11月29日の投稿で、ボッパーさんという女性のことを書きました。9歳で発病し、3年後にもどった小学校でクラストップの成績でありながら、中学校進学をあきらめた彼女。その後、日本のNGOが支援する職業訓練学校にすすみ、そこで障害のある仲間たちと出会い、自由の味を知ってしまいます。
そんなボッパーさんの語りが続きます。
日々のくらし、乱暴な三輪タクシー運転手
今年2月、ボッパーさんはプノンペン市内のレストランで夕食をとって、空港近くにある障害者グループの事務所に帰ろうとしていた。その日、市内への移動は電話で呼んだトゥクトゥク(三輪タクシー)を使った。車イスを使わずサポートスタッフに抱きかかえられて乗り降りした。
また電話でお願いしたトゥクトゥク来るまで、レストランの前にでしてもらった椅子に座っていた。同行者にポリオ(急性灰白髄炎)のよる手足の障害があるセッカ―さん(女性)がいた。
やがてトゥクトゥクがやってきた。運転手は、ボッパーさんたちが障害があることに最初気がつかなかったようだ。サポートスタッフの力を借りて、ボッパーさんとセッカ―さんが乗り込むのを見て、ようやく気がついた。そのときに、なにか気に食わないこと、つまり「障害者かぁ」みたいな気持ちがあったのかもしれない。行き先を告げるボッパーさんたちに対して、運転手は最初から機嫌が悪かった。
走り出したトゥクトゥクの運転は、スピードを出してとても荒かった。セッカ―さんは手が不便で、手すりにしっかりとつかまることができない。
「もう少しスピードを落として、ていねいに運転して!」
ボッパーさんが声を上げた。その言葉が余計に運転手を刺激した。
「文句があるなら、降りてくれ!」
運転手は大声で悪態をついて、その運転はますます荒くなった。ボッパーさんは、運転手は少し酔っていたんじゃないかと疑っている。
ボッパーさんたちの懇願に応じようともせず、その後も汚い言葉を上げながら、とにかくトゥクトゥクは目的地の事務所までたどりついた。事務所には、先回りしたサポートスタッフ(男性)が待っていた。サポートスタッフを見た運転手は、少し冷静になった。
しかし、彼の危険な運転に対して気持ちの収まらないセッターさんが改めて怒りの言葉を投げつけ、運転手とのあいだで口論が続いた。サポートスタッフの仲介もあり、運転手は最後には「ごめん、言い過ぎた」の一言を残して去っていった。
ポッパーさんたちは、トゥクトゥク会社にも抗議を伝えた。数日後、会社スタッフが事務所を訪ねてきて、ボッパーさんたちに公式に謝罪の意を伝えた。会社は当事者である運転手にも、同行し謝罪することを要求したけれど、運転手はそれを拒否した。会社はその運転手を解雇し、ドライバーとして再登録できないようにブラックリストに加えると、ボッパーさんたちに伝えた。
「私たちが障害者だから、彼が乱暴な態度をとったのかどうかはわかりません。彼は乱暴な言葉を使ったけれど、特に障害者に対して差別的なことは言わなかった。けれど、私たちは本当に怖かったんです。」
“自由”に届かない日々
さて、中学校に行けず、やがて職業訓練校でテレビ/ラジオ修理の技術を身に着けたボッパーさんは、訓練校を卒業後、自宅にもどり身につけた技術を生かして、自宅に修理店の看板を掲げた。けれど、それは安定した収入にはなかなかつながらなかった。近所にも同じような修理屋はあった。障害がある若い女性のテクニシャンに対する差別はあったと、ボッパーさんは感じていた。訓練校での日々にあった開放感は、自宅での生活にはなかった。
そんなボッパーさんの救いになったのは、近所にあったプロテスタントのキリスト教会だった。仏教徒の多いカンボジアだけれど、海外からの布教活動も多い。その教会には、華人系やマレーシア系の人たちが多かった。彼らは優しくボッパーさんを受け止めてくれた。彼女はクリスチャンになったわけではない。今でも仏教徒だ。それでも彼女は、よくその教会を訪ねた。そこでごく簡単なパソコンの使い方、カンボジア語のタイプなどを習った。
また、日本カンボジア交流協会(NGO、1995年設立、障害者を対象とした職業区連行などを支援。現在は、日本向けの人材派遣業務を行っている。TOP – 特定非営利活動法人日本カンボジア交流協会 (ngo-jcia.org))が設立した障害者を対象とした職業訓練センターで、足を使う必要がないタイプのミシンを使った裁縫の訓練を受けたこともある。そこで身につけた技術を使って、プノンペン市内で障害者を雇用していたある組織の応募に募集し、働き始めた。そこは障害者支援の看板をあげて、製品を売っているところだった。
でも、給与はとても少なかった。まず、最初の3ヶ月は見習い扱いで給与はなかった。その後も、月の給与は30ドルで、しかもうち20ドルを食費と宿舎料として天引きされ、渡されるのは10ドルだけ、そういう決まりだったのだという。朝7時半から夕方5時までが勤務時間とされていたけれど、それは当たり前のように延長された。真夜中過ぎまで働かされたこともあった。
さらに、所内で車イスの使用は禁止され、みんなイザって動いた。勤務中に携帯電話を使うことも禁止されていた。自由時間は週に一度だけ。それでも行き場のない15名の女性が働いていた。
「すっごいフラストレーションでした。男性の友だちが訪ねてきても、そこの所長が会わせてくれないのです。耐えきれずに、1ヶ月で辞めました。辞めるときには、ここで働けなければどこに行っても無理だよ、と憎まれ口をいわれました。」
このように、障害者を売り物にしながら、障害者を食い物にするような事業があるのは、けしてカンボジアだけではないだろう。
地元でくすぶっていたボッパーさんの転機は、自由の密の味を知ることになったAAR Japanの職業訓練校の仲間から持たされた。
サミスさんとプノンペン自立生活センター
ここで、サミスさんのことを少し書かないといけない。彼はボッパーさんが働く障害者グループの設立者だ。サミスさんは2才でポリオにかかり歩けなくなった。苦労して勉強を続けた彼は、ボッパーさんと出会ったときはAAR Japanの職業訓練校のテレビ/ラジオ修理コースで、先生のアシスタントを務めていた。
「お金持ちになる」という夢を持っていたサミスさんは、その希望が叶うかと思って2006年に日本のダスキンが行っている「アジア太平洋障害者リーダー育成事業」のプログラム(第8期)に参加し、10ヶ月日本で過ごした。カンボジアに戻ったサミスさんは、プノンペンで「Phnom Penh Center for Independent Living(プノンペン自立生活センター)」を設立した。「お金持ちになる」という夢よりも、日本で出会った障害者自立の考え方を、カンボジアで広げたい気持ちが大きくなっていた。そしてその設立メンバーのひとりとして、サミスさんはボッパーさんに声を掛けたのだ。
「PPCILには、最初、女性がひとりもいませんでした。サミスさんたちは、どうしても女性をメンバーに入れたかった。PPCILで会計をやっていた人が、私の仲良しの友だちでした。だから、私に声が掛かったんです。」
2008年末、PPCILは事務所を開いた。ボッパーさんがもうすぐ24歳になろうとするころのことだった。家族は心配したけれど、ボッパーさんに迷いはなかった。
PPCIL発足時、小さな事務所を借りて、メンバーはそこに雑魚寝して暮らした。でもそんな暮らしはとても楽しかった。
最初、ボッパーさんは何もできない自分に自信が持てず、会議などでもドギマギするばかりだった。単に仲間の言うとおりに動いていた。
「レポートの書き方もわからない。パソコンもまだよく使えない。英語もまったくわからない。全部、一から勉強しました」
そしてサミスさんが参加した「アジア太平洋障害者リーダー育成事業」にも応募した。英語が苦手なボッパーさんは、2回落選し、3回目にようやく合格した。2011年、ボッパーさんは日本に渡った。
ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業 13期チェア・ボパの最終報告書より
以下、10ヶ月の日本での研修プログラムを終えたボッパーさんが日本語で書いた、彼女の最終報告書です。ごちゃごちゃぼくが書くより、彼女自身の言葉を読んでください。(13期生 チェア・ボパのファイナルレポート | ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業 (normanet.ne.jp) より、抜粋)
新しい人になりました
私は10歳まで歩くことができました。ある日重い病気になって、障害者になりました。障害者になってからは、どこかに行きたくても、バリアがたくさんあったので、あまり外へ出かけなくなりました。自分の障害が、とても恥ずかしくて嫌いでした。私は家族にとって「問題」だとも思っていました。毎晩いろいろなことをたくさん考えて、悲しくなって、泣きました。その頃、私の気持ちはいつも暗くて、生活も楽しくなかったです。
2009年、ダスキン8期生のサミスさんとプノンペン自立生活センターを作って、働き始めました。最初の1年位の間は事務所に泊って、自立生活の練習をして、そのあとアパートでひとり暮らしをしました。仕事を始めてから、気持ちはすこし明るくなりましたが、まだ障害を恥ずかしいと思っていました。そして、障害者の生活には大変な問題がたくさんあると考えていました。(中略)
日本に来るまで、「障害があるから、いろいろな問題が起こる」と考えていましたが、日本で研修をして「社会の環境が良くないから、問題が起こる」ことがわかりました。「障害」に対する考え方が180度変わった今、私は新しい人になりました。まず、自分の障害が大好きになりました。たくさん話すようになって、考え方も変わりました。いつも楽しくて、いつも笑って、いつも幸せな顔をしています。
私はできます
日本とカンボジアの生活はぜんぜん違います。カンボジアでは障害者のための障害者の制度、たとえば、手帳、年金、介助者サービス、ガイドサービス、へルパーサービスなどがありません。なにもないので、障害者はとても大変です。私は障害者と障害のない人の生活が同じになるように、社会を変えたかったですが、どうすればいいか全然わからなかったです。でも、日本で勉強して、たくさんのヒントをもらいました。
プノンペンCILで働いていたとき、経験があまりないので、事務所の仕事をたくさん手伝うことができませんでした。でも、私は日本でCILについて研修したり、またリーダーシップやコミュ二ケーション、仲間の作り方を勉強したりしました。今の私には、経験と自信とパワーがあります。
国へ帰ったら、プノンペン自立生活センターに戻って、仕事をもっともっとがんばります。そして、自分の好きなピアカン(村山 注1)とILP(村山 注2)を担当したいです。もっと仲間を作って、みなさんと一緒にたくさん障害者運動をしたり、バリアフリーチェックをしたり、デモンストレーションをしたりします。私たちは、カンボジアの未来を変えることができます。私は必ずやります。
(注1) ピアカン:ピアカウンセリング
(注2) ILP: Independent Living Program 自立促進活動

ダスキンのプログラム、素晴らしい内容のようです。すごいなぁ。
ボッパーさんの場合、その2でも終わりませんでした。その3に続きます,近日中。(12月8日予定)
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