「支援必要者」が“迷惑”をキーワードに殺され続けている。支援をリスク分散させる価値観と体制、必要です。それこそね、義務教育で若い世代に考えてもらいたいです。

2024年12月、姪っ子の結婚式。この姪っ子夫婦が私のケアをしてくれたのでございます。 結婚式時に両者それぞれに3名ずつの護衛(未婚者)がつくというのが、カンボジアの結婚式です。結婚式の様式化が統一されていて、もはや私はカンボジアの結婚式には退屈してもいるのです。

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(突然飛びますが、米寿を超えて先日亡くなった曽野綾子氏は1931(昭和6)年生まれ。上記の横塚晃一氏は1935(昭和10)年生まれ。ふたりはほぼ同世代。長命で日本政府からの文化勲章も受勲した曽野氏と、障害者世界では英雄ですけれど短命でほぼ無名のままだった横塚氏。曽野氏には失礼ですけれども、両者を比較したとき、私は障害者世界と非障害者世界の間の深い谷、断絶、を感じるのですよ。障害者と非障害者の間の境界は不確かでグラデーションとか言われると、カチンとくるのはここらあたりに起因するのですきっと。曽野綾子氏自身と彼女を支持した一定数の人たちについては、やはり早逝したコラムニスト小田島隆さんの『誰にも正義は押し付けられない誰にも正義は押し付けられない:日経ビジネス電子版)が私の心に沁みます。読者登録しないと読めない記事なので、ここで一段落だけ引用します。
 彼らは、「人間の生存を保障するために社会が設計されている」というふうには考えない。「社会を存立せしめるために人間の生存が許されている」というふうに考える》
 ここでの《彼ら》とは、曽野綾子氏のぶっちゃけ本音放談に拍手喝さいを送る人たち。そして、彼らは障害世界にも牙を剥く人たちだ。インターネット内のSNSの発達によって、《彼ら》の声は世間を席巻しているようで、障害者として私はオロオロと身をすくめるのです)

3件のコメント

植田渉@乳幼児を育てる時期は終わった模様 より:

「赤ちゃんに対する支援」すらも「望んでも子を持ち得なかった人への配慮を求める筋違い」から(!?)、あるいは他の理由で、声高には求めることが出来ない社会だと、私は感じていました。さて、、、「支援が必要な他人」に対する態度・感情は、、、上手く纏まりませんが課題の多い世の中です。

そうですか。なんとなく息苦しい感じがあるわけですね。

「高校無償」とかも、子どものない家庭や、高校に行かない人にとっては「配慮のない」措置なのでしょう。
けれども、そういう声は聞こえない? 上がっていてもかき消されている? どうなのでしょう?

私が言いたい「赤ん坊を始めとする支援を必要とする人」という意図は。
植田さんが書かれている「望んでいても子を持ちえなかった人」も、もともとは赤ちゃんということ。
自分たちの子どもの話ではなく、あなた自身が「支援を必要とした人」であったし
さらには実はこれからも常に「支援を必要とする人」となるリスクを負っているということ。
高齢者のすべてが「支援を必要とする人」ではないのかもしれませんが、
そうなる可能性は高い、ということ。

自分自身、の問題なのです。「赤ちゃんに対する支援」はそういうふうに理解してほしいと思っているわけです。

取り急ぎ

村山哲也

植田渉@乳幼児を育てる時期は終わった模様 より:

ありがとうございます!自分自身のこととして捉える、という点の欠けた書き込みを思わずしてしまいましたが、ご指摘頂き、またその背景も察して頂き恐縮です。それにしてもなかなか、重たい課題です。もっと正面から取り組み自分なりのやり方を見つけられると良いのかなと自省しています。

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