私を好きだとあなたは言うけれど、あなたは私を好きなあなた自身が好きなだけ。

プノンペン、雨季の日のある激しい雨。雨雨降れ降れもっと降れ。

返しようのない、無敵な一言

 ある女性から、そう告げられたことがある。

 あれには参った。二の句が告げなかった。きっと彼女の言うとおりなんだろう。そう思った。

 「あなたが本当に好きなのは、私のことじゃない。私のことを好きなあなた自身が好きなだけなのだ」と彼女は感じ、それをぼくに伝えたんだ。もちろん、それは批判だ。ぼくへの痛烈な批判。
 でも、そう言われてどう返すことができただろう。あれからもう数十年経ったけれど、今も時々考える。
 「いや、そうじゃなくて、本当に君が好きなんだ」と言えば良かったのだろうか。でも、それはなにか滑稽に思えた。言えば言うほど、墓穴を掘るような感じ。「君を好きだ!」と言えば言うほど、そう言っている自分自身に酔っているだけだ、という声がはね返ってくる。
 けれども、そうだ、俺は俺自身を好きなだけなんだ、ということを認めるのもかなり情けない。他者を好きになるという行為は、結局は自己肯定感のたまものなのだということに収斂しちゃっていいのだろうか。俺は俺に酔っているって認めるって、開き直りでもなんでもない、ただの坊っちゃん、デクノボウ、そんな風にも思えた。

 そういう君はどうなんだ? と聞き返すことは可能だったろうか。君がぼくを好きなのは、そういう君自身を好きなだけなんじゃないのか? 
 ただ、そう聞いて、どうする? もし彼女が「そうだよ、あなたを好きな私自身を好きなだけなんだよ」と答えたとして、それを聞いて安心するのか? 納得するのか? そしてぼくたちはまた抱き合えるのか? 君を好きだというぼく自身が好きなぼくと、ぼくを好きだという君自身が好きな君が、なんのために互いを求め合うのか? それは自慰、オナニー、マスターベーションの一変形に過ぎないみたいじゃないか。

 もし彼女が、「私は違うよ。私は本当にあなたが好きなんだよ」と答えてもらったとしたらどうだっただろう。ぼくは安心したのだろうか。でも、「私を好きと言っているあなたは、実際は私を好きなんじゃなくて、私を好きだと言っているあなた自身が好きなだけなんだ」と感じている彼女は「私はあなたが好きと言うのは、そう言っている私自身が好きなわけじゃなくて、言葉の通りそのままあなたが好きなの」だとして、その彼女にぼくはなんと言えばいいのだろう。「ありがとう」と返せばいいのだろうか? それとも、「ぼくもそうなんだよ」と言えばよかったのか。
 どうやったら、天秤の目盛りはちゃんと真ん中に位置することができるのだろう。フィフティ・フィフティの関係の中での理想的な相思相愛、そんなものは結局、幻想でしかなかったのだろうか。

 永遠の謎

 わかってほしい。理解して欲しい。人はそう思う。特に恋愛ってそうだ。自分のことを見てもらいたい。そしてわかってもらいたい。そんなふうに思う。
 でも、自分は自分のことをどれだけわかっているのだろうか。実は、自分のことさえ、よくわからないってのが本当のところなんじゃないかな。だから、この人と思った対象をフィルターを透して語られる自分の話を聞きたいのかもしれない。この人に理解された上で好かれている自分という存在に安心したい。きっとそうだった。そして、「私を好きだとあなたは言うけれど、あなたは私を好きなあなた自身が好きなだけ」と言われて、まさに見透かされたようでウロタエた。理解って欲しいと思っていて、その願い通りしっかり理解ってもらったというわけだ。まさに自業自得。

 彼女にそう言われたその後、どうなったのだったっけ? ぼくそう告げることで、彼女は満足したのだろうか。ウロタエたぼくを見て、ふふふふ、とほくそ笑んだのだろうか。それとも、ため息ひとつついて、また同じ日々が繰り返されたのだっただろうか。

 ある昼間、道端で咲いていたコスモスの花々を、彼女が突然むしり取って歩いたことがあった。一緒に歩いていたぼくは、ちょっと呆然としてそんな彼女をながめ、やがて彼女の行為を止めようとしたような気がする。彼女の中には、ぼくの知らない彼女がたくさんいたような気がする。
 実際、見透かされていたのはどちらだったのだろう。見透かされているという感覚は、理解されているという感覚と、どれぐらいシンクロするのだろう。つまり、理解されるってことは、恐ろしいことなんじゃないのか。理解して欲しいって思っているくせに、理解されたそばから、見透かされる。見て欲しいと望んだのに、見られすぎると困る。

 ぼくたちは、あまりに近づき過ぎたのだっただろうか。それとも、あまりに若すぎたのか。
 だったら、どうすればよかったのだろう。どうしようもなかった? そうかもしれない。そうじゃなかったかもしれない。年齢を重ねていれば、もっと楽ちんになれたのだろうか。年齢を重ねていっても、あれだけ好きにな気持ちを維持できたのだろうか。表と裏。ボジとネガ。そういうことだったのか。

せめて、安心を

 安心。とても大事なことなんだと思う。

 安心して語る。安心して愛する。安心して眠る。安心して助ける。
 簡単なようで、実は簡単じゃない。
 語っても大丈夫だろうか?誰か聞いていないだろうか?誤解されないだろうか?逮捕されないだろうか?
 愛しても大丈夫だろうか?受け入れられるだろうか?裏切られるんじゃないだろうか?やがて終わりがくるんじゃないだろうか?
 眠っても大丈夫だろうか?爆弾はおちないだろうか?突然ドアは叩かれないだろうか?また再び目覚めることができるだろうか?
 助けても大丈夫だろうか?余計なお世話じゃないだろうか?サステイナビリティ(持続可能性)はあるだろうか?助ける力がぼくにあるのだろうか?

 だから、できるだけ安心を提供したい。せめて、身近な人に、安心を提供したい。気がついたら、それぐらいしかできないのでした。でも、ぼくの存在で安心できた人が、また違う誰かに安心を提供する。そうやって安心がつながっていく。そうなれば、いいな。やっぱり、それぐらいしか、できないな。

 遠い遠いあの人が、どうぞ今、安心して暮らしていますように。

 

コメント、いただけたらとても嬉しいです