ダバオで出会った母子。男親って、“立候補”するしかない存在なんじゃないのかな。

ダバオ 知人宅で 眠る女の子 (本文とは関係ありません)

 マリアという女性と、マサヤスシという名の男の子

 フィリピンの南端に位置するミンダナオ島、ダバオ市の教育事務所で働いていたときのこと。

 日本の人との間にできた子どもを持つ母親がいて、その彼女が困っているので話を聞いてあげて欲しいと若い友人から頼まれたことがある。

 週末にダバオの中心部にある貧しいバランガイ(フィリピン行政地区の最小単位)を訪ねた。トタン板を張り合わせたような部屋にマリア(仮名)という女性が暮らしていた。マサヤスシ(仮名)という名前の5歳くらいになる男の子と、マリアの母親だという初老の女性も一緒だ。

 マリアは20代中頃で長い髪と黒い瞳が印象的な人だった。マサヤスシは、たしかに東洋的な顔つきをした男の子だった。ただ幼い子どもが発する生命力のようなものが、身体の外に飛び出してこないような雰囲気を持っていた。声をかけても笑い顔を見せることもなく、かといって知らない顔に怯えるのでもない。母親のとなりに床座りになって、何をするでもなくキャラメルをなめている。なにか自閉症のような障害を抱えているように見えた。

 マリアは、英語は片言しか話せない。幼いころ、ほとんど学校には通わなかったそうだ。マリアのビサヤ語(ダバオで話されている現地語)を友人が訳してくれる。マリアが困っているというのは、以下のような話だった。

 マリアはダバオで生まれ育った。貧しい家庭だったようだ。10代後半のときに、フィリピン中部の観光都市セブのレストランでの仕事を知人に紹介された。セブで働き出した彼女は、やがてセブで働く日本の男性と知り合い、そして、身籠った。その男性、仮にAさんとしよう、は、セブの日本企業で働いていたという。

 マリアはダバオに帰り出産した。Aさんはセブからダバオのマリアを何度か訪ねた。生まれた赤ん坊にマサヤスシという少し不思議な名前をつけてくれたのもAさんだという。ダバオにくるたびAさんは幾ばくかのお金を置いていった。やがてセブでの仕事を終え、Aさんは日本に帰国した。その後も手紙や電話でのやり取りは続き、Aさんは数ヶ月おきにマサヤスシの養育費を送金してくれた。日本に帰国後も、ダバオまでマリアとマサヤスシに、一度会いにきてくれた。

 ところが、そのAさんからの送金がもう半年以上滞っているという。手紙を出しても返事が来ない。電話も通じなくなった。Aさんからの送金をあてにして暮らしていたので、今、生活に困っている。

日本とフィリピンをつなぐ

 英語も日本語も不自由なマリアがどうやってAさんに手紙を出せたのか、不思議だった。ぼくがそれを尋ねると、マリアに聞くこともしないで、友人がその答えを教えてくれた。ダバオの郵便局には代書屋が机を出しているという。そこに行って、相手の手紙を訳して読んでもらい、そして返事を口頭で伝えればそれを英語にして書いてくれる。
 念のためマリアに確認してもらうと、やはりマリアとAさんも、代書屋を使って手紙のやり取りをしてきたのだという。通訳の入らない電話では、簡単な英語と、やはり簡単なフィリピノ語でなんとかやりとりしていたそうだ。

 フィリピンは敬虔なカソリック教徒の多い国だ。フィリピンと聞くと、日本ではなにか水商売のイメージを抱く人も日本ではいるけれども、日本でも多いフィリピンパブで働く女性たちも、カソリック教徒が多い。彼女たちは、けして気安く男性と性行為に及ぶわけではないし、むしろ貞操意識は強い。
 フィリピンは世界の中でも、もっともカソリック教会の大本バチカンの教義を厳密に守ろうとする人たちが多い場所だ。そのフィリピンで、中絶は違法だ。男性が受け入れようと逃げ出そうと、妊娠した女性の多くは子どもを産む。

 「自分は独身だ」とAさんはマリアに伝えていた。それでもふたりは、結婚することはなかった。そんな中、何年間も送金を続けたAさんの対応は、知らんふりを決め込む男性も多いなか、誠実な対応とも思えた。送金が止まったのも、Aさんなりの理由があるのかもしれなかった。1990年代後半、日本はバブルが弾けた後の長い不景気のときだ。

 マリアの話を聞いて、ぼくは日本のNPOと連絡をとった。そのNPOは日本の男性とフィリピンの女性との間に生まれ、でも日本人男性が責任を取らないようなケースの仲裁を行っているところだった。マリアの件も相談にのってくれるはずだった。

 NPOが調べると、マリアの手紙の送付先の住所にAさんは在住で、すぐに連絡がとれた。Aさんは自分がマサヤスシの父親であることを認め、これからも支援する意思があることをNPOに伝えてきた。しかしその前に、自分が確かに父親であることを確認したいという。そのために、Aさん、マリア、マサヤスシ、三者のDNA検査を実施することになった。検査にかかる費用はまずNPOが立替え、マサヤスシがふたりの子どもであることの確認がとれれば、Aさんが負担することになった。

 心配ごとがあったら相談しなさいとNPOは、以前に同様のDNA検査を行ったダバオ在住の女性をマリアに紹介した。その女性を訪ねたマリアにぼくも同行した。そこは小さな美容院で、女性はひとりでその店を切り盛りしていた。彼女は流暢な日本語を話した。

 女性と日本人男性(彼女は、その人を「パパさん」と呼んだ)との間に娘が生まれた。日本に家族がいる男性は、娘の存在を認め、養育費を送っていた。そして、その送金が止まる。彼女からの依頼を受けてNPOが連絡を取ると、男性は亡くなっていて、遺族はフィリピンの娘の存在を無視した。
 その状況を覆す決め手になったのは、男性が女性を訪ねた際に使っていたヘアブラシに残る男性の髪の毛だった。その髪の毛を使ったDNA検査によって、娘は男性の子どもであることが確認され、遺族も日本の法律に則った遺産を娘に渡すことに同意するに至った。
 その遺産で美容室を開いた女性は、残りはすべて娘のために銀行に預金しているといった。女性の話をマリアは真剣に聞いていた。

 DNA検査の検体試料が、確実に本人のものであることを確保するために必要な手続きがあり、ぼくは証人として検体の採取と、そのときの証拠となる写真撮影などを引き受けた。やがてDNA検査道具一式が、ぼくのもとに送られてきた。
 検体採取は簡単で、口の中、頬の内側の粘液を綿棒でこすり取ればよかった。ぼくの指示に素直にしたがい、自分の口を開け、さらに嫌がるマサヤスシに口を開かせたりしながら、マリアは嬉しそうだった。送金が再開されたら、もうすぐ小学校に入学するマサヤスシに、必要なものを揃えてやるのだと、マリアはぼくに話した。
 指定通りマリアとマサヤスシの検体を取り、同意書にふたりの拇印をしっかり押し、さらに現像した検体採取時の写真も添え、すべてを厳重に封印して、ぼくはそれをNPO事務所に送付した。日本のAさんの検体も、NPOスタッフが直接採取したはずだ。

父親とは立候補するものじゃないのか

 結果は、マサヤスシの父親はAさんではないことを示した。NPOから送られてきた資料には、3人それぞれのDNAの塩基配列を示すおぼろげな写真や、それを説明するずいぶん長い英文が添えてあったけれど、それをマリアが理解するのは、難しいというよりも、無理だったろう。とにかく、結果を知ったマリアは黙り込んだ。

 検査の前に、「Aさんがマサヤスシの父親でない可能性」をぼくはかなりしつこくマリアに問いただしていた。マリアはレストランで働いていたと語っていたけれど、もしかしたらそのレストランはきわどい商売をしている場所かもしれなかった。もしAさん以外ともそういう行為があったとしたら、DNA検査がパンドラの箱を開いてしまう可能性があることも何回かマリアに伝えた。しかし、マリアは毅然とした態度で、Aさん以外にマサヤスシの父親は考えられないといった。それもあって、ぼくも、おそらくNPOも、検査結果には自信を持っていた。思わぬ展開だった。

 当時、NPO検査にはごく稀に間違いもあるとされていた。ぼくはマリアに、検査結果に納得がいかないのなら、再検査をすることも選択肢だと伝えた。その場合は、ぼくがその費用を負担するつもりだった。NPO側はもう少し現実的で、マリアに他の日本男性の心当たりを再度尋ねたようだ。確かに日本の人の子と思わせるような顔つきを、マサヤスシはしていた。

 しかし、マリアはマサヤスシの父親はAさんだといい続け、他の男性の可能性は頑なに否定し、しかし再検査にはけして首を縦に振らなかった。検査結果は当然Aさんにも伝えられ、Aさんがマサヤスシの養育費を負担する話はぶち壊しになった。

 ぼくがやったことは、それまでわずかながらつながっていたマリア(マサヤスシも)とAさんとの結びつきを完全に引きちぎることになった。おそらく未来の可能性だけでなく、ダバオまでマリアとマサヤスシに会いに来たというAさんの過去の記憶も打ち砕いただろう。

 それでも、もしかしたらAさんはマサヤスシの養育費を負担しないだろうかと、ぼくはかすかに期待した。マリアの困窮状況を、Aさんはよく理解しているはずだった。黙り込んだマリアの様子からは、マリアとAさんとの間には、マサヤスシを挟んだ絆のようなものがあったことを思わせた。
 もしDNA検査という技術がなければ、その絆はそのまま存在できたんじゃなだろうか。自らの体内に胎児を宿す母親と比較すれば、父親がその胎児、そして生まれた子どもを「自分の子どもだ」と認識するのは、結局、母親とのそれまでの関係次第だ。Aさんには、マサヤスシを「自分の子ども」と思うのに必要なもの、つまりマリアとの関係性が、たしかにあったはずだ。
 でも、Aさんが養育費を支援することはなかった。

 当時、ぼくにはまだぼく自身の子どもはいなかった。……やっぱり血なのか?血だけなのか?……血でないとすれば、では、それはなんなのか?
 結局、男親は、立候補するしかないんじゃないだろうか。
 実際、男親がやっていることは、多くはそういうことなんじゃないだろうか?夫婦の間に生まれた子どもの、DNA検査をしている父親はほとんどいないだろう。それは、つまり、立候補して、子どもの母親から、その立候補を認めてもらったってことじゃないだろうか。それ以上でも、それ以下でも、ない。それとも、婚姻届を「国家」に出したことが父親になる条件?国に認めてもらったからよりも、自分で立候補した、そっちのほうがずっと力強いじゃないか。

聞けない、その後

 その後、そのバランガイを訪ねれば、マリアとは顔を合わせた。マリアは、近所の洗濯物を受け負うなどの小さな商いで、なんとか生計を立てていた。サリサリという小さな雑貨店を始めたこともあったけれど、バランガイのなかには商売敵のサリサリはもう何件もあって、その商売はうまくいかなかった。やがて、マサヤスシも小学校に通い始めた。ちょうどそのころ、ぼくのダバオの仕事は終わり、ぼくはダバオを離れた。2001年の春だった。
 自閉が強ければ、フィリピンで高学年まで進むのはけして簡単ではないはずだ。

 今、ふたりがどうしているか、ぼくは知らない。マサヤスシは、20代半ばの成人になっているはずだ。インターネットで継っているダバオの友人に尋ねれば、ふたりの消息はわかるかもしれない。いや、きっとわかるだろう。けれど、ぼくは聞けないでいる。きっと、聞くのが怖いのだ。

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