夢のある生活

なんだかわからない、ってあるわけで。それもまた、よし、であります。

自慢したいほどバラエティ豊かな夢を見ます!

 本日の注意書き:今日のタイトル「夢のある生活」とは、睡眠中に見る、あれ、でございます。けして、明るい未来、たとえば宝くじがあたるとか、印税生活がおくれるとか、そういう夢のことではございません。

 ぼくは夢をよく見ます。その内容は自分でも感心するほどバラエティに富んでいます。まったく予測できない。どうしてあんな夢、こんな夢を見るのか、思い当たる節もない。そんな夢が多いのです中には、起きているときに出会ったできごとが夢に影響を与えたんだなぁって思い当たるフシがあることもありますけれど、でも、そんな場合でも、そこに付随するコンビネーションの多様さ。
 中にはぜひ皆さんにお見せしたい面白い夢もあるのですけれど、それは言語化してしまうと、まったく白っちゃけたものに変わってしまうのです。というわけで、ほんとうにお見せできないのが残念でしかたありません。

 そもそも、夢というのは、100%ぼく自身の脳内作品(made in my own brain)なわけですよね。初めて海外で生活したケニアでは、現実生活の中で言葉には苦労しました。たとえば、理科の授業を英語でやるわけですけれど、授業の最後に「質問は?」と生徒に尋ねておいて、挙手した生徒の英語がわからない、なんてことがあったのです。いやいや、情けないことでございます。
 そんなぼくの脳の中の出来事。ぼくの前で英語をペラペラと喋る人たちがたくさん出てくるようになりました。しかし、彼らはぼくが作り出した造形ですよね。生徒の質問もよく聞き取れない私自身の脳の中で、ペラペラとしゃべる人たちのその英語は、いったいどこから来ているのでしょうか?ぼくがつくる造形であれば、彼らはもっとたどたどしい英語を話すべきではないのか!?しかも、自分の脳が作成している人たちの英語が、やっぱり夢の中でも聞き取れないというのは、釈然としません。つまり、自分の脳が自分を裏切っている、ってことじゃないですか。許せん!とか、夢の中でも思うわけです。ぼくに向かって話しているこのアフリカ人は、実はこの俺自身が作り出している登場人物に過ぎないのに、わけのわからない英語で話しかけてくるのです。くそー、せめてもう少しゆっくり話してくれよっ、なんて夢の中のぼくが腹をたてている。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

英語で夢を見た感動の朝!

 そして、ある日、そのときがやってきます。目覚めたときに気がつくのです。「あれ、俺、夢の中で英語話してた?話してたよね?つまり英語で夢見てたよね!」
 本当に、あの朝は、ジーンと感動しました。ついに、俺もこの段階まできたのだっ、という感激。これまで好き勝手にわけのわからない英語をぼくの夢の中でくっちゃべっていたやつらを、ついに見返すことができたのです。

 さらにさらに不思議なことに、実生活では相変わらず英語はなかなか聞き取れない。特に米語(アメリカ英語)なんか、さっぱりです。(ケニアはイギリスの植民地だった影響で、話される英語はイギリス英語の影響を強く受けていました。イギリス英語とアメリカ英語、かなり違うなぁというのが当時の印象でした)。
 ところが、夢の中ではどうやらぼくはアメリカ英語もちゃんとヒヤリングできちゃったりもするのです。たとえば、ハリウッド映画の登場人物、エディーマーフィーとか、と対等にやりあっているわけです。『ビバリーヒルズ・コップ』(エディーマーフィー主演)なんか、スラングだらけで字幕なしではなかなか細かいところまではわからないのに。くそー、夢の中では判るのに。それはそれで、なんか残念な感じ。ちなみに、夢の中でも一人称としてのぼくはエディーのようにペラペラとしゃべることはできません。ほぼ実世界と同じように、なんとか持てる範囲の能力を駆使してしゃべっている。でもヒアリングは実生活よりはずっと高いレベルにいけるようです。

 とにかく、ほんとうに夢って不思議です。

 ここで強調したのは、「俺は英語で夢見るんだぜ」ってことではありません。ここはとにかく、けして自分が得意ではない母語以外の言葉も、夢の中では(夢を見ているぼく自身は理解できないとしても、夢に登場する自分以外の人物は)流暢に語っているという状況です。
 もし将来、夢を記録して再生することが可能になったとして、その場合、その流暢に語られる(ぼくには不得意な)言語は、本当に正しいのか。これはとっても興味あります。再生されたとたん、しどろもどろになったりして。うーん、有り得るような気がする。

 とにかく、異境の地で、母語を使わない生活を通して、自分の脳の中に新しい回路が生まれ、それが夢に反映されるわけです。ぼくという人格とは別の次元で、脳は脳で、勝手に学習している?そしてその成果を、夢の中でぼく本人にまるで自慢するかのように見せてみせる。やるなぁ、俺の脳って思わなくもありません。

 ぼくの夢、どちらかというと自分は今よりも若いことが多いです。正確にはよくわからないのですけれど、高校生か大学生ころの年代であることが多いように思います。つまり事実に即すれば、当時ぼくは英語はほとんど話せないし聞き取れない。けれども、若いぼくが英語でやりとりしている夢をときどき見ます。うーん、それもなんか不思議。

夢の中では、まだまだ自由に歩き回っていることが多いのです

 2014年8月にルワンダで交通事故にあって、下半身完全麻痺となりました。いくつかの病院を経由して、退院して社会生活を再会したの2015年7月。そこからカウントしても、車イスでの日々はもうすぐ6年になります。さて、夢の中ではどうなのか。

 圧倒的に下半身完全麻痺前のように自由に歩いたり走ったりしていることが多いように思います。車イスに乗っている状況の夢がないわけではありません。同じ夢の中でも、両方が混在していることもあるような気がします。それでも、多くの夢は、車イスなしでストーリーは展開していきます。
 夢の中で、足が動く、その状況に感激しているってことも特にない。「あー、夢が覚めちゃったら、また歩けない現実が待っている!」なんて思うとすれば、それはそれでちょっと面白いことが書けそうなんですけれど、そういうふうに思ったという記憶もない。
 むしろ、夢の中で「あれ、俺は車イス使わなくちゃダメじゃない」と、夢の中の自分をより実世界のほうに適応させようという意識が働くことはあるように思います。

 こうやって書いていて今思ったのですけれど、そういえば夢の中では「背中の痛み」はない!!
夢ってのは、眠りが浅いときに見るものですよね。ぼくはウトウトして「痛いなぁ」と思いながら、痛い箇所をさするために片腕を背中に回すということはよくあるのですけれど、そのときに同時に夢を見ていたりするのです。そんなとき、「痛み」は現実世界のもの、「夢」は夢、という使い分けがちゃんとできているみたい。うーん、偉い。せめて夢の中では痛みから自由なほうが楽しいもんなぁ。

大声を上げて、その自分の声で目が覚める!のは真夜中の夢

 夢ですから、楽しいものばかりではありません。悩み多き夢、苦しい気持ちの夢もあります。でも、覚えているのはだいたい朝、目覚める前の夢です。朝の夢で、怖くて「ワァ」と声を上げて、その自分の声に驚いて目が覚めるってことは覚えがないです。でも、真夜中にはそんなことがたまに起こります。そんな夢は、いったいなにが怖かったのか、ほとんど覚えていません。とにかく、「ワァ」っと声が出たのはわかります。そして目が覚めて、どっと冷や汗をかいている自分に暗闇の中で呆然とする。カンボジアの夜なら、壁のちんちょ(ヤモリ)が、ケケケケケケッと笑うところです。
 あるいは、「落ちる」という感覚が残る夢、はい、あります。ストーンと高いところから落ちていく感覚。あれも不思議ですね。

 バラエティに富んだぼくの夢ですけれど、ときどき話に聞く「幽体離脱系」の夢は見ないです。眠っている自分を上から見ているみたいな夢。そういう夢をよく見るという知人はいます。霊感の強いという方です。ぼくは霊感は強くはないだろうなぁ。
 金縛りは何回かあります。今でもよく覚えているのは記憶で最初の金縛り、高校生のころ。眠る布団の足元に三輪車があって、「なんで?なんで?」と思っているのに、身体はまったく動かない。ふっと金縛りが解けると、三輪車はなにかの見間違えでしかないことに気がつく。あれは確かに、意識だけ覚めていて、身体は覚めていないって説明がしっくりきます。ぼくにとっては、あんまり夢とは関係がない事象です。

 夢の内容をお伝えしないままなのが残念ですが、やっぱり無理なのです。そして、ぼくだけの楽しみとして、ぼくは「次の夢はどんなかな?」とわくわくしながら横になります。夢を覚えていないようなタイミングで目覚めてしまうと、物足りない。印象深い夢の余韻(記憶)があったほうが、「寝たなぁ!」と充実した気持ちになります。

 今朝の夢もヘンテコでした。まだ断片は頭のどこかに残っています。高校野球、球場での公式戦(準々決勝)、ぼくはそれを見ている側、高い壁、その壁に空いた穴をどう修復するか、偉そうな体育教官、壁の一部が崩れ落ちる、……、そういう断片なんですけれど、そんなこと書かれてもわけわかんないですよねぇ。

コメント、いただけたらとても嬉しいです