北村広美さん
7月2日土曜日早朝に、東京浅草のねぐらを出立しまして、神戸は新長田駅近くまで出かけてセミナー講師??ってのをやってきました。
“神戸国際コミュニケーションセンター(KICC)”というNPO組織の主催による『国際協力から多文化共生へ 世界につながるってどういうこと』という続き物セミナーの第一回です。とあるチャンネルを通して知り合ったKICCから、最初は「カンボジアの教育のことを話して」という依頼をもらいました。でも、それなら私よりも話し手としてふさわしい方は何人もおられる。
それにテーマである「多文化共生へ」の部分、私はほとんどまったく門外漢です。で、こちらから「多文化共生について語れる方との対談にしませんか?」と提案しました。その結果、当日は“多文化共生センターひょうご”というNPO代表、北村広美さんと二人で話すことになりました。
“多文化共生センターひょうご”については、2021年3月11日の神戸新聞の記事がわかりやすくまとめてくれています。多文化共生センターひょうご 地域再生大賞優秀賞に|神戸|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)
記事には「かつて国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊としてセネガルに3年間滞在した際、現地で親切にされて暮らしやすかったことから「日本人も外国人に同じようにしたい」と考えた」、「工場の外国人労働者が多い深江地区に拠点を構え、行政や学校、市民から紹介された外国人らの相談に乗っている。内容は役所や医療機関の手続き、進学のサポート、電車の乗り方の紹介などさまざま。スタッフ4人が英語やフランス語、中国語などを駆使して対応に当たる」、「誰もが暮らしやすいまちづくりを実現したい」、「小回り良く、その時々のニーズをキャッチするのがモットー」というような文章が並びます。神戸(長田区の場合、住民の10%弱が外国籍で、50カ所を超える国・地域からの人たちが暮らしているそうです)で生活する海外から来られた人たちへの支援ぶりが、これらの短い記事からもよくわかります。
会場に来られたのは30名弱ほどだったでしょうか。「どうして参加されたの?」という司会者の問いかけに答えた方のほとんどすべてが「多文化共生」という言葉を口にしました。つまり、視聴者のニーズは、どちらかと言えば「国際協力」よりも「多文化共生」にあるようで、私としては一人で登壇しなくてよかったぁー、とちょっとホッとしたのでした(ZOOMで参加してくれた方々の中には「国際協力のキャリア形成について聞きたい」と思っていた方もおられたようですけれど)。
でも、やはり人前で話すというのはとても難しい。手応えというのが、なかなか感じられない(つまり、こちらの話し方が下手ということかなぁ)。まぁ、こうやって書いていても、なかなか読み手からの手応えというのは感じる機会がないのですけれど。
北村さんも私も、JICAの青年海外協力隊参加経験者なのです。北村さんは、医療技術者としての経験を得た後にJOCV参加でセネガルへ。「学生時代は遊んでいて、国際協力とか考えていなかった、たまたま旅で出かけた南太平洋タヒチでフランス語をやりたいと思ってしまった。そこから縁あって仏語で仕事ができるセネガルへ」と語る北村さん。対して私はといえば、「中学校から協力隊に行くことを意識していた」と相変わらず暑苦しい話になってしまったのでした。
協力隊後、北村さんは再度学部から大学に進学しています、専攻は法律!「法律は面白くて、はまった」そうです。そして、やがてご自分でNPOを立ち上げ日本社会の多文化共生の問題に取り組まれたのです。
海外支援という嗜癖
私は、協力隊後、日本社会への復帰に失敗し、1990年代前半にぽちぽちと生まれてきた国際開発系の大学院に逃げ込みました。そこからは、「海外で教育支援をする!」という路線を突っ走ったのでした。キャリアの話をすれば、私の世代(1964/昭和39年生まれ)の前は、日本政府ODAによる途上国での教育開発支援の主力メンバーは、大学の先生たち、つまり研究者でした。私の後の世代、つまり今の世代の主力メンバーは海外開発コンサルタントです。つまり、私がフィリピンやカンボジアのODAに参加した2000年前後は、研究者からコンサルタントに主力が移る端境期で、比較的個人ベースでODAにも食い込めた時代でした。
セミナーでは、海外協力とか教育支援とか、つまりはとても耳触りが良くて、「良いことをやっている」という自尊心をくすぐりがちなこと、そして、そのことが一種の嗜癖(アディクション)につながることも話しました。実際、私は海外で「良いこと」をしている? 一方で、日本で家庭を壊すなど、何人かの人たちの幸せを踏みにじってきています。「海外で働く」ことがアディクションになっている面があるのです。引き返せなかった。
できれば、そういうアディクションの弊害は避けるのが賢明であるのではないか、なんて言いました。けれど、それができなかった者(私)がそういうことを言ってもなぁとも思ってもいるのです。そして、あちらもこちらも両方を取るということではなく、あるものを捨てて生きることはやっぱりあるのだろうなぁと。けして、開き直るわけではありませんけれど。
鎮痛剤の不在にお薬様の威力を思い知る!
東京から神戸へ、一人で日帰り往復はそれほど苦なくできるだろうと踏んでいたのですけれど、やってみるといろいろと大変でした。最大の試練は、痛み! 私、当日の正午ごろに飲むはずの背中の痛み止(鎮痛剤)を自宅に置き忘れたまま、神戸に向かってしまったのです。この薬(たち)は、毎日12時間おき、私は深夜と正午に服用しているのです。
背中の痛みは事故後ずーっと。鎮痛剤を使い出したのは入院中ですから、もう7年以上服用しています。毎日飲んでいて思っていたのは「痛み止の薬は効いているのだろうか???」という疑問でした。だって、飲んでいても痛いのです。夜、痛みで目が覚めてしまうこともある(あるいは、眠れないのを痛みのせいにしているというときもあるのかも?)。
これまでも飲み忘れは何度もありました。でも、正午に飲み忘れた薬を、アッ飲んでないや!と思い出して、数時間後には飲むのでした。完全に12時間薬を抜いて過ごすということが過去に何時あったのか、今、私はまったく思い出せません。
そしてですね、この鎮痛剤が切れた状態、というのが今回ものすごく辛かったのです。
セミナーの時間は13時から16時の3時間。この間は、おそらくアドレナリンが出ているのでしょうね、痛みはそれほど問題に感じませんでした。けれど、セミナーが終わったらよくありません。主催のKICCが簡単な懇親会を会場近くの本格インド料理店で開いてくれました。私はインドのカレーは大好物です。本来なら、がっついて食べるのですけれど……、もう背中が痛くて味がよくわからない。美味しいナンも、半分残してしまう体たらく。
さらにもっと大事なのは、その懇親会でまともに話してない。せっかくの機会なのに!!おそらく私の不調はまわりの方にもバレバレだったのではないかと思います。わりと早いうちに「じゃ、お開きに」となりました。さらに、KICCのスタッフさんが、わざわざ私を新長田駅から新神戸駅の新幹線改札口まで押して送ってくれたのです。これは本当にありがたいことでした。
そこから新幹線にのって東京までの3時間弱。痛みが強いと、本も読めないし、ウォークマンで音楽を聴く気にもなれない。そうだ!カバンの中にプノンペンでパートナーが入れてくれた湿布があった!! 私、車内を巡回している男性車掌さんに「湿布貼ってください!」と頼んでしまいましたよ。だって、背中だから自分じゃ貼れないのだもの。車掌さん、気持ちよく「いいですよ!」と言ってくださって。女性車掌さんも巡回されていたのですけれど、やっぱり男性車掌さんのほうが頼みやすかったです。うーん、なるほどなぁ、そりゃやっぱりそういうものだよねぇ。
帰宅後、薬を飲んだら、これが効くんですよぉ。痛みが完全になくなるということはないのですけれど、不断の「これ薬効いているのかな?」程度までは、つまり耐えられる範囲の痛みになってくれたのですよ。あぁ、お薬様、これまであなたの効力を疑ったりして、本当にごめんなさい。二度と、あなたを忘れません!!!
打たれ越す
今回の痛み事件の最中に、私、思い出したことがあるのです。
新幹線の車両連結通路の片隅の暗がりでじっと東京到着を待つ。痛い。痛い。でも、とにかく待つ。時間が経てば東京に着く。もちろんそこから自宅までまだかかるのだけれど、それだって時間が経てば、なんとかゆっくりとでも自宅に向かえば、最後には絶対自宅につく。自宅につけば、自分のベッドがある。薬もある。なんとかなる。とにかく、時間が経てば、なんとかなる。そして、思い出したのです。あぁ、この感覚は2014年8月にあの事故にあった後の、ルワンダの、ケニアの、そして日本の病院のベッドにただただ横たわって危機をやり過ごすことに集中していたあのときの時間と似ているなぁと。あのときも、ただただ時間の過ぎるのを待っていたのです。時間が経てば、少しずつでも前に進む、と。そっと、ひっそりと、待つ。もちろん、私の廻りでは私を救うために、ひっそりどころか大汗かいて駆け回ってくれた人たちがたくさんおられる。でも、私は彼らにすべてを委ねて、静かに待っていたのです。耐えていた、うん、そうですね。
ギャンブラー用語では「打たれ越す」というらしいですね。ツキがまったく落ちてしまって、どう賭けても裏目、裏目。そんなときは、とにかく被害を最小限にするために残り金を少しずつ少しずつ切り崩しながら、逃げてしまったツキがまた戻ってきてくれるまで、じっと耐えるのが肝心だそうです。それが「打たれ越す」。越せなければ? 死ぬ。ギャンブラーとして終わる。
端から見れば、ゲームを降りて賭けをやめればいいのに、と思うかもしれません。もちろん、短期的にはそういう回避も「打たれ越す」です。けれども、賭けごとを止めるのではない。長期的には、ギャンブラーであるからには、ゲームを降りるということはないのです。休憩は取る。でもゲームは再開される。まだツキは回ってこないかもしれない。けれども、ギャンブラーはゲームに参加し続ける。頭を低くして、少額チップでなんとか持ち金を持たす。そして、待つ。自分の乗れる波がやってくるのを、待つ。自分が乗れる波は、必ずやってくるのです。それを信じられなくなったとき、それがギャンブラーとしての寿命だそうです。
ギャンブルは良くないと思うよ。ギャンブラー的な生き方がかっこいいはずもない。でもね、生きていると「打たれ越す」しかないことは、ある。唯一の希望は「信じること」、そんなときは間違いなくある。
時速200キロメートルを超える速度で東に走り続ける新幹線のぞみ号東京行きの片隅で痛みにじっと耐えながら、私はそんなことを考えていたような気がします。
神戸に行って、よかったです。北村さん、セミナー開催に関わった皆様、視聴者の方々、本当にありがとうございました!!
『打たれ越す』・・・、自分が乗れる波は必ずやって来る。裏目、裏目が続くときは唯一の希望は”信じること” ・・・
人間としてスケールがやたらに大きい村山さんをちょっとだけ知る老体はふんわりと納得させられるように思いますが、まったく知らない御方からの発言だとしたら果たして老体は納得するだろうかと考えます。
人の一生はギャンブルではないと思うが、何かに賭して生きるという点では可笑しな言い方ですがギャンブル的な側面もあるように思います。生きながら裏目、裏目、裏目がn回続いてそのうちにもう直ぐあっちへ逝くような気がしている老体は、むしろ ”賭けないで” 今日も明日もただやりたいことをやる日々です。そう思いながらやっぱり何かに賭しているのだろうか? 裏目に出た時の拘りのなさ、覚り方がもはや人生を終わった輩の人間としての責任を放棄した態度なんだろうか? 必ずしもそうではないような気もしているんですが・・・。
人間として在ることはむずかしいことですね。
ono hisashi様
最近、「充分に生きた」という感覚のことを考えます。先生の書かれたことは、どこか「充分に生きた」ことと重なるような気もします。
それは先生も書かれているように「責任を放棄した態度」とはまた違う。ポジティブに捉えれば「開放」ということと関係があるかもしれない。
先生を始め、充分に生きたとしても、それは「人生が終わって」いるわけではないとも思います。
開放された心持ちの中で、自らの老いと向き合う。それは長く懸命に生きてきた人が得られるご褒美?
痛いのや、苦しいのは、少ないほうがいいですけれど、そこはまたなかなか簡単にはいかないわけで。でも受け止めるしかない。共存するしかない。
そんなふうにも思います。
村山哲也
国際支援のアディクション、その部分で感じられたこと、よく分かります。私も結局同じ経験をしたと思います。社会貢献もボランティアも、「純粋に自分が役に立って喜んでもらえればこの上ない幸せ」という高揚感もあれば、「良いことをやってる」「自分には変える能力がある」という傲りやself importantを感じる時もあります。しかしこれらは、人と関わることをしていたらどんな立場でも何をしていても感じることではないかなぁと思います。なのでお話を直接聞きたかったです
最後の「打たれ越す」はるほど〜と思いました。痛みだけでなく辛い状況にいる時の思いも十分想像できます。よく耐えて来られたなぁ、そしてこれからも耐えて行くことがまだまだあるんだろうなぁ、村山さんも私も誰もが、と思います。
波に乗りに乗ってたような時もあれば、そうではない時もあり、辛い大変な時の方が自己成長に繋がってるように思います。試練があってもThank you for the experienceと言える自分であるか、でしょうか。
今井隆子様
読んでくれてありがとうございます。更にコメントまでくださって、感謝感激雨あられ。
国際支援のアディクションについて。アディクションであることにどれだけ自覚的であるかは大事かなぁと自戒しています。
そうでないと、ときどき痛痛しいような事例もあるような気がするから。
自分を肯定する気持ちは大事。そこにはときには依存のような形態も発生しますよね。そこも一刀両断に依存はダメということではなく、
依存している自分をどこかで俯瞰する目を持つことに努めたほうが楽ちんなのかな、とも思います。
程度問題、と書いてしまえば身も蓋もないのだけれど。
すべてを他者に委ねていたという状況は、恍惚でもあったような気がします。
支援・応援ということを仕事にする中で、コントロールしない、ということをできるだけ大事にしようといつしか思うようになりました。
複雑系の考え方を知ったのはその際に私にはとても重要なことでした。
それでもコントロールしようというあれこれの思いを完全にはなかなか放棄できなかったようにも思うのです。
で、事故に遭った後のしばらくは、自分ではなにひとつコントロールできない状況でした。
ただ運ばれ、横たわっていた。今振り返ると、あれはあれでものすごく気持ちのいい状態でもあったように思うのです。
ただ、ある。ただ、生きている。 死ななかったというのはとても大事なことでした。 あそこで死ぬというのもなかなか美しいストーリーではあったと思うのですよ。
「村山らしいな」ということで、たいへん良く出来ましたという感じ。
でも、そこで死ななかった。その事実は、特に一緒に働いていた人たちに対して多大な貢献であったと思うのです。
だから、「すべて委ねる」ぐらいのことは堂々とできたんじゃないかな。
あのときはね、別に耐えてなかったと思いますよ、本文とはまた違うことを書いてなんですけれど。
ただ、あった、のです。そして、それはきっとThank you for the experienceだったと今振り返って思います。
まぁ、労災が認められて経済的に生活が成り立っているから言えることなのかもしれないのだけれど。経済的な余裕って改めて大事だなぁと思い知らされています。
自己成長の話でいえば辛い時期が糧になっているとは思うのです。でも一方で、「苦労は買ってでもしろ」と若い子に言えるかというと、いやいや簡単には言えないよと強く思ったりもします。単に、私の「辛い」は浅いものだっただけかもしれないしなぁ。本当の苦労をどれだけ知っているのだろうか?多分、知らない。
ケ・セラ・セラ、でやってこられたのは、まぁ運が強いのだろうと思うことはあります。へへへ、全部偶然よ、ってことかなぁ?
村山哲也