私の妻は、サバイバーの娘
私の妻サンワーは1980年11月プノンペン生まれです。つまり、あのポルポト時代が終わった直後にひとつの生の種がまかれ、その種は順調に細胞分裂を繰り返し、そして彼女はこの世界に誕生したのです。
カンボジアの国民700万人のうち200万人が亡くなったポルポト時代に、彼女の両親は“新住民”とカテゴライズされた都市住民(プノンペン在住)でした。農村住民(“旧住民”)と比較し、新住民の死亡率はかなり高かったといわれています。つまり、彼女の両親(私の義父義母)、さらにはポルポト時代前にすでに生まれていた兄(義兄)と、ポルポト時代が始まってすぐに生まれた姉(義姉)は、皆、サバイバー(生き延びた人たち)なのです。
義父義母の昔話
ポルポト勢力によってプノンペンのロンノル政権が瓦解したのが1975年4月。その直後、プノンペンの都市住民は市街に追い出され、4年近く続くポルポト政権の鎖国時代となります。国境紛争等で小さな紛争が絶えないことに業を煮やしたベトナムが国境を大規模に超えてカンボジアに侵攻したのが1979年12月。ベトナム軍はあっという間にメコン川を越え、プノンペンに到達します。一応、そこでポルポト政権のカンボジア統治は終わった。実際には、タイ国境まで退避したポルポト側は、西側諸国(米国、日本、タイ……)と中国の支援を受けて勢力を維持し、カンボジアの国内戦争は国連が介入(国連カンボジア暫定機構/UNTAC)して国政選挙を実施した1992年まで続くことになります。
(注: カンボジア政府の公式解釈では、国内戦争はポルポト勢力が解散した1998年まで続いていました。私も1992年に内戦が集結したという文章を読むと違和感を覚えます。UNTAC後もかなり大きな内戦状況が継続していたからです。例えば、UNTAC後のこと、義兄はプノンペン市内の路上で政府による軍人徴集のために“拉致”されています。義父が必死に探して出して、戦場に送られることなく数週間後になんとか解放されました。おそらくかなりの“金額”を義父は使ったのだと私は想像しています。2002年に私がプノンペンでJICAプロジェクトの仕事に就いた際にも、地方出張にはかなり厳しい制限が設けられていました。UNTACで平和が来たけれど、それはけして100%の平和ではなかったのです)
サンワーの両親は、1975年4月にプノンペンから郊外に追い出され、二人ともプノンペンからそれほど遠くないカンダールの農村、プノンペンからメコン川を横断した場所、に身を寄せたようです。そこは義母の出身地でした。義父の故郷もその近くと聞いています。
サンワーの母親の家系の中に、王家の踊り子集団につながる系譜があったようで、彼女(母親)は若いころから踊り子となる訓練を受けるためにプノンペンで暮らしました。生活の場は現在の王宮の中だったそうです。王宮の中には、王宮で働く人たちが暮らす場所もあったそうなのです。そこで彼女は、王家の踊り子集団の一員に育っていったのです。
サンワーの父親は、正確にはわかりませんが中国からの移民一世の子ども、つまり移民二世だったようです(もしかしたら三世かもしれません)。彼の両親(サンワーの祖父母)は、あまりクメール語が得意でなかった可能性もあるらしい。彼もポルポト以前には中国名をもっていたそうです。
ここも経緯はよくわからないのですが、おそらく紹介者がいて、ふたりは縁あって結婚した。王宮の踊り子集団を管理していたのがカンボジア国の文化省で、王宮の踊り子の一員だった母親は文化省の職員あつかいでした。そのつてで、サンワーの父親は文化省で働いていました。
結婚後、息子がひとり生まれ、そして第2子を身ごもったときに1975年4月を迎え、家族はプノンペンを離れカンダールの故郷に身を寄せたのです。
「身ごもっていたので、ひどい肉体労働はしなくてすんだ」と当時を思い出してお義母さんは語ります。彼女に言わせると、村の人たちは優しかったそうです。多分、彼女には村の旧住民に強い縁故があったのだろうと私は想像します。
お義父さんの両親(サンワーの父方の祖父母、おそらく中国からの移民者)と弟は、ポルポト時代初期には一緒にいたそうです。けれども、1977~8年ごろ、カンダールを含むカンボジア国内東部の住民が大量に西部に移動させられるという政策が取られた際、義父の両親と弟もその中に含まれたのです。
このときに西部のコンポンチュナン、プーサット、バッタンバン方面に送られた住民はとても高い確率で亡くなりました。その多くは餓死といわれています。激しい開拓事業を強いられ、十分な食料配給がなされなかった。お義父さんの両親と弟の消息は、その後現在に至るまでまったくわからないままです。1980年のポルポト政権崩壊以前に亡くなったと家族は皆考えています。義父はポルポト時代に身近な人たちすべてを亡くしています。つまり、彼自身には親戚づきあいはまったくありません。
このとき、義父義母たちが西部への移住者リストからはずれたのも、義母の縁故と関連しているのではないかと私は想像しています。とにかく、彼らはカンダールの村から西部に移動されずにすんだ。ここはかなり運命の分かれ道だったのです。
とにかく、お義母さんお義父さん、そしてサンワーの兄、ポルポト時代に入ってから産まれた姉、お義母さんの妹……、お義母さん周辺の人たちは、なんとか生き残ったのです。ちなみにポルポト時代に生まれたお姉さんの誕生日は「カレンダーなんかなかったからわからない」のです。彼女(お姉さん)のパスポートに記載されている生年月日は、推定で勝手に決めた日になっています。
1980年1月にプノンペンからポルポト派が一掃されたころ、お義母さんはあまり体調が良くなかったそうです。もしかしてポルポト政権がもう少し長く続いていたら……、なんてこともあったかもしれません。家族は、しばらくはカンダールの村で世間の様子に耳をすませていたそうです。
ポルポト時代が終わって
以下は、お義母さんの妹(サンワーの叔母さん)から聞いた話です。
先日、プノンペンからメコン川を南東に下った場所にある川沿いにあるお寺を訪ねた際、叔母さんが「この辺りの田んぼまで収穫に来た」としみじみおっしゃるのでした。
1980年に入って、ポルポト勢力がタイ国境まで逃げてしまったあとのこと。あちこちの村々には、誰も手入れをしなくなった田んぼがたくさんあったのだそうです。そんな稲田でも、時期がくれば稲は実る。その年は、生き残った人たちはそういう田んぼにでかけていっては、勝手に収穫したのだそうです。一時的に、「獲ったものが勝ち」状態が生まれていた(プノンペン市内の家々も、同様に棲み人のいない家は「住み始めたもの勝ち」だったようです)。
その田んぼの場所は、当時、お義母さん家族(叔母さんもそのひとり)が静かに様子をうかがっていたカンダールの村からは10キロ以上は離れています。しかも、村からその田んぼにやってくるためには、メコンを横断しなければなりません。そのあたりのメコンは、場所によっては幅1キロを優に超える広さです。そこを小さな手漕ぎの船で渡って収穫にやってきたというのですから、私はかなり驚きました。川下に向かう分には流れにのればなんとかなりそうですけれど、川上に向かって流れのあるメコン川を横断するのはかなりのエネルギーが必要だったはずと思うのです。
「この広いメコンを渡ってわざわざ来たのですか?」と尋ねると、「そうだ、船で渡ってここまできて、その船に収穫したコメを乗せてまた村まで帰った」と叔母さんははっきりとおっしゃるのですから、うん、本当に渡ったのでしょう。獲ったコメは、自分たちで食べたのだそうです。
やがて家族は、再びプノンペンに移った。以前から公舎となっていたアパートに文化省スタッフや踊り子集団の生き残りもなんとなく集まってきた。お義父さんは文化省に復職し会計職を務め、お義母さんは踊り子集団を復興させた数少ない人たちの一員となりました。
そして、みなさんがプノンペンに戻ったころサンワーは生まれたわけです。2年後に第4子(サンワーの妹)も誕生しました。その妹は、母親と同じ王宮伝統ダンスのダンサーとなり、今では主に国立芸術学校で学生たちに踊りを教えています。
義両親は二人とも今では退職して(わずかな)年金暮らしです。それでも、お義母さんは今でも針子の重要人物(踊り子の衣装は、舞台の直前に踊り子の身体にあわせて針子が縫って身につけるのです)として、様々な行事に駆り出されています。
毎年、クメール正月のころはシュムリアップに出張するのが恒例ですし、昨年のASEAN首脳会議や今年のASEANスポーツ競技大会の際には、毎晩公演のステージの手伝いに出かけていくのです。
義母と義父があのポルポト時代を生き延びてくれて、今、私はその恩恵をどれだけ受けているか。
私がフィリピンのダバオで働いていたときにも、ちょっと似たようなことがありました。そこで知り合ったお婆は、日本軍兵士の撃った銃弾を足に受け、その貫通跡が生生しく残っていました。そして、太平洋戦争後にお婆は子を産み、さらに孫が8人。その孫たちが私の友人になりました。彼らとは今でもインターネットで交流が続いています。(お婆はたくさんの家族に囲まれて、数年前に永眠しました)
さらに。久しぶりに会って話す友人から「数年前に大病を患って…」なんて話を聞くことがときどきあります。来年還暦の私のまわりですから、実は“サバイバー”はうじゃうじゃいる。そういう私自身も、2014年のルワンダでの交通事故を含めて何回かヒヤリということはあった。
私も含め、私が出会った“生き延びた人たち”の物語はあるし、あった。その物語はひとりひとりが話し出せば何時間でも語れるものなのです。
生きてりゃいいさ、とは気楽には口にできない。でも、生きてみてほしい。死なないで欲しい。
なんとか生き残って……
そして、やっぱりガザです。
生き残って欲しいと、思う。生き残れば、また何かがある(かもしれない)。死んでしまった方が楽、と思う瞬間もきっとある。でも、サバイバーにはまだ物語が続く。
今日死んでも、10~20~30~40~50年後に死んでも、悠久の宇宙的億年時間からすればほんのかすかな違いです。でも、だからこそ、そのかすかな違いを得て欲しい。得る(生きる)権利が皆にある。
報道を読むと、ガザの殺人を止めようと多くの人が努力しているのは伝わってくる。国連で話し合っている人たちも、けして伊達でやっているわけではないのもわかる。
一次的には、イスラエル政府だ。彼らが殺しを止めなくては、ガザでの殺人被害者は増えるばかりです。そして、とりあえず、私個人にはイスラエル政府の蛮行を止める力はない。
だから祈るばかりです。銃口を人に向ける、あるいは爆弾を落とすスイッチを押す、そういう人たち(兵士)のためにも、これ以上の人殺しは止めて欲しい。殺しの経験者を増やしてはいけないと思うのです。命令だから……、それで済まないのが人です。殺す経験は、必ずその個人の人生に負のエネルギーとしてふりかかる、溜まる。実証例は山ほどあるのです。イスラエル社会にとって、それが良いはずないでしょう???
やめれ、やめれ、やめれ、やめれ……………お願いです、止めてください。


















僕は村山さんのように言葉が口から出てこないから自分の思いをうまく表せないが、やっぱり『殺すな! 人殺しをするな! 人殺しをやめろ!』とイスラエルの政府に、イスラエルの軍隊に、イスラエルの兵士一人ひとりに、言いたい。『ハマスを・・・』とか、『ハマスが・・・』というセリフを聴く時間は蛮行をやめた後にいっぱいある。とにかく、『人殺しをすぐやめろ!』と叫びたい。