障害者になってから6年が経過しました。病院から出てから5年。おぉ、もうそんなに経ってしまったのだなぁとも思います。
慣れる、というのはやっぱりあるもので、障害があればあったで、あるなりに暮らす。そんな日々の中、思っていることを少し書いてみます。
痙性って知ってましたか?
私の障害は、“身体障害”に分類されるものです。脊髄損傷という怪我によって生じた、下半身麻痺、と書けばわかり易いような感じもあるのですけれど、同じ下半身麻痺でも人によってかなり千差万別です。多少は足を動かせる人。立ち上がることもできる人。温度感覚はある人、ない人。
痙性という言葉があります。「けいせい」と読みます。私は障害を持つまでは、この言葉をまったく知りませんでした。痙性とは痙攣の一種です。例えば、麻痺によって足が動かないとします。ところが、その動かないはずの足が勝手に動くことがあるのです。自分の意志とは関係ない、不随意といわれる反応です。ピクピクという小さな動き、あるいはビクンビクン、さらにはガックガックと足が暴れまわるように激しく動いちゃうこともあります。これ、痙性を知らない他者から見ると、ちょっと異様な光景に見えるだろうと思います。痙攣の一種ですので、本人にもどうにもできない。
脊髄損傷の場合、痙性はけして悪いことばかりではないそうです。リハビリテーションしているときに、痙性があるほうが、機能回復の可能性が高いとも聞きました。つまり、それだけ神経がつながっている可能性があるってことらしいのだけれど。
私の場合、現時点ではごく軽い痙性が右足に出ることがあります。けれど、激しく暴れるようなことはありません。
私の特権性
さて、障害にもいろいろありますよね。私のような下半身完全麻痺は身体障害の中の肢体障害です。身体障害の中には心臓機能障害や肝臓機能障害といった内部障害もあります。視覚障害や聴覚障害も身体障害です。
その他、法律の上では身体障害に加えて、知的障害と精神障害という区分があります。
健常者が多数派の社会の中では、それぞれの障害がそれぞれの生き辛さを生んでいるわけです。
そんな障害の中で、私のおかれた立場は、まるで障害者の中の“王様”のようだな、と思うことがあります。中途障害(つまり昔は健常者だった、同情してもらいやすい)で、車イスに乗っていて(見たらすぐに障害があるとわかる)、暴れるような痙性がなく(傍から見て謎の動きが少ない)、発話障害がない(健常者とコミュニケーションが取りやすい)という状況は、多くの人にとってはとても「扱いやすい」障害者なんじゃないかと思うのです。つまり、私は世話をやかれやすい。気を使ってもらいやすい。大事にしてもらえることが多い。それが“王様のようだ”、の意味です。
“王様のようだ”という言葉の中には、もちろん、王様じゃないのに王様のようだ、という皮肉も込めています。つまり王様のように扱う相手は、他にいる、とも思うんですよ。そんな人たちの前で、自分だけ王様のように扱ってもらっているんじゃないかという恐れが、私の中にはあるみたいなんです。
特に「見てすぐに障害を持っているとわからない人」。彼らに対して、車イスの特権性って確かにあるんじゃないかな。つまり、障害という世界の中での強者である、ともいえる。もしそうなら、それは自分で選んだことではないけど、その立場には意識的であったほうがいいんだろうな、と思ったりします。

最近はこんなヘルプマークがだんだん普及しているようにも思います。ぜひ、もっともっとみなさんに認識してもらいたいマークです。ドヤ顔の車イスの王様より、大事にして欲しいような気もします。


















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