんど知られていない。ナショナルチームといっても、たまたま声がかかった若者たちの寄せ集めのようなものだ。
ナショナルチームの選手は野球協会から小遣いがもらえるし、プノンペンから車で三時間近くかかる場所にある合宿所で、食事付きで寝泊まりできる。けれど、将来にわたって野球で生活ができるわけじゃない。だからある程度の年齢になると、野球を続けているわけにもいかなくて選手は辞めていく。
カンボジア野球協会は資金も潤沢にあるわけではないから、あちこちにスポンサーを探す。これまで日本、韓国、米国などからいろんなルートで援助があった。けれど、どれも継続的で息の長い支援になりきらない。スポンサーが多いということは、けしていいことばかりではない。ある種の勢力争いみたいなことが起こってしまうことが多い。船頭多くして船進まずというやつだ。野球協会はナショナルチームを核にして子どもたちに野球を広める活動を進めようとしているのだけれど、そんな普及活動の中でも少ないカンボジアの選手を取り合うようなことが起こる。残念なことだ。
そんな中、ぼくの知る限り、現在のナショナルチーム監督は日本の方だ(その前任者も日本の人)。彼の指導で、ナショナルチームは昨年12月、フィリピンの首都マニラで開かれた東南アジア競技大会(South East Asian Games, 通称SEA Games)に参加した。野球ゲームには、地元フィリピンに加え、インドネシア、タイ、(ASEANでは、野球はこの三カ国が強い)、さらにシンガポール、そしてカンボジアの5チームだけの参加だった(2019 SEA Gamesの全参加国は11カ国)。
初戦は、優勝したフィリピンに0-12。さらに、インドネシアに1-8、準優勝のタイに0-14、シンガポールにも1-8、という成績で、参加5チーム中、圧倒的な最下位という結果だった。
それでもカンボジアチームは、フィリピン野球界から大歓迎を受けたと聞いた。弱くても、参加することに意味があるということだ。インドネシアやシンガポールからカンボジアが得点を上げた際には、球場は大歓声だったという。
カンボジア野球連盟がSEA Games2019に、かなりガンバって参加した背景には、2023年にプノンペンを会場にした、カンボジア主催で初めてのSEA Gamesが予定されているからだ。その大会で、野球をなんとしても正式種目に採用してもらうための、実績づくりとして、連盟は、たとえ負けることがわかっていても、国際大会出場を求めた。
プノンペン大会で野球が正式種目になるかどうかは、まだ微妙だ。プノンペンの近くには、野球の正式グラウンドが、まだない。ナショナルチームのホームグラウンドはあるけれど、首都から遠いし、観客席もない。
それでも、ぜひナショナルチームのさらなる健闘を祈りたい。
有志野球チーム、プノンペンゴールデンバッツは、まず自分たちが野球を楽しむことを目指している。だからどこがナショナルチームのスポンサーになっても問題はない。始めて練習試合をやってからもう10年になるけれど、お互い選手は入れ替わりつつ、いまでも彼らはいい試合仲間だ。
野球とビールと餃子、人生の充実と喜び
野球をやった後は、当然ビールで喉を潤すことになる。それでようやく餃子だ。練習後に野球仲間が足を向けるのは、ついついぷりぷりの餃子が待つ店になることが多い。人生の充実とは、汗をかいた後のビールの一杯と熱々の餃子に尽きるんじゃないかな。
いつの日かカンボジアナショナルチームが日本チームと対戦する日がきたら、ぼくは迷わずカンボジアチームを応援するつもりだ。
追記:怪我をしてしまった後、ぼくは選手としては現役引退となってしまったけれど、最近は審判や記録係の役割で相変わらず楽しく真剣に野球に取り組んでいる。でも、この新型コロナ禍でぼくは今、日本に幽閉中。早くカンボジアで野球仲間とのビールと餃子に、復帰したいなぁ。
カンボジアに野球チームがあったことや、餃子が食べられることなど知らなかったことが満載で、楽しく読ませていただきました。
ナショナルチームへは少し関わりましたが、その後、疎遠になってしまいました。一時は,中日ドラゴンズの広報とも話をして、カンボジアでドラゴンズの春季キャンプをおこなう話まで進んだのですが。
都筑功様 はい、ぜひまたプノンペンでお会いして、美味しい餃子をご一緒しましょう。
匿名様 ドラゴンズのカンボジアでのキャンプ案、ちらっと耳にしたことはあります。コンポントムのナショナルチームのホームグラウンドでかしら。サブ球場というような施設がない現状では、まだなかなか厳しいかなぁ。でも、そんな日がこないとも限らない。夢は大きくですね。
村山哲也
間々田です。先にお送りしたメール、匿名でごめんなさい!
中日球団の話ですと、3面から4面のグランドが必須だそうです。キャンプの時期には沖縄よりも雨が降らないので、カンボジアは有力な候補地と言ってました。宿泊施設はあるようですが。
間々田さま
3面から4面のグランドが必要となると、今のコンポントム球場ではまだ受け入れはむずかしい、というのが現状です。球場の土、芝、備品、宿泊環境……、ドラゴンズのキャンプ地となるには、正直、まだ随分時間がかかるように私は感じております。
まずは、2023シーゲームがどうなるか、かなぁ。
中日ドラゴンズの有力な「タニマチ」の方からの情報でした。N氏とともに,お話を伺いましたので、球場の整備ができれば,すぐにでも! でも、これは実現したいですよね!