今回の投稿、以下の流れで書いています。Part 1「まず簡単に近況報告 小刻みな噴火活動が頻発し…」 → Part2 「リハビリ実録 11年前の私の場合」 → Part3 「境界線のゆらぐ陽炎の上で踊るということ」。 で、主旨は?とお急ぎのあなた様は、どうぞ一気にPart3に飛んで、そこから読んでくださいませな。
まず簡単に近況報告 小刻みな噴火活動が頻発し…
時間が過ぎていく速さをよそに、かなり亀足?停滞前線?の@プノンペンより、です。
昨年の年末から、つまりそろそろ6~7週間になるのか、なんとなく腸の様子が不安定なのです。いわゆる下痢っぽい感じからなかなか完全に抜けきれない。下半身完全麻痺者である私は、尿便の予兆を脳で感じることができません。ですから、尿なら3時間置きぐらいに、便は2日に一回、定期的かつ強制的に排出することになります。ところが、下痢はそのリズムを変調させる。ジョンレノンの曲やJazzの変調/転調ならば味わい深いのですけれど、便の変拍子は、つまり“お漏らし”であります。
予兆は微かにあります。お腹、特に下腹部あたりでなにやら遠い夏日の遠雷のような不穏な、でもどこか懐かしいようなグルウルゥウウという響きがする。アッと思って、ベッドからトイレに(車イスで)走り込むということも何度かありました。けれども、だいたいがすでに噴火が始まっているのでした。
まぁ、それだけなら、後は淡々とズボンと紙オムツを処理し、残りマグマがないか右手中指人差し指で確認すればよいのです。けれども、予見がおそくなればベッドや車イスの上で大噴火が起きてしまうこともあります。ここで経験からくる学びをひとつ。「マグマは、背中に抜ける!」ベッドや車イスの上で大噴火が起こった場合、紙オムツから漏れ出たマグマは太もも方面ではなく背中に抜けることが多い。とにかく、背中に抜ければシーツを汚すし、背もたれカバーを汚します。やれやれ。それらの処理だってもはや私もサンワーも手慣れたものなのですけれど、でもけしてウキウキ楽しい処置ではありません。
さらに。より悲しい状況もあります。それはすべての処理を終え、トイレからベッド上に戻ってきてからのそれほど時間をおかないでの再噴火です。さっきの「もう無いかな?」という確認の行為をあざ笑うように、ときには再び紙オムツを履いているような状況でそれは起こります。「あ、出ている出ている」という(介護者の)叫びを聞く時の哀しみは、なかなか他では味わえません。しかも、出ている感覚は当の本人にはまったくないわけです。そうなれば、再び車イスに移り、トイレで便器に移り、再度の処置となります。
深夜、排尿のために目覚め、うとうとしながら体を起こし(看護ベッドで電気仕掛けでウィーンと上半身を起こします)手をズボンの中に差し込んでいったときに感じる「あれ?」という違和感も嫌なものです。この場合は、いわゆる陰嚢の裏に妙な湿りを感じるのです。触感ではなく、臭覚の場合もあります。「うん?」、という微妙な香…。あぁ……。時間にもよりますが、例えば午前2時ごろであれば、触らなかったことにして、あるいは嗅がなかったことにしてそのまま再度寝入ってしまうこともあります。けれども、次に午前4時ごろに目がさめれば、先の触感・臭覚が夢の中の出来事ではないことを痛感するのが常です。さて、どうするか?
それが平日であれば、あと1~2時間で介護者は起き出して出勤準備に取り掛かるのです。となれば、今すぐ起こすのは忍びない。で、彼女の目覚まし時計が鳴る半時間ほど前に、ごそごそと音を潜めてベッド→車イス→トイレと静々と移動し、手慣れた処理に入るのでした。
ちなみに、今から約10年ほど前。事故後約1年間の入院生活を経て当時ようやく見つけた北浦和駅近くのアパートで生活を始めたとき。やはり最初の数か月で何度か予定外の噴火事件が頻発しました。その際、最初はベッド上で汚れた紙オムツを排除しようとしたのです。今思えばなんという無謀な! 部屋に散らばる香ばしい臭気……。あるいは知らぬ間に壁にこびりついていた茶色い染みとか……。私にとっての正解は、すべて身につけたままトイレに向かうです。ベッドの上には今ではそれなりに防水マットが危険地帯をカバーしていますし、車イスの背もたれマットやクッションは、洗えばよろしい。
と、細々と書きましたけれど、この一カ月半ほど、何度も不規則噴火がありまして、怖くて食べられない(マグマとて元から断てば噴火しまい)ということも数日あったりして、でもちょっと最近ようやく回復傾向にある、そういった60年ぶりの丙午の始まりだったのです。
リハビリ実録 11年前の私の場合
中途であろうと、生まれ持ってきてしまったものであろうと、障害を持っていれば、そしてそれが致死性のものでなければ、多くの、いやほとんどの場合、その障害に対する抗議活動(人はそれをリハビリテーションと呼ぶ)が行われます。
まず、そのすべてを否定するものではないことを明記しておきます。リハビリテーション、日本語だと療育だそうです、も多様です。障害の原因そのものの回復を目指すものがあれば、障害に対応するための社会生活上の技を得るためのものもある。
わかりやすい事例でいえば、私のように事故による中途障害で下半身麻痺になってしまった場合ならば。
動かなくなった足を再度動かし、再度自分で歩けるようになることをゴールとしてリハビリテーションが前者です。それに対して、下半身麻痺という現実を受けとめ、足が動かない状況の中で社会生活に適応することを目指すリハビリテーションが後者と言えるでしょう。
実際のリハビリテーションは、この前者と後者が様々に組み合わさって計画され実施されることがほとんどだろうと推察します。
私自身の事例を続ければ。
まず急性期と呼ばれる、負傷そのものの治療を第一とした入院がありました。私の場合は、まず事故があったルワンダで数日過ごし、さらに近隣国ケニアの首都ナイロビに搬送され背骨の補正手術を受けそこで2週間ほど過ごし、今度は遠路日本まで搬送され都内の急性期の治療を目的とした病院に入りました。こちらが約一カ月。この間は本格的なリハビリテーションはまだ始まりません。ごく軽く、マッサージを受ける程度のものがあっただけです。
その後、その都内の急性期病院と経営が同じと思われる回復期の治療を目的とした病院に転院しました。こちらでいよいよリハビリテーションが始まりました。そちらでのリハビリは、主に機能回復を目指すものでした。左右両サイドに渡した手すりを腕でつかんで立位をとったり、さらには足に装具をつけて歩く動作を繰り返したりしたのです(繰り返すと言っても自分ではまったく動かせないわけですから、リハビリの先生が私を後ろから抱きかかえて足を左右交互に前に出させるようにするのでした)。けれども、私の場合はおそらくそのようなリハビリを繰り返しても、下半身の機能が回復する可能性はほぼ全くなかったのだろうと想像します。でも、そのときの若手の介護士さんたちにとっても、手探りのプログラムだったのでしょう。この間、お正月もあったのですけれど、その期間も含めて連日お休みはなし。とにかく毎日毎日、機能回復を目指したリハビリテーションが続きました。
ある日、高校野球部の先輩方が見まいに来てくれたのです(私はその野球部に高校卒業後も7年間ほどかかわったので、それなりに顔が売れていたのですよ)。そのお一人、御子神さんがそっと私に囁いたのです。
「村山君、ここに長くいてはいけないよ」
御子神先輩はお医者さまでありました。
私が急性病院から転院した先の下町にあった回復期病院の主要な患者さんたちは、皆当時50歳の私よりもお年上の方々が多かった。人生の先輩方の彼女ら彼らは、多くが脳梗塞や心臓発作の後遺症の回復、あるいは転倒事故で腕や足を骨折した人たちの機能回復、を目指したリハビリテーションを受けていました。私と同じ脊髄損傷の方も若干名はおられましたけれど、私よりも軽度の人が多かったように思います。
御子神さんの助言を受けて私はすぐに次の病院への転院を模索しました。そして御子神さんからの推薦があった病院のひとつだった国立リハビリテーション病院(埼玉県所沢市、以下「国リハ」)に移ったのです。怪我をしたのが8月末。日本に転送されたのが9月中旬。最初の回復期病院に移ったのが10月中旬。そして、国リハへの転院は年が明けた1月下旬のことでした。転院に際してのさまざまな事務処理は、当時まだ元気だった父が動いてくれ、御子神さんも推薦状を書いてくれました。結局私がその最初の回復期病院にいたのは、4カ月弱でした。つまり受傷から5カ月ちょいで国リハに入ったのです。(御子神先輩、当時の御恩、思い返すたびありがたく思うのです。ご無沙汰しておりますけれど、その節は本当にありがとうございました。御子神先輩は、私の人生大恩人指折り数えてトップ10のお一人でございます)
国リハで受けたリハビリテーションは、最初の回復期病院で受けたモノとはまったく違っていました。それまでの機能回復を目指すものから、社会生活に適応することを目指す内容にシフトしたのです。
まず紙オムツが普通のパンツになりました。「もらしてしまいます」と不安がる私に、「それを含めて対応できるようになるのが、あなたの仕事です」と看護師長は言うのです。ふむ、そういうものか?と思った私は、そっさく携帯電話のインターネットを使って看護師の人たちにアッピールできるような色どり鮮やかな下着を発注したのでした。
ただ、当時、私の腰骨のあたりにはけっこう深めの褥瘡(いわゆる床ずれ)が出来ていました。この褥瘡がなかなかしぶとかったのです。この褥瘡があるうちには、臀部を擦る車イスからトイレへの移乗といった動きはご法度でした。私が国リハにいたのは約半年でしたけれど、褥瘡が直るまでの最初の2~3か月のリハビリは、体力回復を主とした筋トレ的な地道な運動が多かった。リハビリの時間の際には、介助付きでベッドから車イスへの移乗がありましたけれど、その時以外はベッドでおとなしく過ごすことを求められました。とにかく褥瘡を直すことが最優先事項だったのです。そして、桜が咲くころになってようやく褥瘡が直ったところで、難関のトイレ対策が始まったのです。
国リハに来る前に受けていた、両脇の手すりを使った立位どり、さらには無理やりの歩行訓練が行われることは二度とありませんでした。
その他でも印象的だったのが車イスの選択です。最初の回復期病院で使用していた車イスは「手すりが跳ね上げられる」タイプでした。そちらのほうが、ベッドから車イスへの移乗が楽ちんだったのです。ところが、国リハで支給された車イスは手すりが固定されたタイプでした。こちらは最初のうちは移乗がやりにくいわけです。「手すり跳ね上げ式を使いたい」と懇願しても聞き入れてもらえないのです。「あなたはこれを使いなさい」と言われるだけ。最初はな~んか印象悪いほどでした。


今であれば、リハビリの先生たちには経験からくる確固とした見通しがあったことがわかります。そして、手すりが跳ね上げられるということは、つまり固定式と比較すればその跳ね上げ部分がどうしたって弱い作りになっているのです。移乗も含めて、日ごろの生活の中では、車イスの手すりに腕を通して全体重をかけることが少なくありません。その際に、どうしたって手すり固定式の持つ堅牢さが重要なのです。だから先生たちは、手すり跳ね上げ式を使うことを私に許可しなかった。《こいつはどこまで回復する》ということが見えていたのです。もう少し言葉で説明してくれても良かったのになぁとは今でも思いますけれど、でも先生方の予見にしたがうことが最善の方法であることは、どうしたってだんだんに解ってくるのでした。
あのとき転院せずに最初の回復期病院にいたとしたら。おそらく褥瘡治療はもっと時間がかかったでしょう。そして、褥瘡治療が終われば、退院前にはトイレ使用のリハビリは多少はしてもらえたかもしれませんけれど、国リハほどきちんとした計画に則った社会生活復帰へのリハビリは望めなかっただろうと思います。となれば、退院後の社会復帰はさらに多くの困難に直面することになったでしょう。
退院後、数年、私は国リハで実施していた筋トレを自宅でも続けていました(今はやってません)。でも、病院に通ってリハビリプログラムを受けることは一度もありませんでした。実生活の中でできるだけ身体を動かすことが、私にとっての“現状維持”のためのリハビリ活動と言えるのだろうと思います。
境界線のゆらぐ陽炎の上で踊るということ
さて。最近でも、障害者仲間のひとり、彼は瞬間立ちすることはできても歩くことはできなかった、が、計画的な厳しいリハビリテーションを経てかなり歩けるまで“回復”し、自分への挑戦として世界旅行に出かけるというニュースが舞い込んできました。
当然その彼の世界旅行の成功を応援する一方で、どこかそれを冷ややかに見ている自分もいることに気が付くのです。ひとつは、彼が受けているリハビリテーションはかなり高額で、誰でも受けられるものではないことが少し気になる。そして、Youtuberであり、各所で多くの講演をこなす彼にとって、その世界旅行挑戦は自らの“仕事”でもある。その点では、もちろん“天晴れ”です。その生き方は、彼自身が自ら開拓してきた道だ。なんの文句を言われる筋合いのものではありません。もちろん、高額なリハビリテーションを提供する側もそう。保健で提供される通常のリハビリの枠を超えた専門的なトレーニングを提供し、それに対するニーズもある。それもまったく問題ないのです。
それでも、私がなぜそれをどこか斜めに見てしまうのか。真剣に考えてみると、それはリハビリを行う彼に向けられたものではなく、その彼を称賛する視線にあるのだと気が付きます。
つまり、「障害によって失った機能を、懸命なリハビリによって回復することに対する賞賛」が気に食わないのです。そして、現実にはそういう「賞賛」があるから、それで食い扶持を得ていくという戦略が練られるわけなのだけれど。その戦略(まさにアッパレな生きる知恵でもある)が間違っていたり悪かったりするのではない。
二つの世界がある。ひとつが障害者世界で、もうひとつが非障害者世界(健常者世界)だ。この考え方はこの地球の人類社会で多数を占める非障害者の人たちからは、どうも受けがよくありません。私が、「障害者世界と非障害者世界の間には、明確な境界がある」という主旨のことを言うのを聞くと、必ずや「いやいや障害者さん、そんなふうに二つの世界に別けなくていいじゃないですか。ひとつの同じ世界、その世界を誰でも住みやすいように生きやすいように、一緒にしていきましょう」というような反応があるのです。ちなみに、そんな反応を示すのは確実に非障害者の方です。
インクルーシブで、バリアフリーで、ユニバーサルデザインで……、そういう傾向はとてもありがたいことだと思います。違う世界だと言ったって、物理的にはどうしたって同じ大地・同じ環境で、公共の場を共有しているのですから、そこが障害者でも過ごしやすいのは何よりです(でも、ここまでそういう余裕が生まれる以前は、この社会はまさに多数派である非障害者だけの利便性でデザインされていたとも言えるわけですよね)。
それでも、ちょっとでも油断すると少数で弱者な側は多数に呑み込まれてしまう。それがこの世の常なのは、人類の長い歴史が証明してきた。両者の利便性がぶつかれば、必ず多数派が優先される。「しょうがないじゃないのよ、まず多数が優先されるのは。それが民主主義でしょう?」とどうしたってなる。
いや、だからこそ、非障害者とは別世界の住民であることを障害者はしっかりと自覚したほうがいい、と(障害者である)私は思っているわけ。多数派の価値観ではなく、少数派の価値観をしっかり確立して、そして時にはどうしたって団結して一緒に多数に物申していかなくてはいけないだろうと思っているのです。
それに対して、では激しいリハビリテーションを通して少しでも健常者世界ににじり寄っていくという姿勢はどうなんだろう。彼らは越境して障害者世界から非障害者世界に移動したいと思っているように思える。それは、けっきょく多数派である非障害者の価値観を是とすることではないのか? 歩けないなら歩けないなりにではなく、歩けないなら歩けるように努力せよ。できないならできないなりにではなく、できないならできるように努力せよ。そういうことだよね?
さらにそれをまた非障害者が賞賛する。そうだよ、がんばってこっちの世界に戻っておいでとでも、招くように拍手し応援する。それをちょい距離を取って俯瞰してみたとき、私はどうしても落ち着かない気分になる。いやいや、違うだろ~っと異論を投げつけたくなるのです。
う~ん、これはやっぱり何かの僻みなのだろうか? 困難を努力で克服しようとする人にスポットライトが当たることを拗ねているのだろうか? 捻くれ者の戯言?愚痴? 人間性の歪みってこともあるかもしれんなぁ。そんな声をそうそう否定はできないのも確かかも。
頑張れば“治る(直る)”のであれば、それに向かって努力するのが素直というものだ、とは思うのです。だからそうだ、それができる人はそれで良いのだ。
でもね、障害者の少なからぬ人たちは、治らない。諸所の事情で、直せない。そして、非障害者の人からすれば例外的な事象(それが障害よね)と共生し、つき合っていかなくてはいけない。そして、となれば障害(と呼ばれる事象)も含めて日常で通常で世界なのです。その世界が、非障害者世界と同じ世界のわけがない。そりゃ絶対に違うに決まっているじゃないですか。
その世界から出て、非障害者世界に向かっていくのが、機能回復を目的としたリハビリテーションです。そして、その成功者でも、多くの場合はけして完全な非健常者世界復帰が果たせるわけではない。たとえば、多少歩けるようになったとしても、実際には車イスで移動する方が(平地であれば)早いし楽チン。階段はどうする? そうそこなんですよ。
障害には、医学モデルと社会モデルというのがあります。そして、階段というのは社会モデルのもっとも解りやすい事例。階段だけではなくエレベーターがあれば、誰でも2階に上がれるとすれば、エレベーターが設置されていないという事実が【階段を自分の足で上がれない】という事象を《障害》として際立たせるわけ。つまり、歩けないことを障害としてしまうのは、社会設計の問題なのだ。それが障害の社会モデルという考え方です。歩けないお前が悪いんじゃなく、弱者に対する配慮がない社会の方が悪いんだ。こんな単純な考え方が、どれだけ多くの障害者の眼を開き、前に進ませることになったか、健常者の皆さまが知ることはなかなかありますまい。
いや、けしてわからないではないのです。自分の力で(つまり医学モデルで)階段を突破したいという気分のことを。でも、機会があったらやっぱり聞いてみたいとは思っています。障害者世界と非障害者世界の境界線の上で踊る気分はどうですかと。そして、おそらくどんなに頑張っても、100%完全な障害以前の自分には戻れない。それは加齢とも似ている。どんなに肉体を鍛えても若い頃の躍動は取り戻せない。それでも、加齢による体力の減退のその速度を遅くすることはできる。あるいは、完全に戻れなくても、障害前の自分に近づくことはできる。だから、そのために時間とエネルギーをつぎ込む。それは個々の選択なのだ。他人からどうこう言われる筋合いではないのだ。
黒人差別が今よりもさらにひどかった1930年代の米国に育ったひとりのアフリカ系米国人の青年、後のマルコム・X、が黒人特有の縮れ毛を薬品でまっすぐに伸ばしていたというエピソードが、映画『マルコム・X』の中で描かれます。マルコム青年に限らず、黒人が漂白剤で自らの顔を洗ったというような話は、探せばたくさん出てくる。もちろん、そんな努力をしても、黒人が白人になれるわけではなかったのだけれど。
さて、このエピソードと、リハビリで非障害者世界に向かおうとする話とは、重なるのか、重ならないのか? 重なるというのは、機能回復を目指す人たちに少々酷な話なのか。あるいは、重ならないと言い切れるほど、それはあくまで個人の能力開発の問題なのか(つまり、非障害者世界に向かうわけではなく、あくまで自己研鑽、自分への挑戦という物語なのか)? おそらく答えもグラデーション。重なりつつ、重ならない。重ならないけど、でも重なる。
そして、それは「尊厳」みたいな話と重なるのか、重ならないのか? 尊厳を守るための激しいリハビリテーションなのか? それとも、障害との共生からは尊厳が得られない/守れないということなのか? あるいは、こうしてくどくどと考えあぐねている私が私自身の尊厳の置き場所を模索しているのか?
私の場合は、今のところ(おそらく死ぬまで)この軸足はもはや障害者世界から非障害者世界に越境することはない。一方で、私と同様に脊髄損傷を今負ってしまった人、特に若者、には、今どんどん進みつつある細胞移植等の先端医療受診の可能性を急いで探ってみてと伝える。つまり、受傷から早い段階での先端医療を受けることが、機能回復には効果的と言われているから。
それは、やっぱり可能なら治った方が良いと私が思っているからですよね。健常者のままで障害を持たずにいられるならば、そっちのほうがいいよという価値観を私は捨ててはいないわけだ。それは多数にいるほうが楽チンだよね、ということを認めているということ。だってねぇ、実際さぁ階段を登らないと/下らないと入れない美味しそうなレストランは多いものなぁ。
つまり、私の場合は、2014年にルワンダという先端医療から遠い場所で受傷し、しかもすでに50歳という若くない年齢で、しかも脊髄のダメージも深かったという事実があったから、今こうして「せっかく障害者世界にやってきたのに、非障害者世界への復帰を目指して機能回復リハビリに邁進することを賞賛するってどうなのよ?」みたいなことを書いているわけだ。
もし文科省推薦ブログを目指すのであれば、次のような落ちとなるのでしょう。
障害者世界に一度は身を置いた君。懸命なリハビリで見事復活を果たして無事非障害者世界に舞い戻ったとしても、ぜひ障害者世界での日々を忘れないでください。今後もぜひ両方の世界に片足ずつ突っ込んで、両世界を結ぶ懸け橋としてご活躍されることをお祈り申し上げます。そしてそんな君に賞賛を送る健常者世界の人たちに、障害者世界のことをしっかり伝えてくださいませ。彼らだって、いつこっちの世界に渡ってくるか分からない。特に高齢となれば、誰だってこっちの世界に来る可能性が高いのですから。
でもなぁ、非障害者世界に舞い戻ってしまえば、そうそう障害世界は振り返ってもらえないだろうと私は想像しちゃっているのです。さて、実際のところはどうなのかなぁ。
まだまだ探求は続くのです。
(ほらさ、人はどうしても他者との比較において自分の立ち位置を確認するもんじゃない。だからさ、リハビリを頑張っている某君、ちょっとネタに使っちゃってごめんね。世界一周応援しています。マチュピチュも、バトゥ洞窟も、断固自分の足で登ってきちゃってくださいませ。応援しています)
















56歳ケイソン20年です。
知り合いの脊損で、排便が安定しなかったところへ過敏性腸症の薬イリボーを処方してもらって落ち着いた人がいます。人によっては便秘になってしまうのですが、薬が合えばだいぶ快適に過ごせるようです。良い解決策が見つかるとイイですね。