ぼくは“和人”なの? あなたは? あるいは、ぼくはどうして“先住民”ではないのか? について考えてみる。

東村岳史著『現代北海道とアイヌ民族ー和人関係の諸相』(左)と石原真衣著『沈黙の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』(右)

アイヌの人たち、あるいはアイヌに係わった和人の人たちについて書かれた本を読む

 アイヌに関する本を読んでいます。東村岳史著『近現代北海道とアイヌ民族-和人関係の諸相』(三元社 2021)と、石原真衣著『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)  サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』(北海道大学出版会 2020)の2冊。

 前著者の東村岳史さんは自らを和人と書き、本の帯には「アイヌ民族に関わる和人の当事者性を問う」とある。本の序章には次のような文章も記されている。

 自分の研究は「マイノリティ研究」ではなく、「マジョリティ研究」だと私は思っている。私の書いた論文題目を見て、「アイヌ研究をされているのですね」という人が多いが、私は「和人(日本人)研究」のつもりである。アイヌ民族について論じたいことはあるものの、自分は自分が属している側について中心に論じたいと考えてきた。(10ページ)

 筆者の意図を尊重すれば、ぼくが最初に書いた「アイヌに関する本」というのは、「日本人に関する本」に書き直したほうが良いことになる。本の著者紹介によれば、東村さんは北海道帯広出身とのこと。

 一方、後著者の石原真衣さんは母方の祖母がアイヌだった。やはり本の著者紹介には「サッポロ生まれ」とある石原さんが母親から「祖母がアイヌであった」と知らされたのは彼女が12歳のときだった。母親が石原さんに「北海道の歴史を正しく理解する人にしか、アイヌの血を引いていることを言ってはいけない」と伝えたそうだ。アイヌの出自を持つということがどういうことかどういうことなのか、本を読んでも、誰に聞いてもわからなかった石原さんは、やがて当事者研究と自伝的民族誌論(オートエスノグラフィー)とを融合させた研究に乗り出すことになる。

 もし母親からの“告知”がなければ、石原さんが祖母がアイヌであったとこに気がつく機会はなかったかもしれないそうだ。おばあちゃん子であった石原さんにとって、祖母の周りにアイヌを意識させるものは一切なかった。祖母ツヤコに関して、石原さんは以下のように書いている。

 ツヤコは、徹底してアイヌ文化に近づかなかった。アイヌの民具や、衣装の何ひとつ持たずに、生まれたときには母語であったかもしれないアイヌ語を、生涯話すことはなかった。ツヤコがコタンで暮らしのたのは、八歳までである。その後の人生全てを、日本社会で過ごしてきたのだから、たとえつる(引用者注:口周りに入れ墨のあった石原さんの曽祖母)たちがアイヌプリで過ごしていたとしても、ツヤコがアイヌ文化を保持することは難しかった。そしてツヤコは信じていたのだろう。アイヌの一切を放棄して、新しい時代を迎えれば、自分が経験した貧困や差別や苦難は、少しでも和らぐはずであると。和人の農家での奉公を終えて、功と結婚して平取町本町で住居を構えた後でも、ツヤコがアイヌとして振る舞うことはなかった。イオマンテやアイヌのお祭りがあっても、ツヤコは近づこうとはしなかった。
 和人である功との結婚は、恋愛結婚であるが、「和人と結婚する」という強い意志に基づいていた。(96ページ)

 1925(大正14)年生まれのツヤコ(石原の祖母)は、ぼくの祖母(大正初期の生まれ)と母(昭和14年生まれ)のちょうど中間の年代だ。それほど昔の話ではない。そういう人生が北海道であったのだ。

 自分はアイヌなのか、和人(日本人)なのか宙ぶらりんな気持ちでいた石原さんが、大人になってからようやく「祖母がアイヌだった」ことを口にしたとき、本人の複雑な思いに関わりなく、周りの人は石原さんを「アイヌ」と分類したのだそうです。そして「自分のことをアイヌとは思えない」という石原さんに対して、「アイヌとしてのアイデンティティが定まっていない」とか、「アイヌであることを否定している」という声が上がったのだそう。
 母方父方合わせて4人の祖父母がいる中でそのひとりだけがアイヌであれば、自分はアイヌであるのか?しかも自分はアイヌ文化の何ひとつ知らないというのに。

 問題が石原さんのアイデンティティにあるのではないことは明らかでしょう。問題は、“名付ける側”にまずあるわけです。

ぼく自身は和人なのだろうか?

 さて、そんな2冊の本を読みながら、ぼくは改めて自分の出自を考えました。
 ぼくは自分の4人の祖父母のうち、3人は直接に知っています。そしてその3人もすでに他界しています。彼らはぼくにとって何人でもなく、単に祖父母であったわけで、果たして彼らが和人だったのか、それともそれ以外の何人だったかは知りません。直接本人に確かめたこともない。また何人であったかということを、祖父母の生前も他界後も、親戚内で語られたことを聞いたこともありません。
 ちなみに8人いたはずの曽祖父母についての情報は、私は何も知りません。さらに16人いたはずの祖父母の祖父母たちのことなどなにもわかりません。父は新潟の深い山奥の出身で、母は東京生まれですけれど、祖父母はおそらく埼玉の北方平野部の出身のようです。

 しかし、特別なことを聞いたことがないからと云って、彼らご先祖様が和人であったかどうかはわからないではないですか?たとえば、石原さんと同じように、伝えられなければわからなかった、ということなのかもしれない。その点でいえば、東村さんが自分を和人とする根拠は何なのか、興味があるところです。
 いったいどうなれば和人なのでしょう?たとえば米国で白人と言えば、ご先祖が白人でないと白人ではない?多少、“黒人”(アフリカ系)や“黄人”(アジア系)、“赤人”(アメリカ大陸先住民系)らが先祖に含まれればもはや白人ではなくて有色人ということになると読んだことがあります。

 さらに宗教による“区別”もある。“ユダヤ人種”などという人種はあるのかないのか?要はユダヤ教を信じていればユダヤ人? 実際、世界のユダヤ教信徒を受け入れているイスラエルには、ロシア系ユダヤ人もいれば、エチオピア系ユダヤ人もいる。

 となってくると、もし自分のご先祖を真剣に辿っていって、もしアイヌの先祖がおられたり、琉球出身、あるいは先島(八重山諸島)の出身がおられたり、さらには朝鮮半島出身の人がおられたり、ユダヤ教信徒の人が見つかれば、自分の和人性は揺らぐということになるのでしょうか?

 もちろん、書いていてなんともバカバカしいようにも思います。いえ、自分の和人としての純血性なんて、どうでもいいからです。和人であろうとなかろうと、今の自分にはそれほど問題があるとは思えない。それはつまり、自分は日本社会の中で多数派としてノウノウと生まれ育ってきたということの告白に他なりません。そのことで云えば、自分は和人であろうとは云えます。社会の中の少数派としての悲哀や苦労を経験することなく育ってきたという事実だけがあるわけです。つまり、ぼくの和人性は別に両親や祖父母の“血”の問題にあるのではなく、社会状況の中にあるのだとわかります。そういう〇〇人ということに対する無自覚性が、ぼくの和人性の根拠であるってこと。

 つまりぼくの和人性も、ぼく自身の“名乗り”の問題ではなく、社会からの“名付け”の問題です。ただ、多数派の場合は、そこに葛藤も苦しみも、ない。 (と、今回はここで終わってもいいのですけれど、以下、おまけのようなモノ)。

共生の名の下、制度の中に生き続けるレイシズム

 日本を日本たらしめているものは何かと問われれば、私は天皇の存在と日本語だと答えます。皇統の議論 | 衆議院議員 河野太郎公式サイト (taro.org) 2020年8月24日より)

 これは次の総理大臣になるかもしれない衆議院議員の河野太郎さんの『ごまめの歯ぎしり』というブログからの一文です。河野議員が自分のブログに『ごまめの歯ぎしり』、つまり「力のない者が無駄に腹を立て、悔しがること」という意味のタイトルをつけているというのは、ちょっと驚きではあります。つまり謙遜しすぎじゃないの?ということです。だって、彼のツイッター、すごい数のフォロワーがいるのでしょう?『ごまめの歯ぎしり』というタイトルの彼のブログを読む人も、私の『越境、ひっきりなし』とは比較にならないほど多いはず。しかも日本の最高権力者に上り詰めるかもしれない人である彼が「腹を立て」たり、「悔しが」ったりすることが、力のない者の無駄な怒りや憤りとはぼくにはちょっと思えない。
 ま、タイトルのことはさておき。日本を日本たらしめているのは、天皇の存在と日本語という彼の意見、ぼくはわからないではありません。特に、まず日本語。これはぼく自身も自分は誰かと考える際に、ぼくを大きく規定しているものだと思っています。ぼくが自分を“日本人”だと自覚させるものは何かと問われれば、ぼくは日本国政府発効のパスポートの存在と日本語だと答えるでしょう。
 もうひとつの、天皇の存在。これはぼくの「日本人としての自意識」には関係ないと思っておりますけれど、一応、憲法には日本人としての象徴とされているわけで、日本国籍者としては全くの無関係とは云えません。さらには、先のアイヌの人たちのことを考えるとき、あるいは琉球の人たち、在日韓国朝鮮人の人たち、被差別部落の人たち、障害者と云った「少数派」という人たちにしてみれば、天皇、あるいは天皇制は、まさに日本の日本たる意味を深く刻んだ存在であると言えるでしょう。

 ちなみに、先に紹介した河野議員のブログには、天皇の存在がなぜ日本を日本たらしめている存在なのかという理由は書いてありません。長々と男系が途絶えると云々みたいなことが書いてあり、あとは国民の世論調査の結果が云々と書いてあるだけです。
 でも、天皇制がより強力に少数派を作り出し、彼らに同化(あるいは強力な分化、差別)を強いてきたわけで、それが日本を日本たらしめてきたというのであれば、まったくそのとおり。でも、和人ではない日本人(たとえば4分の1、アイヌなり朝鮮なり琉球なり)にとって、きっと天皇制というのはかなりやっかいな存在だろうなぁと想像します。彼らを、日本の中の外部として強く位置づける装置になったのも日本を日本たらしめる天皇制だからです。
 (ちなみに、あえて天皇制と書いています。天皇と書くと、なんか個人個人になってしまうような気がして。以前、青年海外協力隊の訓練中、天皇拝謁を仮病で休んだ際に「天皇制に疑問があるなら、拝謁して直接天皇に言えばいいのに」と同室の仲間から言われたことがあるのですけれど、まぁ個々の天皇個人に文句を言う筋合いではないとは思っているのです。でも、本質的には、ここで天皇と書こうと、天皇制と書こうと、実は大きな違いなどあるはずもありません。あくまでぼくの気分の問題)

 と、ここまでを読まれた方で、「なんでも天皇制のせいにするな!」なんてことを思う方もおられるかもしれない。でも、ですね、石原さんの祖母ツヤコが「徹底してアイヌ文化に近づかなかった」のはなぜか。それを祖母自身による選択だと済まられないとぼくは思います。それはツヤコが彼女が生きる社会の中にあるレイシズムを強く強く感じていたせいなのです。そして徹底して自分の育った文化、お祭りにも、一切近づかなかった、母語であったアイヌ語を一切口にしなかった、そのことがツヤコにとってハッピーなことであったかどうかは、そりゃハッピーじゃなかったろうと想像するのです。そしてツヤコが感じたレイシズムは、その第一歩は違いましたけれど、でも明治以降、天皇の名と共に北海道に急激にシステムとして導入され広がった。
 そしてツヤコが怯えた社会のレイシズムは今どうなったのか。東村は『 近現代北海道とアイヌ民族-和人関係の諸相』 の中で 日本政府による「アイヌ文化振興法」の制定や、政策検討の中心となった「アイヌ政策推進会議」の動向・構造・性質の分析に取り組んだ後 、以下のように書いています。

 以上のようなアイヌ政策複合体とそれを取り巻く構造について、私は「矯正された「矯正」」を形成していると考えるに至った。(中略)
 かつて、アイヌ民族と長年親交がある哲学者花崎皋平が「共生」を提唱した当初は、「共生」概念はアイヌに対する差別が根強い日本社会に対する批判や変革の意味合いが込められた言葉であった。それが行政用語としてラディカルさは脱色され、歴史的な反省や謝罪、権利確立という論点は抜きにして、なんとはなしに“なかよくしましょう”という意味合いに変色させられている。上述のように、観光事情と連携して「共生」がうたわれ、肯定的で楽しげな「共生」が展開されている。まさしく小換骨奪胎である。
(159ページ)
 

 上記のように書いた東村は、このような状況を「制度化されたレイシズム」とも呼んでいます。ここでもシステムです。この制度化、つまりシステム化されたレイシズムも天皇制と無理に結びつける必要はありません。ただ、このシステム化の根っこは日本の歴史では比較的新しい、明治に始まった天皇制にあることは確かで、そしてそれは現行憲法下でも無反省に継続しています。

 そういえば、共生の掛け声の下、先日行われたTOKYOオリンピックの競歩マラソン競技が行われた札幌市で、競技の背景でひっそりとアイヌの踊りが舞われた(アイヌの踊りを開会式で披露する案もあったそうですけれど、理由はよくわかりませんが採用されなかったそうです)ことをチラッと思い出しました。もし和人としてその踊りに出くわしたとき、ぼくはどんな感情に襲われるだろうか想像してみます。踊りは踊りとして、楽しく、素敵なものでしょう。素直に愉しめば良いのかもしれない。けれど、やはり複雑な思いがするでしょう。共生の胡散臭さはやはりある。オリンピックでアイヌの人たちの踊りを利用するならば、二風谷のダムはなんだったのよ、鮭の漁業権はどうなのよ、国有林の一部をアイヌに返還することのほうが大事じゃないのか、というような思いがするのです。そんなふうに先住民の権利が復活するのであれば、和人として少しは共生が楽しめるのになぁと。

 

 

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1件のコメント

私は大阪南部の市で生まれました。小学校3年生の時に、父の故郷である埼玉中部の町へ移りました。9歳の時って、言葉の面で微妙ですよね。私の家は父親が船乗りでいないかったし、兄がいたものの、叔母や祖母たちと暮らしていたので、大阪へ帰ってもしゃべる言葉は基本的に泉州の女言葉です。
 埼玉へ移ってからすぐに「大阪弁をしゃべる」ということでいじめられ始め、それは中学3年生まで断続的に続きました。しゃべる言葉を否定されるって、人格否定にもつながる厳しいものですよね。
 私は盲学校(視覚特別支援学校)に勤務し、卒業生の資格試験や就職試験の門戸開放運動、盲導犬拒否への対応や研究支援を35年間(今もかも?)、いろんな雑音を撥ね退けでおこなってきたのは、自分史のなせる業が背景にあったかもしれません。まぁ、世間でいうところの出世とは程遠い生活でしたが。多少(どこではなく)、勤務校での「いじめ」には大人げないと言われるほど、厳しく対応しました。
 雑感ですが。

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