ジャッキーミットゥの「オーボエ」が聞こえてくる
ジャッキーミットゥというすでに故人のオルガン奏者がいる。ジャマイカ出身で、つまりレゲエ音楽だ。彼の『キーボード・キング・アット・スタディオ・ワン』というCDの7曲目に「オーボエ」が収録されている。タイトルには木管楽器の名が使われているけれど、演奏にはオーボエの音はない。タンタタ、タンタタ、という単純なパーカッションのリズムが続き、その向こうで、くぐもったオルガンの気怠いような、それでいて緊張感もはらんだ演奏が9分38秒続く。
この曲を聞くと、ぼくはいつも決まった風景が見えてくる。自分が助手席に座った白いトヨタの大型四駆バンが、緑色した茶畑の丘が緩やかに連なる中に伸びる道を快適に走っていく。ときおり視点は、走っているその白い車をかなりの高度から鳥瞰したものに変わる。車はやがて茶畑を超えて、左右にカーブを繰り返しながら森の中へ入っていく。チンパンジーが暮らすニャングウェの森として知られる、ルワンダ南西部に広がる大きな森林公園の中の舗装したての国道を、車はかなりの速度で西から東に進んでいく。
森に入ってしばらくして、左カーブ、そして右カーブと続くS字を描くその真ん中あたりで、車は突然後輪を右に滑らせ、反時計回りに回転し始める。そのまま180度回転した車は、右へ曲がっていく道路にサヨナラでもするように、後部から道の左側にそれていく。左側は、最大斜度45度(事故後の調査による実測値)の谷になっていて、道路上を滑りながら速度を落としていた車は、ガクンという衝撃と共に後部から斜面に沿って再び加速度を上げる。この加速度のエネルギーは、さっきまでのエンジンからの機動力ではなくて、地球の重力だ。
その間も、ジャッキーの演奏は快調に続く。タンタタ、タンタタ…。助手席のぼくからは、車が斜面を落ち始めたときに、フロントガラスの向こうに高い空が開けた。ドライバー(アルフレッド)の「ア~~~~~~」という、情けない声が響き渡る。とっさに助手席左手にあるハンドブレーキを引こうかとぼくは考える(ルワンダは車は右側通行で、日本と逆。助手席の位置は進行方向右側)。でも、考えただけで、手を伸ばす間もない。そこで助手席からの視点は消える。あるはずもない上空の鳥瞰からは、緑の森の中で白い車が道から外れて、谷を落ちていくのが見える。白点は、二度ほど大きくバウンドしながら横向きとなる。斜面には大きな木はなく、低木だけがまばらにある。その低木を何本か巻き込みながら、白色は埃を上げて滑り、転がり、落下し、やがて谷の中腹で止まった。
タンタタ、タンタタ、タンタタ、タンタタ、パーカッションはリズムを刻み、オルガンは漂流を続け、やがてフェードアウトしていく。そしてぼくの記憶も途切れる。
不思議なことに、ぼくがジャッキーの音楽を知るのは、日本に運ばれた先の入院先のベッドの上だ。それでも、まるでカーステレオから流れていたかのように、オーボエという曲は事故の映像とぴったり重なる。本当に不思議だ。
ふたつの大きなラッキー
2014年8月29日金曜日、現地時間で午後4時頃、その事故は起きた。

Google mapを使って筆者作成
日本国が実施している政府間援助(ODA)の仕事で、ぼくはルワンダ教育省に派遣されていた。事故の数日前から、校内研修活動を促進するための学校長向けの研修を南西部の町ルシジで教育省の同僚たちと開催し、その帰り道のことだった。7人が車に乗っていた。ぼく以外は、みなルワンダの人。ぼくが最年長で50歳、最年少は5歳の少女だった。首都に戻る車に同乗を求めた研修参加者がいて、5歳の子はその彼女が連れたふたりの娘のひとりだ。そして、その研修参加者(娘さんたちの母親)がこの事故で亡くなった。ふたりの娘は骨折などの怪我はあったものの、無事だった。(亡くなった方の遺族には、ODA実施機関ができる限りの補償をしている。)
事故音に気がつき、事故現場に駆けつけた森林公園のレンジャーたちがいた。これはすごくラッキーなことだった。ぼくが乗った車が事故を起こしたのは、国立公園に入ってすぐの国道だった。そして、レンジャーの何人かが訪問客を案内して、事故現場近くの休憩所で、事故直前まで激しく降っていた雨を避けるために雨宿りをしていた。その彼らが、異音に気づいてくれた。
国道上から転落した事故車を見つけるのは大変だったはずだ。実際、事故後、ぼくの同僚たちが乗ったもう1台の車が現場を通っているけれど、彼らは事故に気がつかずに現場を通り過ぎている。国立公園で、あたりに住民はいない。夜になれば真っ暗。あのとき見つけてもらえなければ、翌朝までぜったいに見つからない。
さらにでっかいラッキーがもうひとつある。レンジャーたちと一緒にいた客人の中に、南アフリカから来た医者のカップルがいたのです。車から助け出されたぼくを最初に介抱してくれたのは、そのふたりだった。大声のルワンダ語が行き交う中で、やさしい英語が聞こえていた。「あなたは事故に遭って助け出されたところだ。あなたのスピナルコードが壊れている。これからあなたを道路までかつぎ上げる」と“天使”のような女性が耳元で囁いてくれたのは覚えている。spinal cord、脊髄。そのときは、その言葉がすんなりと理解できた。そしてぼくは、近くの木から切り出した枝に大きな木の葉やレンジャーたちの服をからめて作った速成の担架にのせられて、国道まで担ぎ上げられた。
もしあのときふたりの医師が適切な指示を出していなかったら、きっと誰かの背に負われて運ばれていただろう。そうすれば、ぼくの背骨はもっと傷んで、その後の症状はさらに重くなっていたかもしれない。なんという幸運。いや、悪運が強い、ってことか。
(ちなみに、ぼくの証言を元に、事故の調査チームは国立公園事務所の記録から、このふたりの医者を探し出してくれた。ぼくは日本からメールを書いて、ヨハネスブルグのおふたりにお礼を伝えることができた。)
助け出された生存者のなかでもっとも重傷だったぼくは、夜通し救急車で運ばれ、翌朝に首都キガリの病院に到着した。そこでの検査で、胸椎六番の脱臼骨折と診断される。胸椎とは、胸の背中側にある背骨の名称だ。その他、顔面骨折、肋骨骨折があり、肺にも水が溜まっていた。下の犬歯も一本行方不明となった。
「ルワンダを支援する仕事で事故にあった以上、ルワンダ医師のわれわれに治療させてほしい」という声が、ぼくの搬送された病院内にあったそうだ。しかし、施術の症例数が少ない、緊急事態への対処に不安があるなどの理由で、在ルワンダ日本大使館の原田医務官――在留邦人が多くないルワンダでは、このような事故にも大使館医務官が馳せ参じてくれた――は、ヨーロッパのどこか、あるいは南アフリカのヨハネスブルグへの搬送を強く勧めた。ぼくが加入していた保険会社は、遠距離の搬送を渋り、ケニアの首都ナイロビでの治療を提示した。事故から2日経った日曜日と月曜日の間の真夜中、ぼくはナイロビに救急飛行機で搬送される。
「ルワンダで治療を」とルワンダの医師たちが主張したという話を当時の同僚から聞かされたのは、事故から2年後のことだ。そうならなかったことを、ぼくは今でもかなり残念に思っている。


















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