自由意志での選択という幻想。自分だけが例外であるはずもない。でも、それでも求める「自由」とはなにか?

北米大陸西北部 先住民の人たちが残したトーテムポール文化  1998年 バンクーバーにて (本文と直接の関係はありません)

学校で先生に質問したら怒られた、という多くの子どもたちが世界にはまだたくさんいるのです。

 学校で先生に質問をすると怒られた、という話は、これまで働いた限られた国の中でもときどき聞く話しだ。

 カンボジアでもそうだし、最近はミャンマーの事例でやはり学校で先生に質問したら「授業の邪魔をするな」と激しく叱責されたというミャンマーの人のインタビュー記事を読んだ。あるいは、これもカンボジアの事例だけれど、ぼく自身が目の前で見聞した事例で、教員養成校での生物の授業で、生徒の質問に対して、質問された教官が専門的な単語を使いながら難しい説明をしていたということもあった。その回答は、生徒の質問にまっすぐに答えるというよりも、難しいことを言ってごまかしているのだなぁ、という印象をぼくは強く持った。

 途上国の先生によく見られる傾向として、生徒の質問に対して「わからない」とは答えられないという現象がある。先生たるもの、「わからない」と答えるのは沽券にかかわるのだ。けれども、実際には「わからない」と答えるしかない質問が生徒から出されることはよくあることだ。そのような質問は、高校などと比べるとむしろ小学校で多いんじゃないだろうか。生徒の芳醇な好奇心「どうして?」の中には、「それはまだわからないんだよ」と答えるのが誠実な対応ってことは、十分に有り得る。ときには「先生もよくわからない」と答える必要があることもあるだろう。特に小学校の教員は全科目を教えなければならないため、ときに深い知識が足りないということもある。「わからない」と答えることは、けして恥ずかしいことではない。むしろ、知らないのに知ったかぶりをするような態度こそ、生徒に対して不誠実だろう。
 けれど、教師とは権威である、という意識が強い社会では、生徒の質問に対して「わからない」と答えることは、権威の失墜につながるんだ。だから、質問禁止、というような状況が生まれやすい。あるいは、生徒のわからない単語を使って難しいことを答えるような姿勢でその場を誤魔化すようなことが起こる。どちらも、生徒の好奇心を勇気づけることから遠い態度だ。結局、生徒たちは、教師の言うことに疑問を持ってはいけない、という思いを強く持つことになる。
 フィリピンでよく見た風景に、教師が「わかりましたか?」と生徒に問いかけて、自信のない生徒たちの多くは黙り込み、一部の生徒だけが小さい声で「はい、先生…」と答えるという状況があった。そんなとき、教師は再度、最初より大きな声で「わかりましたか?」と問う。こんどは最初より多くの生徒が最初よりもちょっと大きな声で、「はい、先生」と答える。そんな生徒の反応に満足できない教師は、さらに大きな声で「わかりましたか?」と聞き、3度めの問いとなれば生徒全員が大きな声で「はい、先生!」と叫び、教師はようやく満足そうにうなずく。ごくごくありきたりの風景で、やれやれだなぁと思いながら眺めていたものだ(もちろん、授業後の協議では、そのことも話題にはするのだけれど、簡単に改善する課題でもないのです)。日本の学校では、さすがにそういうシーンはそうそうはないはずだろうとぼくは想像するけれど、実際にはどうだろう?

自由意志で自分が成り立っているのではないとしても、守りたい「自由」はある

 さて、本題は「自由」なのでした。

 ぼくの古い飲み友達は、ときどき酔った回らぬ口調で「俺たちは、自由が好き、自由を大事に思う、っていう点では似てるんだよ」とか、うだうだ言っています。それを聞いて、そうか、俺は自由が好きなんだ、自由を大事に思っているんだ、なんて影響を受けやすいぼくは思ったりする。
 でも、先のブログ(6月19日投稿)で書いたように、自分の自由意志なんて、実はけして自分のものなんかじゃなく、時代と社会の一面を反映したものに過ぎない。そのことは、「自分だけはそうじゃない」なんて言うのは、きっともう子どもっぽいのだと思います。素直に、認めるしかない。

 つまり自分がどういう価値観を持つかという経緯は、けして自由に選択しているわけではないらしい。じゃ、友人やぼくが大切に思っている「自由」とはなんなのか。考えてたどり着いた結論は、たとえ時代と社会の一面を反映したモノであったとしても、それを表現する自由は大切にしたい、ってことなのです。自己合理化、自己肯定力の勘違いの賜物だとしても、それを語り、その価値観で行動することの自由はあっていいよね、ってこと。たとえ過去の思想の受け売りで寄せ集めだとしても、そんなことは当たり前でいいじゃない。ただ、今、それを口にしたい。それを、表現したい。それを、伝えたい。その自由は維持したい。大事にしたい「自由」とは、そういう自由なのだと思います。もちろん、そこには「借り物の思想」ですけど、って謙虚さはあっていいだろうけれど、でも、語りたいことはあるのです。

 そして、時代と社会の一面の反映として獲得してきた価値観を保つ自由も大切にしたい。そうやって寄せ集めでできた自分を肯定し(あららら、また過剰な自己肯定力かしら?)、その価値観の変更を権力に強いられない、という自由。それは自由というよりも、権利という言葉のほうが適切なのかもしれないけれど、でも、やっぱり自由のほうがピッタリこないかしら。どうだろう?

たとえ「幻想の自由」であっても、それを失ってはいけないんじゃないかな

 最近のカンボジアでのニュース。英国のBBCによれば、20代から30代の環境活動家が3人、トンレサップ川への不法投棄物の調査中に逮捕され、裁判所は王室への不敬罪を適応して5年から10年の禁固刑を命じたとのことです。ただ、なぜ彼らの活動が不敬罪と判断されたのかは不明瞭です。
カンボジア、王を侮辱して環境活動家を告発 – BBCニュース

 この3名の活動家がなぜ環境問題に興味を持ち、具体的な活動に至ったのか。もちろん、彼が影響を受けた何かがあるのは間違いありません。彼らが所属する環境問題を考えるグループがあり、その創設者は米国人(すでにカンボジアから米国に帰国)だったという情報もあります。そのような国際的な環境活動家からの影響もあるのでしょう。外部からの影響を受けて、彼らはたまたまそういう活動をすることになり、そして逮捕され、理由も明確でないまま有罪判決を受ける。

 たとえ外部からの影響を受けたとしても、彼ら自身が行動し、それが時の権力から咎められる。彼らの行動は、本当に罪だったのだろうか?不敬罪?ニュースを読む限り、詳細はよくわかりません。周りに聞いてみると、このニュースはフェースブックで回覧されているようですけれど、やはり詳細はよくわからないとのこと。とにかく、環境活動に対して政府がいい感情を持っていないのだろうという印象だけが広がっていきます。

 きっと、ぼくが大事にしたいのは、彼らがした行動が「自由」の範疇で、罪に問われることがないというようなことなのです。権力が好まないような行動を取ったり、表明したりする自由。香港でも、中国でも、ミャンマーでも、このカンボジアでも、そんな自由が侵害されている。最近、フィリピンの大統領は、市民に対して「新型コロナのワクチンを射たないことは許されない、射たない奴は投獄じゃ!」と表明しています。ワクチンを射ちたくないという自由はないのだ、ということです。けして高い確率ではありませんけれど、ワクチンの副反応・副作用で苦しむ人も少数いるわけで、でもワクチン接種を拒否する自由は、社会を守るためには許されないということです。どうなのだろう?ワクチン接種を拒否する自由も、ぼくはやはり大切にしたいと思うのだけれどなぁ。
 先生に質問する自由(権利かな?)も大切でしょう。一方、先生が生徒の質問を禁止するのは教師の自由というような問題ではない。なぜなら、それは先生は生徒にとって権力者だから。権力者が支配者に対して「自由を制限」することにはとことん慎重でありたい。権力者の「自由」には目を光らせたい。権力を監視し批判する自由、表現の自由、行動や移動の自由などは、歴史的に市民が勝ち取ってきた成果であって、民主主義の根幹に関わることなのだと思います。

 でもね、民主主義もなかなか怪しいのですよ。小坂井敏晶は、その著書『社会心理学講義 〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』(筑摩選書 2013)の中で、民主主義の自由に対しても以下のように書いています。

全体主義社会では権力に強制される事実が明白だから、行動の原因を自らの内的な動機や人格に結びつけない。しかし民主主義社会では、自分自身で決定したという正当化が起きやすい。つまり既存ヒエラルキーを維持する上でむき出しの暴力に頼る全体主義に比べ、民主主義社会ではより巧妙かつ隠されたメカニズムを通して秩序が維持される。強制されている事実に気づかず、自らの意志で行為を選択するという虚構がかえって支配状況を可能にする。被支配者が自ら率先して正当性を見いだすおかげで支配はその真の姿を隠蔽し、自然法則の如く作用する。本来は自由の身でないのに、自由だという幻想を抱くからこそ、我々は権力の虜になるのです。(198ページ)

  この観点からすれば、どんな民主主義でもそこにある自由は「幻想の自由」に過ぎないということになります。けれども、先に挙げた例は、「幻想の自由」すらも否定する、民主主義とは呼べない強権政治の有り様です。「幻想の自由」をどう解釈し駆使するかという問題はとりあえず棚上げするとして、とにかく幻想であれなんであれ、批判の自由、表現の自由、行動や移動の自由は、やはりなくちゃいけないとぼくは思うのです。その上で、ぼくたちひとりひとりが自分に与えられた「自由」が幻想かどうか、自らの意志の源泉はどこにあるのか、見極めていくしか「幻想の自由」を乗り越えていく術はないのだと思うのです。そのためにも、強権政治には警戒するしかない。強権政治からの圧力に恐怖し怯えすぎるのは辛いなぁと思うのです。強権政治が語る「我々独自の民主主義」は、まずほとんどが、それは民主主義じゃないよ、ってことです。

 と書きつつ、ぼく自身もどこか自粛の罠に囚われていると思うことがあります。怖い、という感情。やばいかなぁ、と思ってどこか腰が引けた表現になっているんじゃないかな、ということを思うのです。そういう感覚を伝えることも、現場にいるってことなのだよなぁ。

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