前々回、前回と、車イス者の大先輩である川内美彦さんが書かれた『尊厳なきバリアフリー 「心・やさしさ・思いやり」に異議あり!』(現代書館 2021)に触発されて“尊厳”について考えてきました。そして個々の“自己決定”こそが尊厳を考える際のキーワードなのだと書きました。が、しかし。
そう書いてしまったからこそ、また書き足りなかった思いがわくのです。あれで終わりにはできない。というわけで、今回もしつこく尊厳です。お付き合いください。
意思表示できない人たちの自己決定とは…? 自己と他者とのせめぎあいのどこかにある私たちの自己決定。
今年の初夏に行われた日本の参院議員選挙で、れいわ新選組の比例区リストトップに天畠大輔さんの名前がありました。彼は14歳の時に医療ミスで四肢麻痺、発話障がい、嚥下障がい、視覚障がいを持つことになった24時間介助が必要な重度障害者です。障害者となった直後半年間は、まわりで話されていることはきちんと理解できていたにもかかわらず、話せない、身振りもできない。そのため医者からは脳の障害で知能も大きく低下し改善の可能性もないと判断されてしまいました。それを聞きながら、何も意思表示できずにベッドに横たわっているしかなかった彼のその悔しさ、想像を絶するものがあります。
幸運にも、その後コミュニケーションが復活し、彼は高校・大学、さらには大学院へと進むことになります。もちろんその道筋は困難で波乱万丈なわけですけれど、それはここではスキップします。
情報発信者の道を選び、大学院で博士号を取るという歩みの中で天畠さんはさんがたどり着いたのが「多己決定する自己決定」という考え方です。
例えば、彼が研究論文を執筆する際、多くの参考文献を読み、考察し、他の専門家とも議論し、検証し、最終的に自分の考えを文章化することが必要です。けれども、それを彼は彼一人ではできない。論文作成という専門的な作業を支援するのは、誰でもできることではありません。どうしたって支援者も専門性が求められます。そして、彼は独自のやり方でそんな専門性を持った支援者を“育て”ていきます。その結果、彼の研究論文は天畠さんとその“特殊”支援者で構成されるチーム天畠の共同作業によって作成されました。それはチームとしての成果です。けれども、学位論文となれば、それは個人の成果と見做される必要がある。けれども自分の書いた論文は、個人としての自分の成果なのか?と、天畠さんは悩む。論文を書いたといっても、その過程で天畠さんは支援者と議論を重ねるのです。そして天畠さんの考えを最終的に文章化しタイプしたのも支援者なのです。
けれども、例えば健常者が書いた論文だって、実はその完成までには大なり小なり他者との議論・意見交換という過程があります。その際に、健常者は最終的に自分でタイプした論文が自分の成果であることを疑わない。疑う必要がない。では、なぜ天畠さんの場合は自分の論文の個人性を疑わなければいけないのか?
実は健常者個人の自己決定だって疑えるのじゃないか、と天畠さんは考えるに至ります。ならば、他者が介在が必要である重度障害者の自己決定だって、ことさら問題視する必要はないのではないのだろうかと考えたのです。やがて天畠さんの当事者研究は、「多己決定する自己決定」も個人の自己決定の在りようとしてむしろ積極的に認めるべきだという結論にいきつきます。
以下、彼の著作『しゃべれない生き方とは何か』(生活書院 2022)から。
提言――「多己決定としての自己決定」が認められる社会へ
「多己決定する自己決定」は、本研究で明らかにしてきたさまざまな位相のジレンマや問題を解消することはできない。しかし、「多己決定する自己決定」のあり方が社会的に認知され認められることで、筆者のような「発話困難な重度身体障がい者」だけに成果物の帰属問題を問われることがなくなり、「発話困難な重度身体障がい者」が社会的に活躍していく可能性が広がるだろう。多己決定のような「グループで思考すること」が社会的に受けいれられれば、成果物の帰属先は個人ではなくグループ全体となり、「発話困難な重度身体障がい者」個人がジレンマを感じる場面が減り、「情報生産者」としての道が広く開かれる。つまり、この社会がグループで思考するという思考枠組みのあり方を認知し、受けとめることが求められている。
そして、この「多己決定する自己決定」は、「発話困難な重度身体障がい者」のみを対象とした思考枠組みではなく、重度の重複障がい者が社会的に活躍していくうえで、下地となるだろう。(前掲書 341ページ)
引用した文章では、この「多己決定する自己決定」を重度の重複障害者の社会的に有効な考え方とあります。けれども、この考え方は重い障害がある人に限らず、すべての人に当てはまる考え方だろうと私は考えます。
つまり、個人の自己決定とは、実は個人だけの決定ではないだろうということです。実は個人で決めていると思われる決定のほとんどすべてが「多己決定する自己決定」ではないのか?すこし拡大解釈すれば「多から影響を受けた自己決定」であるのがむしろ普通でしょう?
別の本から以下のような文章も見つけました。
でも、100パーセントの自己決定なんてあり得るだろうか。どのような状態にあったとしても、どこかに私たちは、自分の力を持てる事柄を探す。自己決定できることを見つけ、選択し、そこに人生をかける。そこに強制や暴力や搾取を見出すことはたやすく、自主性と自己決定を見出すこともたやすい。でも、多くの場合、両方が分けがたく混ざっている。(『ヘルシンキ生活の練習』朴沙羅著 筑摩書房 2021 241ページ)
社会学者の朴沙羅さんの引用文章のまずしょっぱなの一行にある「100パーセントの自己決定なんてあり得るだろうか」は、まさに誰にでも当てはまることでしょう。自己決定の多くは、あくまで恣意的に選択された自分の守備範囲でだけ行われる。
さらに注目したいのは引用文の中ほどにある「そこに強制や暴力や搾取を見出すことはたやすく」の部分です。これが例えば障害者の自己決定に入り込む、川内さんが書かれる尊厳を奪う介入でしょう。けれども、チーム天畠の事例を顧みれば、介入のすべてが強制・暴力・搾取ではない。ただ、介入、特に弱者の自己決定への介入が、油断するとすぐに強制・暴力・搾取として働くことは確かなのです。
弱者でない強者の自己決定でも、外部からの介入はかならず起こっています。たとえば、私たちの価値観は自分が育っているその時代や社会からの影響からけっして自由ではない。絶対に影響を受けています。いくら自己決定と力んでみても、その自己決定の殻をむけば、そこには自分以外にも再生産が可能な実はごくごくありきたりな判断が姿を現しているだけかもしれない。それでも弱者でない者は、その外からの介入を強制・暴力・搾取とは認識しないでいられる。尊厳を保つことができる。
つまり、尊厳とは弱者のための言葉なのではないのか?
強者の尊厳、そんなものあるのか?
強者であれば、尊厳が損なわれることなどないのです。
たとえば、王様の尊厳とはなんでしょう? 命令を家来が無視したら、王様の尊厳は傷つくでしょうか? 確かに王様は怒り、その家来を罰するかもしれません。でも、ほら、家来を罰することで王様の尊厳は保たれるじゃないですか。
あるいはこんな空想はどうでしょう。王子様(お姫様でもいい)が努力して学校でいい成績を取った。けれども周りの人たちは、「あれは王子様という地位があるから、良い成績なんだ」、つまり先生たちが地位に忖度して、王子様に良い成績をつけたのだと理解する。そんな噂を耳にして、王子様は悔しくて仕方がない。だって、忖度なんかじゃなく本人が努力した結果なんですから(実際はどうかわからないけれど、王子様はそう信じているのです)。王子様は、自らの尊厳が傷ついた気がする。とても辛い。
このケースだって、噂した人たちを罰することはできますけれど、でもそれで王子様の尊厳は回復されないような気が私はします。噂は消えても、人々が心の中では「だって王子様だもんねぇ」と囁いているのが王子様にはきっと聞こえるからです(そんな囁きが聞こえる気がするのは、実は王子様自身が、自分の成績が良かったのは忖度の結果だと疑っているから、なのでしょうけれど)。
この場合、王子様の尊厳はどうやって回復できるのでしょうか。それほど難しくない。王子様という地位を手放せばいい。手放して、そのうえで良い成績を取ればよい。王子を辞める、それは少なくとも選択肢としてはある。こう書くと、「いやいや、日本国の皇室だって、離脱するのは簡単ではない」ということを言う人はいるでしょう。けれども、困難だから離脱できないとしても、でも離脱が選択であることを完全に否定することはできないでしょう。それでも離脱しないとして、だとすればこんな人の噂で傷つく王子様の尊厳とは、まぁたいしたものでもないのではないでしょうか。すこしだけ傷ついた尊厳を補って余りある多くのことが、王子(という立場)にはあるのです。
弱者にとって弱者という立場を離脱することは、王子が王子という立場を捨てる選択肢ほどもありません。治る障害なら、尊厳云々いう前に、治すでしょう。川内さんは、どんなに努力しても車イス者を離脱できない。尊厳を口にする人たちは、たとえばジェンダーでの女性、LGBTに代表される性的マイノリティ、経済的困窮者、もちろん様々な障害者、高齢者、移民・・・・・・、みなそれぞれの弱者としての立場から離脱できません。弱者が弱者を自分の決意で辞めることはできない。脱することは、あるだろう。けれども、そんなケースも決意だけでなされたわけではないはずです。
強者が尊厳を持ち出すとすれば、それはほとんどの場合、強者の中で弱者に陥ったときに限定されるでしょう。例えば大企業正社員が、何かのきっかけで社内でパワーハラスメントや虐めを受けるようなケースが考えられそうです。弱者に転じたとたん、それまで表面化することのなかった自らの尊厳が立ち上がるのです。
だから、強者は自らの生とはなかなか縁のない(弱者の)尊厳が理解できない。
そして、前回、私がそれほど「尊厳が傷ついた経験がない」と書いたのは、障害を得た後も私が社会の中で比較的強者でいられるからなのです。手が使え、口が使え、しかも車イス者として他者から障害者と認識されやすく、労災受給者で(経済困窮から逃れられ)、男性で、性的嗜好が異性に向き、高学歴で。あるいは、障害を得たのが50歳とわりと遅めで、それまでの仕事にそれなりの達成感を得られることも、私の尊厳が傷つきにくい要因でしょう。もしまだ何者にもなっていない若いときに同じ障害を得ていれば、男性で、性的嗜好が異性に向き、高学歴でも、まだ新鮮で表面がつるつるとした柔い尊厳は傷つきやすかった可能性が高いのです。
強者であることは、けして悪ではないでしょう。けれども、尊厳に敏感な弱者にとって、無邪気な強者こそが厄介であることは、今の私は少しはわかります。障害を得ないままであれば、どうだったでしょうか。もしかしたら、私は今以上に厄介な強者であり続けた可能性が高いのだろうと想像するのです。
自己決定を表現できない人たちの決定とは?
さらには自己決定を再解釈してみると?
尊厳とは自己決定権の問題なのだ、という考えには大いに賛同・共感するとして、それでも気になったのは「自己決定を表現できない人たち」の存在でした。脳の中の意識の有無はさておいても、外部から見ればコミュニケーションがとれないような障害を持つ人たちがおられる。あるいは幼児だってそう。彼らの自己決定権はどう考えればいいのだろうか?
もちろん、家族や保護者の存在をまず考えます。けれども、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の家族の介護の経験からALS支援に携わっている川口由美子さん(名著『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(医学書院 2009)の著者)が指摘しているように、家族の存在こそが患者の生き続けるという希望を削ぐことがあることには留意が必要だろうと私は感じます。家族や保護者が自己表現できない人の自己決定の代弁者でなければいけないということはないのではないか。理想論なのは重々承知で書いています。実際には、家族や保護者が代弁することになります。特に生まれてからずっと重度障害があって(私のような多数者が認識できる意味での)自己表現ができない(と思われている、判断されている)人たちの決定は、家族・保護者がすることになります。
「多己決定する自己決定」という概念を学んだ後にこのことを再度考え直してみると、とにかく自己決定する自己と自己決定に介入する多己とは、実はその境界線が常に曖昧で、グラデーションのように濃淡だけがあるのだろうということです。そして、家族だろうと医師だろうと誰だろうと、他者に介入する多己はできれば複数あったほうがいいのだろう、とも考えます(多数決が良い、という意味ではありません)。
自己表現ができない個人の決定には、せめて多己側の自己につながるチーム意識を期待するしかないという、かなり弱弱しいことしか今の私には書くことができません。でも、弱弱しいけれど、大事なことだろうとせめて言ってみます。
そして、ここではむしろこの文章を読むことのできるあなた自身の自己決定も、実はあなた一人の“自己”決定ではなく、“他”己も含んだ(つまりチームあなたによる)「多己決定する自己決定」なのだという再解釈・再認識があっていいんじゃないか、ということを強調したいです。それはすべての人がそう。人はひとりにあらず、という点でも、いつでも確認したい。
一見今孤独なひとであろうとも、チームあなたには過去という歴史も含まれる以上、けして絶対的孤独個人だけによる判断なんてありえない。
⦅翻って言えば、それは犯罪を犯してしまう人の判断だってそういうことが言えるはずです。その犯罪に至ってしまったのは、もちろん個人として責任は負わなくてはいけないとしても、絶対的個人の結果ではなく、その個人をつくってしまった多くの背景(チームをつくっていた多己)が影響している。中には、社会が作ってしまったと言いたい“間違った決定”もあるのだろうと思うのです。と、話が飛びすぎたかしら⦆
自分とは“チーム自分”でできている
では「多己決定する自己決定」という視点で、再度、川内さんが訴えた尊厳への配慮を捉え直してみるとどういうことになるのか?
川内さんが川内さんの尊厳意識を獲得していく背景に「多己決定する自己決定」があるわけですよね。障害を持った自分にも健常者と同じ権利があり、自分のことは自分で決めてよいという自己決定権をもっているという意識に至る過程には、さまざまな機会を通じてチーム川内(そのチームの存在を川内さんは意識されていないとしても)の多己決定が影響している。例えば1970年代80年代という障害者の権利意識拡大が起こった時代は、川内さんの自己決定への意識、つまり自らの尊厳の目覚め、とおおいに関係しているはずです。
先に書きましたように、川内さんの尊厳は、川内さんが障害者(社会的弱者)になったことで川内さんの意識の中にさっそうと現れたという側面があるのです。もし川内さんが多数者のひとりであったとすれば、その尊厳はそれほど明確には姿を現さなかったに違いありません。
川内さんの飛行場でのエピソードはどように捉えられるでしょうか?(エピソードの内容は前々回の本ブログ投稿を参照ください)
スロープが危ないからと川内さんの通行を妨げたスタッフは、その段階では介助者でもなんでもない。ただの航空会社側のスタッフでしかありません。けれども、彼が川内さんの介助者になろうという意識があればどうでしょうか?つまりそれはごくごく短時間でもチーム川内のメンバーに加わるということなのではないだろうか。とすれば、そのスタッフの川内さんへの問いかけも当然変わってくるはずです。当然、「どうしますか?」と聞くことになるでしょう。
そして、チーム川内のメンバーとして最善の道を探すことになる。その過程でなんらかのより協調的なコミュニケーションが発生する結果、川内さんの気が変わるということだってあるのかもしれない。
あるいは、川内さんのほうがそのスタッフ(Aさんとしましょうか)の自己決定チームに参加するという選択もあるのかもしれません。「私の通行を妨げるあなたの行為は、あなたの自己決定ですか?」という介入の仕方があるということです。そして、それはAさんの自己決定に関与するチームAへの参加ということになっていくかもしれません。Aさんは車イス者川内のチームAへの新加入(ごく短期間ですけれど)によって、自己決定の内容を変える(あるいはマニュアルから離れて、新たな自己決定にたどりつく)かもしれないのです。つまり、関係を持つということはそれぞれのチームに参加する、ということを意味しているのではないか。
ここまで話を拡大すると、天畠さんが表現した「多己決定する自己決定」の範疇を大幅に超えてしまっているという批判はあるでしょう。単に、他者とのかかわりの中で人は生きているのだと言っているだけなのかもしれません。それでも、自分の決定が他者からの影響から自由ではないという意味で「チーム自分」という考え方に、私は魅力を感じているのです。
「チーム自分」の存在を認識するということは、自分の命は自分だけのものではないと感じること。
弱者が苦しさに直面して「死んだほうがまし」という思いに陥る、それはね、どうしたってあると思うんですよ。そんなこと思っちゃダメ、とか、言っちゃダメ、とか、とてもおこがましくて私は言えない。でも、自分の自己決定は自分一人ではなく「チーム自分」としてなされているのだと思えたら、「死んだほうがまし」と思ったり口にした後、その言葉の強さにうろたえる人たちのことが少しでも思い浮かぶんじゃないだろうか。そんなことを考えています。
追記*このブログを書いている2022年10月20日、日本の参議院予算委員会で天畠大輔氏が政府に対して質問を行いました。カンボジアの首都プノンペンから、Youtubeで私はその様子を見ました。彼の質問には映像で見るだけでも3人(4人かも)の介助者が彼のすぐ横であれこれの対応しています。最近は議員の質問の横でボードなどを用意するサポーターが入ることも多いですけれど、通常は議員がひとりでする質問に3人(4人?)の介助者、つまり4人(5人?)で質問している。一見、天畠さんが特別のようにも見えるかもしれない。
けれどもたとえ議員がひとりで質問に立っているように見えても、実はその背後には質問を準備する段階から多くの人が関わっているのがむしろ当たり前です。天畠さんの場合は、たまたまそんな支援が委員会での質問のマイクの前まで継続されているだけ。そう思えば、それほど特別なことでもない。
つまり障害のせいで「チーム天畠」の存在がとても見えやすくなっている。でもすべての人に、「チームあなた」「チーム自分」は存在している。すべての人が赤ん坊で生まれてきている以上必ず誰かの手に“介助”されて育つはずで、もしあなたがすでに大人であるならば、チーム自分の存在を完全に否定することは無理なのです。

















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