明治の終わり、大逆事件
春三月縊り残され花に舞う
さて、どこから書きましょうか? 「大逆事件」、別名「幸徳事件」を知っていますか?
1910(明治43)年の5月下旬から幸徳秋水を始めとする多くの社会主義者(と一括りにするのは少々乱暴だとは思いつつ、まぁここは便宜上そういうことで話を進めます)が逮捕され、翌年1月に24名に死刑判決がくだり(翌日、天皇の特赦で半数の12名が無期懲役に減刑)、一週間後に死刑執行が行われた事件です。罪名は現在の刑法には存在しない大逆罪、天皇を始めとする皇族の暗殺を企図/実行した者を処罰する罪状でした。大逆事件には控訴はできません。一審で有罪となれば、刑は絞首刑のみ。
現在までの多くの研究で、この事件で殺された、あるいは無期懲役とされた人たちの多くは、無罪か、大逆罪よりも罪が軽かった不敬罪ですむような行動しかしていなかったことが明らかになっています(皇室の名誉を阻害する行為に対する罪状である不敬罪も現在の日本の刑法には存在しません)。つまりこの事件は、捏造された証拠や証言によって恣意的な判決が出た国家による冤罪捏造大量虐殺事件でした。
ちなみに、無期懲役となった人たちのうち5人は自死や病死で、つまり獄死。残る7人は日中太平洋戦争前に仮出所していますけれど、日本が1945(昭和45)年に敗戦した後、1961(昭和36)年に行われた坂本清馬らによる再審請求は1965(昭和40)年に棄却、その後の特別抗告も1967(昭和42)年に棄却となり、彼らの冤罪を民主主義国家となった日本国裁判所が認めることはありませんでした。
なぜ、このような事件が起こったのか?等々、もしこの事件のことをよく知らない人であれば、当然さまざまな問いが心に思い浮かびますよね。
ぜひね、自分で調べてみてください。たとえば、漫画の名作『「坊ちゃん」の時代』(関川夏央/谷口ジロー共作 アクション・コミック 双葉社)の第4巻『明治流星雨』なんかはすっごくおススメです。この『「坊ちゃん」の時代』は全5巻で、夏目漱石、石川啄木、森鴎外、そして幸徳秋水ら、明治の後半に時代を疾走した人たちの日々が生き生きと描かれています。そして、なんといっても谷口ジローによる絶品作画で描かれる時代考証ばっちりの旧江戸/新都東京のシャープな風景描写も素晴らしい。第4巻だけでなく、思い切って全巻通し読みなんてのも人生の数日を確実に豊かなものにしてくれるはずです。マンガですけれど、こちらは公立図書館にも置いてあることが多いです。
その他、大逆事件に関連した本はたくさん出版されています。私自身では調べていませんが、きっとインターネットの中を漁るだけでも、種々見つかるでしょう。

さて、冒頭に上げた一句は、無政府主義者として有名な大杉栄によるものです。彼はこの事件の前年から別件で監獄に収監されていました。大杉栄と、大逆事件の首班とされた幸徳秋水は旧知の仲でしたから、もし大杉が事件発生当時に自由の身であれば、間違いなく大逆事件の犯人の一人として絞首台に送られていたのです。
この句は、幸徳ら12人への死刑執行後に、遺体引き取りと葬儀に奔走した幸徳の仲間たちが、その2か月後に開いた慰労として茶和会での寄せ書きに書かれたものでした。そして、遺体引き取りと葬儀の執り行いを先導し、この茶和会の発起人のひとりだったのが、今回の主役である堺利彦です。
堺利彦のことを書いた黒岩比佐子による凄い本
堺利彦、もちろんお名前は存じていました。でも、それは幸徳秋水や大杉栄といった名前の売れている時代の寵児について書かれたものを読んだときに、あくまでその周辺のひとりとしてよく登場する人、という程度の私の認識であったのです。たとえば、日露戦争の開戦論に熱狂する日本社会で、あくまで非戦をうったえて幸徳秋水が萬朝報という新聞社を飛び出して平民社を設立し平民新聞を発行すた際に、幸徳と行動を共にした堺利彦、というような。
そんな私の認識を深く反省し(私、反省するのはわりと得意です)、堺利彦の記憶を新たに更新することになったのは、『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(黒岩比佐子著 講談社 2010)という本と出合ったからなのです。

この本の出版は2010年ですから、すでに発行されてから15年が経過しています。この間、本の存在は私の網にはひっかかってこなかった。その本を、なぜ最近手に取ったのか?昨年に購入して日本から送った本を詰めたダンボール箱の中の一冊だったのですから、私自身が購入したのです。でも、さて、どうしてこの本を検索し、ポチッと購入ボタンを押したのか、その理由・きっかけを今はまったく思い出せません。
おそらく、なんかの本を読んでいて、そこに関連本として紹介があったのでしょう。それで、お、オモシロそう、と思ったのです、きっと。
で、読みました。400ページを超えるなかなかの大作で、一週間かかったのか、十日間かかったのか。著者の黒岩比佐子さん、私は初めて読む方だったんですけれどね。いや、もうこの詳細で丁寧な記述、読んでいてだんだんに感嘆というか、驚きというか……。その情報量たるやものすごいんですよ。出てくる固有名詞、限りを知らずという感じで。
ですからね、はい、私、この本で寝落ちも数回してしまいました。馴染みのない名前や本/雑誌のタイトルが次々出てくると、ついつい集中力の維持が困難になってしまって。ですから、けしておススメ本としてここに取り上げているわけではないのです。かなりの強者です。うっかり手を出せば、新刊なら2400円………今ならラーメン3杯食べられるかどうか? 下手すりゃ2杯で消える? うーん、と思えば、これでこの値段って、書籍ってすごい良心的な媒体ですよねぇ。
とにかく黒岩さん、ものすご~く調べて書いてます。そしてね、おそらく調べたことのうち、本の中で使えたのはせいぜい2~3割だろうと想像するのです。7~8割は、使わずに捨てている。どれだけ調べ廻っているのよって思いながら読み終わる直前、後書きにあったのは「一回書き終わって、あまりに量が多くなったので、3分の1を切り捨てた」という一文。ほらねー、そういうもんなんだよねぇ。わかるわぁ。
そして、本の末に挙げられている参考資料数は200を大きく上回っています。しかも、『〇〇〇全集 1~6巻』とか書いてあったりするので、あぁ、どれだけ膨大な量をこの人は調べまくったのか? そして、そう考えていくと、出版に至るまでの編集や校正の人たちの努力もすごいよ。特に校正者は、本や雑誌のタイトル、あるいは人名に使われている漢字のチェック(時代を考えれば旧字体も多数出てくるわけです)や、年号年数のチェック…、いわゆる裏取りをきっとしているのです。そのご苦労は想像しても想像しきれないですよ、どれだけ~~~~!って感じ、そんな贅沢本なんですよ、『パンとペン』は。
そして、さらにさらに、黒岩さんはこの本が遺作です。もうすぐ執筆し終わるかなぁという段階で膵臓癌がみつかってしまったそうです。この本の第一刷が出た一か月後に身罷っているのです。まだ52歳でした。
この本は、ノンフィクションです。実際に起こったこと、事実を書いている。そして、ノンフィクションって、読み手である私にとって書き手を信用できるかどうかがとても大きなファクターなのです。野暮ったい言葉ですけれど、正直、誠実、真摯、謙虚、みたいなことが伝わってくるかどうかが肝要なのです。嘘、はったり、誇張、虚栄、が含まれた文章は、どうしたって偽りの香りが伝わってくるものなのだと思います。単純に書けば、作者を信用できるかどうか。その点で、黒岩さんは私にとっては二重丸の人だったのです。
黒岩さんは1958年生まれです。私の6歳年上。もし存命だとしても、まだ70歳に届かない。あぁ惜しい人を亡くしたのだなぁ。黒岩さんの他の著作、またポチッと購入しそうで……汗です。
堺、人並優れての良い人!
さて、堺利彦です。この人、すっげぇ良い人だわぁ。良い人も、度が過ぎるほど良いとなれば、才能だし、奇人です。
先にも書きましたけれど、幸徳秋水や大杉栄は、前者は先に紹介した大逆事件で、後者は1923(大正12)年の関東大震災直後に憲兵による虐殺(甘粕事件、調べてね)で痛ましい最後を迎えています。それもあって、彼らの名前は後世に強いインパクトを与える傾向があるのでしょう。
大逆事件のとき、大杉と同じ事件(赤旗事件、調べてね)を理由に堺利彦も監獄に入っていました。逮捕される際、暴れる大杉らと警察のあいだで、喧嘩の仲裁に入っていたのが堺だったらしいのですけれど、つまり大杉のとばっちりで堺も牢屋送りになった。でもそれが堺の命を救ったわけで、塞翁が馬といえばいいのか、とにかく人の運命は不思議です。堺は幸徳のもっとも近しい理解者・同行者でしたから、もし堺がフリーであったなら幸徳と一緒に縛り首されていたのは間違いなしです。さらに、大杉栄が殺された関東大震災時も堺は刑務所の中でした。その前年に設立された日本で初めての共産党に参加したことが契機となり、やはり弾圧で捕まっていたのです。大杉(と、その妻である伊藤野枝と、8歳の大杉の甥っ子)を殺した主犯者である甘粕が、当時大杉だけでなく堺を殺すことを計画していたことは、この本の中でも触れられています。もし刑務所に入っていなければ、彼も甘粕が率いる憲兵隊に拉致され謀殺されていた可能性が高かった。
つまり、堺は偶然ですが国家によって囚われていたことで命を守られた。さらに、震災の前年に堺は2度の暗殺未遂事件に遭遇しています。右翼男性からの暴行事件、さらには陸軍関係者による堺の自宅での錐と小刀によって刺されるという事件。後者では、胸に重傷を負っています。
そういう修羅場をたまたま生き延びてしまったのが、堺なのです。生き残り続けちまったからこそ、今日現在ではそれほど名前が売れていないのかもしれませんけれど、明治から大正にかけての世間一般では、主義者の実力者としてかなりの有名人だったのです。
日本で最初のフェミニスト
以下、堺が1901(明治34)年に書いた「男女同権」について書いたものです。
予の考へでは、夫婦の関係についての同権と説明したい。即ち、男は女に対して貞操を責める権利がある。女も男に対して貞操を責める権利がある。女が貞操を破った場合には、男は裁判所に訴へて之を罰してもらふ権利がある。男が貞操を破った場合には女も裁判所に訴へて之を罰してもらふ権利がある。女に過ちがあつた場合には、男は女に対して離婚を求める権利がある。男に過ちのあつた場合には、女も男に対して離婚を求める権利がある。男に女狂をする権利があるならば、女にも男狂をする権利がある。男に妾をおく権利があるならば、女にも男妾をおく権利がある。是れが真の男女同権である。(『パンとペン』(91ページ)の中で著者黒岩が取り上げている堺枯川著『家庭の新風味』からの引用、堺枯川は堺利彦のペンネームのひとつ)
この文章を紹介した後に、著者黒岩は「現代の感覚で読めば、そんなことは当然ではないかと思うかもしれないが、百年前の日本で女性に与えられていたのは、「離婚を求める権利」だけで、それ以外は男性にしか認められていなかった」(92ページ)と書きくわえている。
この堺の文章を読んでわかるように、堺のジェンダーへの意識はちょっと時代離れした先進性があったようです。堺も若い頃は「女狂」の経験があったこともこの本にはきっちり書かれていますけれど、それはそれとして、彼の虐げられる立場の人たちへの感度はとても良かった。堺は英語はしっかり勉強して良くできたようで、当時の欧米での女性の権利拡張運動などの本を原本でよく読んでいた。読むだけでなく、その内容に共感して自分の価値観まで持っていったというところが並の人ではない。このあたりも、ただの「良い人」に留まらない嗅覚の良さというか、凄みすら私は感じます。
彼は中年以降、仕事仲間の若者から狸というあだ名をつけられていたそうですけれど、「この狸おやじは、なかなかやるな」ってことだったろうと想像するわけです。だって、同じ『家庭の新風味』という著作の中で、堺は次のようなことも書いているのです。以下は、原文ではなく、黒岩による要約ですけれど、ご紹介します。
男が妾を持つ理由としてよくいわれる「血統を絶やしてはならぬという説」に対し、「女房が子を産まぬから、外の夫人に交わつて子をこしらへようと思ふ」と男がいうなら、「私とても子はほしい、外の男と交つて見たら出来るかもしれぬ」と女房がいわぬとは限らないだろう、と堺は切り返す。(91ページ)
このレベルになると、家制度が跋扈する時代の大日本帝国政府も、そろそろ黙っていられなくなっていくのだろうと妄想するわけです。だから、主義者は嫌われる。正論が社会から忌避されるって、今もありますね。
ユートピアを求めただけさ
そんな堺も、根っからの社会主義者ではありませんでした。世の中の理不尽に少しずつ勉強していったのです。上段の文章を書いた1901年、堺は31歳です。このころの堺を評して、黒岩は次のように書いています。
愛妻家で、家庭を大事にしたいと考えていた堺は、すべての人々が貧困や病気に苦しむこともなく、戦争に巻き込まれることもなく、重税などの圧政で政府に虐げられることもなく、日々の生活を幸せに営んでいるユートピアのような社会を理想としていたが、まだそれを実現する手段については思い至っていなかったのではないか。(100ページ)
そして、マルクスの社会主義論に傾倒していくわけです。つまり、彼の社会主義に親しみ馴染んでいくのは齢30を過ぎてから。
21世紀も四半世紀を過ぎた今、30歳にもなってから社会主義を学び信奉するというのは少々青いというか、子どもっぽいといわれてしまうかもしれません。けれども、すべての人々の平等と幸せを願うという視点での社会主義、私も高校生のころ、ちらっとマルクスを知って、良いなぁと思ったことあります。堺に限らず、20世紀初頭の世界の、特に若者が、マルクスから大きな影響を受けたこと、私は共感する気持ち、今でもありますよ。
ソビエト型共産主義がけしてユートピアではなかった、北朝鮮も、ポルポト政権も、ユートピアではなかった。でもだからといって、マルクス主義の全否定も、どうかなぁ、それもやっぱり子どもっぽいんじゃないのかな。要は、どう改良してより良くしていくかで。
閑話休題。晩年の堺について、黒岩は次のような文も書いています。
ここで簡単に触れておくと、堺は売文社解散の翌年に同志と日本社会主義同盟を結成し、その二年後には日本共産党の設立に参加して国際幹事に就任、のちの総務幹事長となった。だが、第一次共産党事件の後に解党を申し合わせ、コミンテルンの指揮する共産党とは別の道を歩み、合法的に存在する無産政党の組織をめざすようになる。それが「労働派」と呼ばれるようになった。
一九二九年には東京市議会議員選挙に立候補して当選したが、翌年の衆議院議員選挙に出馬して落選する。さらに、最晩年には福岡県行橋市で「堺利彦農民労働学校」を開くなど、さまざまな出来事に関わっている。(415ページ)
売文社とは
『パンとペン』の副題に出てくる「売文社」について、ちょっとだけ。大逆事件前に幸徳と堺が立ち上げた「平民社」については、それなりに知られている(はず)。でも、大逆事件後に堺がひとりで立ち上げた「売文社」については、「平民社」ほど知られていはいない。
この「売文社」は、大逆事件で一気に冷え込んだ社会主義運動にかかわっていた仲間たち(そのほとんどが、堺よりも若輩でした)を救済する存在だったのです。なぜなら、多くの仲間たちが、仕事を見つけることもできず(主義者など雇えるか!)、家族からも疎遠になり(お前のせいで親兄弟まで迷惑する!)、社会の嫌われ者として今日の食事にも困るような状況だったわけです。そんな仲間たちを喰わせるために、堺は知恵をしぼり踏ん張った。それが「売文社」でした。
以下の写真は『パンとペン』の裏表紙に載っている売文社の広告です。売文社は、幸徳らが逮捕された年(2010年)の年末に開業し、1919年3月まで続きました。文を書くことならなんでもやります、ということで、例えば大学の卒業論文の代筆やある種の脅迫状の作成まで、けして誉めらないことでも、依頼を受ければなんでもやった。もちろんこれは、堺たちが本心からやりたかった仕事ではありません。でも背に腹は代えられない。とにかく、パンを入手する、それが当時の社会主義者たちの追い込まれて切羽詰まった状況だったのです。だから、開き直った堺らは、真面目に売文に勤しみました。

売文というのは簡単そうで、実はそうでもなかったようです。実際、堺たちの商売を真似て、いくつも売文業者が開業しましたけれど、どれもこれも長続きはしなかった。そして、この売文社も、堺がいたから成立したのです。その証拠に、堺が社の営みの第一線から退いていくと、売文社の勢いも傾いていったのです。
なぜ堺はそういう実力を持っていたのか。社会の多数は、堺たち主義者を忌避したのですけれど、筋金入りの良い人である堺を見込んでの仕事の依頼はかなりあった。しかも、社会の中の大物、主義者にとって仇敵である資本家の中にも、堺を慕う人がいたといいます。つまり、やっぱり人柄。そのあたりは『パンとペン』に詳細に書きこまれていますので、興味がある方はぜひ(気合を入れて)手に取ってみてください。
愛嬌と哀愁はコインの表裏
この本で、私は堺の良い人ぶりに感嘆したのですけれど、加えるならば、やっぱり愛嬌なんだろうとも感じます。売文社の宣伝に載っている、このパンにペンが刺さっているイラストの愛嬌ぶりったらないじゃないですか。売文というタイトルだって、一つ間違えばよろしくない気分を喚起するはずですけれど、そこを堺は良い人であることと、愛嬌で乗り越えて行く。
『パンとペン』には、次のようなエピソードが紹介されています。
ジャックロンドンの良く知られた作品『野生の呼声(The Call of the Wild)』を全訳して日本に紹介したのも堺利彦なのです。その翻訳作業中、感動的なシーンになると「胸が塞がり、涙が流れ、息がはづみ、眼がくらみ、遂にペンを棄てゝ暫く茫然となつて了つた」と堺は書いています。まさに、堺の真骨頂という感じがします。
一方で時代は明治から大正、そして昭和と向かい、大逆事件でひとつの頂点を迎えた主義者に対する権力の暴力は、大正デモクラシーでわずかな雪解けはあったものの、大きな流れはファシズムによる全体主義にどんどん転がり落ちていく。そして、死体となった多くの仲間の無念を胸に、堺はそんな時代に翻弄され続ける。
そんな堺が残した一句が、今回のブログのタイトルで用いた以下なのです。
行春の若葉の底に生き残る
冒頭に挙げた大杉の句「春三月縊り残され花に舞う」の華やさと比較すると、堺の地味さ、あるいは生き続ける哀しみぶり、が際立つような一句ではありませんか。つまり、堺の愛嬌は、哀愁と裏表。堺利彦、凄い人だったんだなぁ。
人は生まれる時代と場所は選べず、そして各人の人生はその時代と場所が作り出す唯一無二の作品です。不遜ではありますけれど、私も堺の淡々と卓越した良い人ぶり、その愛嬌と哀愁ぶりにちらりとあやかりたいものであります。
そして、著者である黒岩さんと校正者の方々のすさまじい仕事ぶりにも勇気づけられる読書であったのです。
それにしても、言論の自由、思想の自由、私はかなり好きで、大切に思うなぁ。ぜひ未来永劫、言論の自由、思想の自由が守られる社会が広がりますように。


















昔、職場の同僚に堺利彦が大好きというか、堺利彦の信奉者がいて勤務時間が過ぎると職場の机間を訪ねてまわり、『堺利彦全集を読みましょう!』と訴える人がいました。彼は今でも、脳梗塞で右半身麻痺になった奥さんの車椅子を押しながら毎週金曜日に少人数でも”護憲・反原発”のデモを続けています。売文社のことは彼から聞く機会がなかったので堕落人間の私は全く存じませんでした。私はなんだかんだ70歳まで働きました。仕事を離れて2年後、所謂市民運動(市民集会、署名運動、駅頭行動、国会前集会&デモetc.)に1年間ぞっこん付き合いました。小銭も時間もしっかり遣って疲れました。生活の中で希望が生まれたかといえばとても、とても・・・。
未来永劫、言論の自由、思想の自由が守られる社会でありますように、ではなく、未来永劫、言論の自由、思想の自由が守られる社会が広がりますようにとの想いは相当に高い壁でしょうね。市井に生きる一人ひとりがたとえ受け身であっても、それなりの感性をもって社会に関わらないと言論の自由、思想の自由が守られる社会を維持することは難しいと思います。
原子爆弾を2発も投下され大地も人も粉々になってから80年間不戦の歴史を築いた日本ですが相変わらず自国の制空権は無いようなものです。横須賀の海で原子力空母の艦上で世界を混乱させている人と小躍りする姿に象徴される、歴史認識に欠ける総理大臣には大きな不安しかありません。命あるものはみな平等です。言論の自由、思想の自由が守られて、不戦の歴史を築き続けるために感性を維持して日々の小さな変化に対峙しなければならないとつくづく思います。
匿名様 人生の先輩からのコメントにとっても刺激を受けています。
「堺利彦全集を読みましょう!」と同僚に訴える方がおられたということ、おそらくなかなか素敵な職場だったのではないかと妄想してしまいます。
市民運動に1年間しっかりとつきあって「小銭も時間もしっかり遣って疲れました。生活の中で希望がうまれたかといえばとても、とても・・・。」 ——— そうだったのですか。そして、例えば国会前集会&デモで訴えたことが実際の政策に反映されたかといえば、おそらくその多くも徒労に終わったのではないかと、ここも妄想しています。
そうかぁ。希望がうまれないのは、しんどいですわね。
はい、「相当に高い壁」、私もそう考えます。私がこれまでかかわったいくつかの社会では、日本よりもよっぽど言論の自由は制限されていましたし。それらの社会で、そうそう簡単に言論の自由が可能になるとは、思えませんもの。
それでも…、まぁ人類の歴史そのものがまだとっても短いですし。その中の虫けらのような一個人のますます短い人生の中で、そうそう世の中がダイナミックに変わるはずもない。変われば変わったで、当然ぶり返しもあるでしょうし。
それに言論の自由と一言にいっても、その姿はなかなか多様だろうとも想像します。例えば私の嫌いな思想・価値観を表明する自由もそれに含まれるわけですし。
それでも、私の好みとして、他者を虐げることでなければ、まぁなんでも表明できるのがイイなぁと…。堺利彦を始めとする当時虐げられた人たちが語ったことぐらいで、ギャーギャーとなる社会・国家は嫌だなぁと…。
「感性を維持して日々の小さな変化に対峙しなければならない」、本当にそうですね。そして、その対峙の仕方も、それぞれの価値観によって変わってくるでしょうし。やれやれ、こんだけ多くの人がいれば、普遍的理想すら多様で…、このお話には終わりはなさそうなんですよねぇ。
その上で、私は宗教的信仰は持たないのですけれど、他者の犠牲なしでみんなが幸せに近づける社会になっていってほしいなぁと。そんなことを思いながら、まぁそのうち私は死ぬのだろうと(あるいは、確率は高くないですが、殺されるのだろうと)、思ったりしております。
どうぞお元気でお過ごしください。そして、どうぞまた読んでください。気が向いたら、コメントもくださいませ。
村山哲也