4月中旬のクメール正月が明けて、下旬に体調を崩して救急車で病院のICUに担ぎ込まれてしまいました。そのままICUで一週間、普通病棟で一週間ちょい。自宅静養でぼちぼち10日間ほど過ぎました。おかげさまで、しっかり回復に向かっています。
大きな胃潰瘍ができてました。感染症的急性胃潰瘍? 一時は出血がひどく、その潰瘍を切除する、つまり胃の一部を切り取ることも選択肢になってしまって……。でも、なんとか切らずに済みました。
退院してガザのニュースを探すと、その2週間もずっとイスラエル軍による爆撃は続いている。そりゃ、ガザだけが問題なわけではない。ウクライナも戦闘は続いているし、スーダンや南スーダン、コンゴ東部でも紛争は続いている。イスラエル軍はヨルダンやシリヤでも爆撃を繰り返しているので、そこでの被害者も出ているでしょう。
なになに、米国ではイスラエルに批判的な言動をした海外からの留学生を国外退去処分にし始めているらしい。なんと破廉恥な。私は米国から入国拒否受けちゃうかもしれないなぁ。
入院中、たまに停電があったんですよ。するとさっと病院の自家発電に切り替わる。それでもICUに入っていると、停電で自家発電に切り替わるその際に、なんとなくICU内が一瞬緊張するような感じが伝わってきました。電気、不可欠なんだよねぇ。
ガザでは、その電気すらイスラエルがいいように切断している。薬どころか食料まで輸送が止まっている。そして続く爆撃。世界はその蛮行を止められない。まったくもってなんもできてない。それは我が日本政府もそうです。まったく無力。情けない。
関税云々以前に、まずガザの虐殺を止めてよ!って思うよ。金の話以前に、まずは殺すなでしょう? でも、熱が入るのは金の話なんだよねぇ。なんだかなぁ。
クメール正月、思い切ってパリに行ってたのです。プノンペン⇄シンガポール⇄パリというルートでした。シンガポールからパリまで、通常の航路だとウクライナ上空を通過するのです。けれども、サンワーと私が乗った飛行機はウクライナ上空を避けて、黒海の南側を飛んでいきました。その先、少し行くと地図の航路図にはパレスチナもちらりと映り込みました。あぁ、ガザが見える(実際には見えたわけじゃないんですけれど)……と、とっても切なくなりました。
で、パリ。サンワーは18歳のとき(1998年)に語学研修(もちろん仏語)で2カ月パリ郊外で過ごしているのです。そのときにお世話になったおばさん(といっても遠い親戚のようです)に会いたいと出かけたのです。でも、プノンペンからどうしても連絡が取れなくて。それでもパリに行くだけ行ってみようと出かけました。私は多分もう連絡を取るのは難しいだろうと思っていました。
そして、パリに行ってからようやく連絡が取れたのです。それまで中継地点となってくれていたおばさんのパートナーが2年前に亡くなっていた。それで連絡が切れてしまったこともわかりました。それでどうやって連絡をとったのかって? そこはちょっと省略。とにかくラッキーでした。
サンワーは27年ぶりにおばさんと再会を果たしたのでした。
1998年、パリでの研修が終わった際、サンワーは帰国の便に乗りたくなくてパリの空港で大泣きしたそうです。もう2度とカンボジアの国外に出られることはないだろうと、18歳のサンワーは思ってとても辛い気持ちになったのです。カンボジアはようやく内戦が終結し、ポルポト派の将軍たちが自分の兵士を引き連れて次々と政府軍に投降するのが完了した、そんな時期でした。ポルポトが死んだのもこの年の4月でしたね(国際的にはカンボジアの内戦終結は国連が介入したUNTACの1993年の選挙と理解されていますけれど、カンボジア国内では内戦は1998年のポルポト派全面投降まで続いたとされています)。
27年経って、今度のパリ行きではサンワーが空港で泣くことはありませんでした。
バリで再会したおばさんは、1980年にタイのキャンプ経由でパリに亡命しました。叔母さんはポルポト時代以前は王立クメールダンスの踊り子でした(パリ郊外の自宅には踊り子時代の写真が壁に飾ってありました)。ポルポト政権が1979年にタイ国境に退去した後、彼女は一度プノンペンに戻ってきて、そして当時のパートナーが暮らしていたパリ目指して、プノンペンを後にした徒歩でタイ国境に向かったのです。もちろんパリまでの道は、かなり険しく長い月日がかかったそうです。
今70代後半の彼女は、サンワーに「最後はカンボジアに帰って暮らしたい」というようなことを語ったそうです。やっぱりそういうモノなのですかねぇ。
私も久しぶり、車イスになってからでは初めてのパリでした。楽しかったです。パリで働いている、ルワンダ時代の同僚である響子さんとも久しぶりに再会でき、それもとっても嬉しかった。
そして、帰ってきて数日後に、私は救急車で搬送されちゃったというわけでした。やれやれ。
でも、はいとにかくおかげさまで元気になりつつあります。もう大丈夫そうです。
ブログ、また書きつづっていきますね。
ということで、今回はさらっと近況報告まで。
ではでは、またまた。











ICUには驚きましたが、復調されて何よりです。
家族が救急車読んだときには、発熱で悪寒がひどくて。がたがたと震えが止まらなかったところまでは覚えているのですけれど、その後、うわ言を言ったり、幻覚を見てたりしているうちに、運ばれていました。救急車に乗ったときのことはまったく覚えていないのです。いやいや、自分でもびっくりです。
感染症系の急性胃潰瘍でICUだったのですか? 急性だったからよかったねえ、じわじわ進んだ大きな胃潰瘍じゃ、もっと大変なことになったでしょう。私も胃潰瘍になりました。出血すると痛い。村山さんは上部消化管は神経があるんですよね、痛かったでしょう。私は透視で出血の様子を見せられてまいりましたよ。胃が蠕動運動する度に出血するんですよね。村山さんのは感染症系の急性だから胃の中が出血で真っ赤になったことでしょう。とにかく、内科治療で治ってよかったね。急がないでじっくり回復して下さい。
私のメールをくださったときはICUから出て間もない頃だったでしょうか? 悪かったね、変なメール送ってしまってさ。
どうかお大事になさって下さい。
小野先生
ところが私、横隔膜あたりから下が感覚がなく、今回胃が痛いという感覚は無かったのです。そこが実は問題なのかもしれません。本来なら痛いと感じるところが、わからない。だから治療が遅れてしまう。そんなこともあるのかも。
でも痛くないのは楽ちん???
急性だったと書いたのは私自身の判断で、実際にはお医者様に急性と言われたわけではありません。もしかしたら急性ではなく、じわじわ進んでいたのかも?
入院してICUに入れられたときには、最初食事が出たのです。でも私はまったく食欲がなく、ほとんど食べることができませんでした。その後、血液検査でヘモグロビン値がとても低かったり、血圧も低かったりで、おそらくどこかで出血が続いているらしいと。それで胃カメラを飲んだら、すぐに絶食になり、それがほぼ三週間続きました。退院してからは液状の栄養剤の経口摂取が始まりましたから、それは正確には絶食ではないけれど、固形食がダメなのは私の気分では絶食でした。今はすでに普通食に戻しています。
そうですか、胃潰瘍痛いのですね。胃潰瘍と診断されたのは、今回生まれて初めてでした。くせになったりしないようにしたいけど、さて、自分じゃコントロール効きませんねぇ。こまったものです。