三権協力!?? (三権分立のギャグじゃないのよ)香港、愛国者による統治かぁ…

アンコールワットから登る朝日。学校へ急ぐ女子学生がぼくの前を通り過ぎた。 (本文とは直接の関係はありません)

あなたは愛国者ですか?

 最近、中国の習近平国家主席が、香港の行政長官と会談した際に、「愛国者による統治でこそ香港は長期に安定する」と述べたそうだ。
中国 習主席 香港行政長官と会談「愛国者による統治」を強調 | 香港 抗議活動 | NHKニュース

 それを受けてだろう、現在香港では、公務員に国家への忠誠を誓わせ、また議員として立候補できる条件としてもそれを採用しようとしている。夏宝竜・香港マカオ事務弁公室主任という北京に近い偉い人が挙げた「愛国者」の定義は、「国の主権や安全に危害を加えず中国政府の権力に挑まないこと」だそうだ。記事によっては、夏宝竜さんは「愛国者」について「中国やその憲法、共産党を愛する人で、反中“トラブルメーカー”は含まれない」と言ったともいう。
香港統治は「愛国者」だけで 中国、民主化逆行の新制度:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 現在、香港行政府はこの方針に則って、選挙改正を進めていて3月にはそれが発表になるらしい。これまで民主化を訴えてきたような人は候補者になれない可能性が高い。野党的な存在が議員になれない議会って、なんのためにあるんだろう?法案が出てきて、そこで何を話し合うのだろう?20世紀後半の日本・東京に生まれて育ったぼくには、不思議でしょうがない。

 政権交代というのは、政府の権力が移行することだろうか?それとも、政府は日本国家政府として普遍と考えるのだろうか?最近、政権交代のあった米国の民主党と共和党というのは、きっとどちらも愛国者の集団だろう。愛国者同士の権力闘争は許されるってことなんだろうか?彼らは政権を競っているわけだけれど、政権の座と、それを競う党とは、同一のものではないってことだよね。だから政権批判も許される。
 けれど、中国では政権イコール共産党なわけだ。愛国者イコール愛共産党ってこと。政権批判イコール国家批判でトラブルメイカーかぁ。
 たとえば、数日前、生活保護者への給付金を政府が減額する際に説明した根拠は正しいと認められないという大阪地裁の判決があった。政府の判断はを間違っていると司法が判断したわけだ。この裁判の原告団に加わった方は「国がやることが全て正しいわけではない。結果はどうであっても、黙っていたらだめだ」と語ったという。
 「涙が止まらない」原告団に歓声 生活保護費減額「違法」判決 (msn.com)
 でも「国がやることは全て正しいわけではない」と考えは、どうだろう、中国では認められるのだろうか。おそらく反愛国的、トラブルメイカーとされてしまうんじゃないだろうか。それに、国の判断を「それはオカシイ」と判断した裁判官も、反愛国的な思想の持ち主となっちゃうんじゃないかな。
 昨年、香港の記事を追っかけていて「三権協力」という言葉を見つけた。もちろん、「三権分立」に対する言葉だ。国家権力を、立法・行政・司法の3つにわけて、それぞれが互いに暴走しないように監視しあう仕組みのことだ。それに対して、「三権協力」。立法・行政・司法が協力して……。
 協力して何をするのか?国家の安全・安定を維持するってことなんだろう。

 でも、そうなれば「国がやることは全て正しいわけではない」という言葉は、どこへ置いたらいいのだろう。居場所がなくなって、浮遊するしかないよなぁ。

 どう、あなたは、愛国者ですか?

民主主義には国それぞれのあり方がある。

 さだまさしという歌手がいる。ぼくが彼を知ったのは中学校1年生のとき。「雨やどり」という曲が最初だ。「雨やどり」は1977年3月にシングルとして発売されたと記録にあるから、確かにぼくが13歳になる直前のこと。中1で知ったという記憶は間違いでない。それ以来、さださんの曲は聞いてきた。ときには、批判的にも聞いてきた。ま、それは別の話し。
 そのさだまさしが『長江』というドキュメンタリー映画を中国で撮影し、1981年に公開されている。ぼくはその映画を見ていない。けれども、この映画を撮った際のことをラジオでさだが語った際に「わたしたちは今は貧しいけれど、そのうち日本に追いつきますよ」と言った若者のこと話したことを覚えている。「追いつくのにどれくらいかかる?」と訊ね返したさだに、その若者は「200年後」と答えたというのだ。さだは、その若者が持つ時間軸のスケールの大きさに感動した旨を語ったと思う。そして、ぼくも、そう。自分の寿命の先までを見通すなんてすごいなぁと感じ入ったんだ。

 その後、中国の経済成長は物凄い速さで続き、日本の経済に追いつくどころか、追い抜いてしまった。半世紀もかからずに。さだが紹介した若者の想像は、あまりにのんびりしていたってことみたいだ。おそらく、その急激な経済成長も三権協力の成果なのだろう。もし、中国が三権分立を取り入れていたら、あれだけ早くの成長は無理だったろう。「国がやることはすべて正しい」からできたことだし、実際、経済成長したのだから、正しかった。なるほどなぁ。

 その結果を見て、三権協力に憧れる向きも世界には出てきている。
 カンボジアのフンセン首相は、2019年5月に日本を訪問した際に、日本経済新聞主催の国際交流会議「アジアの未来」の場で講演し、「民主主義には、それぞれの国のあり方がある」と主張している。2018年に行われたカンボジアの国政選挙に際し、フンセン政権は反政府を訴える野党を解党するなどして権力強化を図った。そして、そのことで欧米から強く批判を浴びていた。それがこの「民主主義には、それぞれの国のあり方がある」という発言につながっている。彼は、こうも言っている。「国家が自身で最適だと思う道を選んだら他国は尊重すべきだ」
カンボジア首相「民主主義にはそれぞれのあり方」: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 彼の主張の背景には、「カンボジアも自身で最適だと思う道を選んだ」ことで、順調な経済発展を遂げているという強い自負がある。そして、その最適な道が、中国式の「三権協力」だ。カンボジアでは、裁判官も与党人民党の党員であることを公言している。それで、問題はないようだ。

 三権協力は、ダメだと思う

 三権協力に象徴される権威主義は、最近のコロナ禍でも「コロナを抑えるのに、変な民主国家よりも成功している」と語られる。権威主義のほうが、ぼくたちの安全を保ってくれるかのようだ。

 けれども、ぼくたちは経験している。急速な経済成長には、影もできてしまうことも。たとえば、その象徴が「ミナマタ」。水俣病の原因となった有機水銀を水俣湾に垂れ流したのは「チッソ」という一企業だけれど、チッソは日中太平洋戦争時代から国家という看板を背負った国粋企業だった。「チッソ(国家)は間違わない」はずだったのに、間違って水俣病は起こった。
 あるいは10年前の福島第一原発事故。あれも「東京電力(国家)は間違わない」から絶対安全だったのに、間違って起きた。
 三権分立ができたことは、この間違ったときに「間違った」という言うことだった。間違う前には、三権分立でも間違いを止めることはできなかったように思える。
 けれども、きっと探してみれば、間違う前に止めたケースもあったはずだ。間違う前から「国がやることは全て正しいわけではない」と思った人たちが行動したから止めることができた、あったかもしれない「間違い」がきっとあって、でも幸い三権分立があったから、その「間違い」は起こらずにすんだと想像したほうが賢明だと、ぼくは思う。

 「三権協力」の利点は、間違ってもそれを間違いと言わせない、ことにある。あるいは、間違う可能性を事前には検証させないことにある。だから、ものごとは早く進む。それに惹かれる人がいる。そんな人に、ぼくは聞きたいよ。ミナマタやフクシマダイイチゲンパツから、何を学ぶのかと。

 香港の「愛国者だけの統治」が、ぼくは苦しい。けれども、三権協力は長くは続かない。そうだなぁ、200年後、三権協力は間違っていたと、より多くの人が語るに違いない。でも、そうなる前に、どれだけの間違いの蓄積が必要なんだろう。どれだけ「ミナマタ」や「フクシマ」が繰り返されるんだろう。それを思うと、やっぱり苦しい。
 それでも、どうかな、ぼくの予想は、当たるかな。

 ぼくは多分愛国者じゃない。けっこう人々のことは好きなんだけれどなぁ。でも、それじゃ、足りないらしい。こういう内容のことをブログに書くことで、将来、イヤな思いをするかもしれないなんて思う。そういう世界が目の前にあるようで、かなり怖いよ。

 

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