遠くに、近づく (アフリカの教えと、民主主義に関する一考察)

教員研修を行っている部屋の外では、生徒たちが体育の授業を行っていた。 ルワンダ (本文とは直接の関係はありません)

南アフリカ ヨハネスブルグの空港の壁に書かれたアフリカの教え

 「急ぐならひとりで行きなさい、遠くまで行くのならみんなで行きなさい」というアフリカのことわざがある。南アフリカ共和国のヨハネスブルグの国際空港でトランジットしたことがある。その空港の壁に、このことわざが大きく書かれていたはずだ(英語で)。

 急ぐならひとりで行け、というのは分かりやすい。人数が増えれば増えるほど、旅はなかなかはかどらない。時間通りに集まらない人がいつだっている。集まったと思えば、トイレに行きたいと言い出す人がいる。毎度毎度、人数を確認してまわるグループのリーダー(ツアーコンダクター?)の苦労は、そりゃ大変なものだ。
 ひとりならば、そんな苦労はない。旅はどんどんと進む。たまたまのバスにだって飛び乗れる。ちょっと食事を抜いたって、文句をいう人もいない。

 ならば、遠くまで行くなら皆で行け、の意味はなんだろう。旅がはかどるほうが、遠くまで行けるんじゃないかな。ならば、ひとりのほうが遠くに行けるってものじゃないかしら。
 ここから先は、想像、妄想の世界だ。

 遠くに行くのは、どっちにしたって時間はかかる。長旅では予想もしていない問題も起こるだろう。たとえば、体調がすぐれず、病気になったりすることもある。ひとりじゃ、どうしようもない。そんなとき、みんなでいれば、お互い助け合うことができるだろう。ひとりでは乗り切れない問題も、3人集まれば文殊の知恵。長い目で見れば、ひとりよりもみんなで行ったほうが、遠くまでいけるってものだ。

 そんなふうな意味だろうか。
 もう少し妄想してみる。

何故、遠くに向かうのか

 どうして遠くまで行くのだろう。遠くまで行くことにしたのだろう。
 旅立ちのとき、その旅は遠くまで行くことになる、って解っていたわけだ。だから、ひとりではなく、皆で行くことにした。だから、その段階で、遠くに行くことが意識されていることになる。なぜ、遠くまで行かなければならなかったのか。
 食料や水を求めて?敵から逃れるため? つまりは生き残るため?
 みんなで遠くまで行くことを、生存競争の比喩ととらえて、多様性を説く論調もある。遠くまでいく(種が長く生き残る)ためには、みんな(多様性)が大事なのだというのだ。

 障害者を保護することを、この多様性を持ち出して語っている例をいくつか読んだことがある。たとえば、こんな風に。「できるだけ多様な形質をもった個体を生かすことが、ヒトという種そのものの存続にとって有利に働く」生産性のない人間は生きる価値がないのか?『こんな夜更けにバナナかよ』著者・渡辺一史が問う | 日本財団 (nippon-foundation.or.jp)
(渡辺一史さんの『こんな夜更けにバナナかよ』は、大傑作・名著だと思います!未読の方には、ぜひぜひのオススメ本です)
 種の存続、という点ではきっとそのとおりなんだと思う。けれど、障害者であるぼくとしては、こんな理由を持ち出さないと、障害者の権利を擁護できないのかよ、とも思う。遺伝子なんて、ぼくら日々生きているときに、ほとんど関係なしじゃない。自分のモノではあるけれど、自分の範疇の話でもないような遺伝子レベルの価値を語られても、ピンとこないし、それってやっぱり優性とか劣性とか、つまり優生思想にすぐに転化しちゃいそうじゃない?

 どうして遠くに行きたいか? 生き残りじゃなくて、それが楽しいから、っていう理由はどうだろう?みんなでわいわい旅をして、そして遠くまで行く。その行為そのものが楽しいから、旅立つ。ひとり旅では得られない楽しさがあるんじゃないかな。もちろん、ひとりで急がない旅をするのも、きっと楽しい。けれど、アフリカのことわざが伝えたいのは、みんなで行くと楽しいぞ、だから遠くまで行けるぞ、ってことじゃないだろうか。

面倒くさい、けれど

 実はぼくは、大人数で行く旅が好きじゃない。どちらに行くかを多数決で決めて、遅れた人を待って、調子が悪い人が出れば滞留して、なんてのが、ついついめんどうくさい。だから、そんな旅が始まっても、きっとすぐに離脱しちゃう。つまり、未だに「皆で行く楽しさ」のステキさを知らないのかもしれない。
 これって、民主主義の話でもあるよね。民主主義って、かなりめんどうくさい。特定の人や集団がものごとを決めるのではなくて、みんなで話し合って決める?選挙だ、議会だ、三権分立だ、平等だ、公平だ、多数決と言ってみたり、少数意見の尊重と言ってみたり。ひとつのことを決めるのに、あーだこーだと時間をかけて、反対意見にも耳を傾けて。結果、いっつも折衷案。
 能力の高いリーダーの即断即決のほうに魅力を感じる人が、だんだん多くなるのも当然なのかもしれない。やがて、民主的な手続きに従って独裁者を生み出すというのが、民主主義のジレンマとして常にあるのは、民主主義がとにかく面倒くさいからだよね。

 妄想してみる。
 ある朝、リーダーが決める。旅にでるぞ、みんな、ついて来い。カリスマリーダーの決断は絶対だ。皆がリーダーの後を追う。けれど、リーダーの歩みは早い。やがて、人々は脱落していく。あるとき、リーダーが振り向いたとき、その後を付き添う者はひとりもいない。リーダーの落胆や如何に。
 リーダーようやく「急いでいくならひとりで行け」という格言を思い出す。誰もついてこれないことに落胆するぐらいなら、最初からひとりで黙って旅立てばよかったんだ。

 みんなで行けば、めんどうくさいことは多い。それでもガヤガヤ、ワイワイ、それも楽しいじゃないか。寒い夜には身をよせあって。暑い日差しに、少ない水を分け合って。
 そんな日々の継続が、遠くに近づくためには欠かせないのかもしれない。知らず知らずに近づく、それが遠くに行くための秘訣なのかも。

 次のチャレンジ(比喩としての旅)は、「遠くに行くならみんなで行け」をぼくも意識してみようかと思い始めている。おそらく、ぼくは途中で離脱するだろう。でも、みんなで行けば遠くまでいける、そんな風に思えたら、きっと楽しい旅になるんじゃないかなぁ、と。
 

 

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