援助をやっていると、いろんなことがある ある援助者にふりかかった“冤罪”

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 プノンペン空港からプノンペンの中心地に向かって車で走ってくると、今ならふたつ目の陸橋を渡り切った左手にプノンペン大学のキャンパスがある。校門を入るとその正面に横に広い長方形をした大きい、でも奥行きはない、建物があり、そこは主に理学部が入る棟だ。私が始めてプノンペンに来た1996年、この大きな建物の窓々を通して、向こう側の空がよく見えたのを覚えている。つまり建物の中は、ほぼすっからかんのがらんどうだった。あるのは机と椅子だけで、カーテンすら付いていない部屋が多かった。理学部といいつつ実験機材もまだ未整備で、高価な分析機など皆無だった。この建物はプノンペン時代以前の1960年代に建設され、そしてポルポト時代(民主カンプチア政権1975~1979)には建物内は徹底的に破壊された。そしてポルポト時代が終わって16年経った1996年になっても、大学教育の復興は遅々として進んでいなかった。(ポルポト時代とは?という方には、また後日、説明を書こうと思っております。)

 その後、私は2002年からODA(政府間援助)で実施されていた理数科教育改善計画プロジェクトで働き出した。そのころにはプノンペン大学を支援する外国人が何人か入っていて、オーストラリア人のジャス(仮名)もそのひとりだった。理科教育を応援するプロジェクトに入った私は、理科教育関連の会議でジャスとすれ違うことが度々あった。優しい笑みをいつもたたえたジャスはとても紳士的かつ親しみ易い人で、私は彼からカンボジアの理科教育の実情を教えてもらうことが多かった。

 ある日の新聞に、ジャスがカンボジアの貧しい子どもたちへの虐待容疑で逮捕されたという記事が載った。もちろんびっくり仰天だ。あのジャスがそんなことをするなんて、信じられない思いだった。でも私は彼のプライバシーは全く何も知らなかった。あの優しい笑みは子どもたちを安心させるのには有効だろうし、その笑みの裏に潜む暗い欲望が有るとも無いとも、私には判断のしようがなかった。プノンペン大学を支援する外国人グループが、彼の冤罪を主張し釈放をアピールしているという話が伝わってきたけれど、私は何もしなかった。もちろん「まさか彼がなぁ」とは思いつつ、その気持ちを具体的な行動に移す手間を私は惜しんだ。

 半年以上経って、ジャスが証拠不十分で無罪釈放されたのを知った。彼を支援した人から聞いたことによると、カンボジアで性的児童虐待撲滅のために活動をしているNPO(非営利団体)に偽情報がもたらされ、そのことで彼が無実の罪に問われたのだという。知らぬうちに誰かの恨みを買ったのかもしれなかった。釈放されたジャスは、静かにプノンペン大学での支援を再開した。

 しばらくしてジャスと再会する機会があった。私はジャスに彼の冤罪を晴らすために何もしなかったことを侘びた。「まさかと思いつつ、もしかしたら自分の知らないジャスがいたのかもしれない」と考えたことも正直に伝えた。以前と変わらぬ静かな笑みを浮かべながら、彼は「第三者だったなら、自分もそうしていただろう」といって、さり気なく私の気持ちを楽にしてくれた。

 収監されていたとき、どんな気持ちでいたのかも尋ねてみた。自分が無実なことは自分が一番良く判っていたからそこは気が楽だったし、自分はこういう目に遭う運命だったのだなぁと思っていた、とジャスは答えた。「誰のことも恨んでいない」とも彼はいった。釈放後、彼のオーストラリアの家族はカンボジアでの活動を止めて帰ってくるように彼を強く説得したそうだ。けれど、「自分は何も間違ったことはしていない。だから余計に帰るわけにはいかなかった。そうだろう?」とジャスは微笑んだ。

 その後、彼とは理科の資料集作成などいくつかの仕事を一緒にした。それはいつも楽しい仕事となった。

 プノンペン大学の理学部棟の前に立っても、今では建物の向こうの空が透けて見えることはない。ほとんどの部屋にカーテンがついているし、まだ不十分といいつつ多くの資機材が校舎に入っている。ポルポト時代が終わって2020年ですでに40年以上が経った。私がプノンペン大学を始めてみてから数えても20年以上が過ぎた。あのころの寂れた雰囲気は、若い世代の華やかさで満ちる今のプノペン大学にはもはや過去のものだ。

 ジャスはいまでもプノンペン大学での支援を続けている。シワはずいぶん増えたけれど、あの優しい笑顔は健在だ。

 「自分が無実なことを、自分は判っている」、万が一有罪判決が出てもジャスはそういったような気がする。今度会ったら、聞いてみようと思う。