1992(平成4)年の年末、青年海外協力隊員として2年間ケニアで活動した私は、帰国前にニジェールにサハラ砂漠を見に出かけた。
ケニアにはニジェール大使館がなかった。ナイロビにあるエチオピア航空のオフィスで飛行機チケットを購入してからフランス大使館に電話した。西アフリカの旧仏領諸国の入国ビザは仏大使館で入手できると誰かに聞いたのだと思う。けれども、仏大使館の回答は、「Non」、そっけないいものだった。あらまー、ニジェール入国に必要なビザがとれない!
調べてみると、エチオピアの首都アジスアベバにはニジェール大使館がある。そこでビザが取れるかもしれない。アジスアベバでのトランジットはほぼ24時間だった。ナイロビからの飛行機はアジスアベバに昼頃に到着し、空港についたその足でニジェール大使館に駆け込み、なんとか翌朝ビザを出してもらうことができた。という背景が以下の話にはある。
以下、1992年12月にナイロビからアジスアビバ経由で、ニアメイ(ニジェールの首都)に向かったときの思い出です。
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ニジェールに向かうために、ナイロビからエチオピアの首都アジスアベバに飛んだときのこと。混雑した飛行機内に私は3人がけの真ん中に座っていた。右隣の窓際には、遊牧民の人が着るような白い綿製の民族衣装をゆったりと着た初老の男性がいた。頭部にも白い布をきっちりと巻いていた。
飛行機がアジスアベバに向けて高度を下げ始めようというとき、その男性が突然黙ってこちらに自分のパスポートと入国票をぬうっと私に差し出した。それはエチオピアのパスポートだった。お爺さんは帰国するわけだ。それ以上の事態が飲み込めずに躊躇している私を尻目に、左隣の通路側に座っていたアラブ系の大柄な男性が、私の顔の前に手を伸ばしてそのパスポートと入国票を受け取った。そして、パスポートの記入内容を見ながらエチオピアの入国票に必要事項を記入し始めた。ふたりの間に会話はない。
そうか、窓際のお爺さんは自分で文字が書けないのだ。おそらく入国票も読めないのだろう。非識字。それでも、のぞき込んだ彼のパスポートにはたくさんの国のスタンプが押してあった。彼は多くの国々を訪れるたび、こうやって隣の旅人に入国票やビザの書類の記入を頼みながら旅してきたのだ。また、アラブの男性の自然な仕草もとても好ましく思えた。おそらく以前にも他人の入国手続きの記入を手伝った経験があるのだろう。つまり非識字で世界を旅している人が少なからずいて、それを手助けする人もいる。
そうか、字が読めなくても書けなくても、海外に行けるのだ。考えれば驚くほどもない当たり前のことではないか。お爺さんはアラブから自分のパスポートと必要事項が記入された入国票を受け取ると、アラブに対して軽く眼で会釈をし、アラブも小さく頷き返す。ふたりの間に座っている私にとって、このふたりのやり取りはこれぞインターナショナル、国際人の格好いいものに思えた。世界は広い、開いている、いいぞいいぞ。
アジスアベバでトランジットの一夜。宿を探して歩いていたら、声を掛けられた。言葉があまり通じないままなのでなんとも不確かなのだけれど、普通の民家の一部屋が空いているから泊まらないか、ということらしかった。危険かもしれないと思いつつ、なんとかなるだろうとも思い、結局ついていくことにする。案内されたのはベッドとタンスが置かれたそっけない部屋だった。窓際には、質素な部屋には似合わない鮮やかに青い色のカーテンがついていたことを覚えている。よし、決めた。お腹が減った、インジェラが食べたいと伝えると、待っていろ、という仕草が返ってくる。やがて、皿にインジェラと肉やら豆やらの煮込みが運ばれてきた。
運ばれてきた食事を案内してくれた男性に加えて新たに現れた数人と一緒に食べる。どうやらこれは私のおごりなのだろうなぁ。値段交渉も何もしていないから、後でふっかけられないか心配になるけれど、まぁなんとかなるだろうとインジェラの酸っぱい味を楽しむ。食事が終わるとコーヒーを飲みたいかと聞かれる。もちろんと伝えると、コーヒー豆を煎るところから始めるコーヒーセレモニーが始まった。幼い子を連れた美しい女性が、静かにコーヒー豆を煎り、それを石臼で砕いてコーヒーを入れてくれる。相変わらずそのセレモニーにも知らない人たちが出入りするけれど、もうどうにでもなれだ。気がつけば、もうだいぶ夜も更けていた。
やがてひとりで部屋に上がり、ベッドに入る。部屋の扉には鍵もかからなかったから、大事なものだけは枕の下にいれたと思う。暗い部屋の中に外からの薄明かりが青いカーテンの隙間から入ってくる。初めての町、私のことを誰も知らない町の一夜、コーヒーのせいか緊張のせいか最初はなかなか寝つけなかったけれど、気がつけばもう朝だった。枕の下の貴重品も無事だった。
いよいよ勘定となった。相場はよくわからないのだけれど、高級ホテルの10分の1ぐらいの値段だった。ほっとして払いを済ませる。
たった一晩の短いアジスアベバの滞在は、今でも強い印象とともに心に残っている。
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それから20年ほどたって、ルワンダで仕事をすることになった私は、カンボジアからルワンダに向かう際に、よくエチオピア航空を使った。プノンぺンからお隣タイの首都バンコクへ飛び、そこからエチオピア=エアでエチオピア首都のアジスアベバへ、そこからルワンダの首都キガリへ。アジスアベバでは飛行場を出る時間はなかったものの、空港の猥雑さはなんかなつかしかった。さらに、ルワンダ勤務中にキガリからアジスアベバの友人の訪ねて週末旅行したこともある。アジスアベバの週末に開かれたソフトボールの試合に、助っ人で参加しに行ったのだ。そのときは街中を歩き回って20年前と同じ地元カフェを見つけて嬉しかったりしたことも思い出さたのでした。
インジェラはイネ科のテフの実を粉にしたものを水と混ぜて発酵させて生地を作り、それをクレープのように焼いたもの。世界でエチオピアのみで主食として食べられている。ボロ雑巾のような味と酷評するむきもある。
私がインジェラを始めて食べたのは、青年協力隊派遣前研修の語学クラスの教官がエチオピアの人だったのが縁だった。彼は、東京の目黒あたりでエチオピア料理レストランを開いていたのだ。研修が終了したころ、語学クラスの同級生で彼のレストランに出かけ、そこでインジェラと出会ったわけ。そこで提供されたインジェラは盛り付けはお洒落だったけれど、酸味といい、色や形といい、それまで食べたことのない触感・味覚が新鮮で、強く印象に残った。ボロ雑巾? とんでもない。私には最初から大変美味でありました。
その後、ナイロビ(協力隊/1990~92派遣国ケニアの首都)、キガリ(2012~14JICAプロジェクト実施国ルワンダの首都)でもインジェラをときどき楽しんできた。あぁ、書いていると涎がでてくる。キガリのエチオピアレストランに続く住宅街の未舗装路の道のりが頭の中に浮かんでくる。ここをまっすぐ歩いていけば、右側にあるのです。そういえば、あのレストランは車イスで入店するには入口の傾斜が強く、けっこう大変だろうなぁ。そもそも石ころだらけの未舗装路が車イス者にはたいへん厳しい。やれやれ、まったくなぁ。歩けるって、便利だったなぁ。
インジェラの原料であるテフというイネ科の植物も直で見たことがある。日本の主食コメの原料である稲と比較すると、ずっと貧弱で、実も小さく、印象としては“雑草”っぽい。あの小さな実を収穫して、脱穀し、粉に挽き、水と合わせて発酵させ、クレープのように焼く、その過程を想像するとエチオピアの人たち(特に調理を担当する女性)の苦労が偲ばれる。
あぁ、インジェラ食べたいなぁ。生きているうちに、食べる機会が再びあるかしら? プノンペンでインジェラを供するエチオピアレストランがあるという情報を見聞したことはまだない。お隣タイの首都バンコクにはあるらしい。もちろん、東京に帰郷すれば食する場所はあるのだけれど、そうそう出かける機会・きっかけもない(東京で食するエチオピア料理は、それなりに高額ですし)。もしかすると、このまま死ぬまでインジェラを食べる機会はないのかもしれないなぁ……。ま、それはそれで仕方がないと思ってもいるのですけれどね。
でも、インジェラ、とても美味しいです。機会があれば、ぜひ臆することなく“ボロ雑巾”に立ち向かってくださいませ。










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