近年、一気に身近になってきた人工知能(AI)、その利益還元が課題ですよね。
先日、たまたまみたニュースの中で、日本の女子大生がボーイフレンドとのあれこれをチャットGTPという人工知能(AI)に相談する、というシーンを見たのです。同性の友人に相談するよりも、AIを選ぶ。そちらのほうが気楽だという。
最近は、友人や家族よりもチャットGTPとのコミュニケーションのほうが長いという若い世代がおられるとのこと(いや、もしかして世代に関係なくかもね)。確かにAIならば、絶対に嫌な顔をしないで話を受け取ってくれるでしょう。24時間、いつでも対応してもくれる。私がそんなふうにチャットGTPと親しい彼女のボーイフレンドなら、ちょっとAIに嫉妬してしまうような状況かもしれません。
あるいは、AIを活用して、会話が不可能な重度障害者とのコミュニケーションが可能になりつつある、というような記事も読みました。今や、脳内の脳波を使って意志の疎通が可能になりつつあるらしい(もちろん限界はまだあるにせよ)。すばらしい!
けれどもこのようなケースは、これまで誰かがやっていた仕事をAIが肩代わりするということではありません。
AIが切り開く新しい技術の享受は良いとして、やっぱりそれだけではAI対応は不十分だと思うのです。
問題は、これまで人間がやっていたことをAIがとって代わってやってくれる状況。前回のブログでも書きましたが、私はそれは良いことだと思っているのです。それは家事労働が電化されたことで、自分の時間が増えた家事労働者(その多くがいわゆる主婦でした)ということとよく似ていると思うのです。長時間家事労働が不要になって、その分人生を楽しめるようになった人たちと同様に、これまで稼ぎのためにやりたくなくてもやらざるを得なかった仕事をしなくてもいいということ。それは良いことだと思う。
ただ、それで稼ぎが無くなってしまうのは困る。人間に代わってAIが労働してくれることで生まれた利益は、(元)労働者に還元されなくちゃいけない。そのシステムが必須だ。例えばベーシックインカムのような。このベーシックインカムは生活保護とはまったく意味が違います。単に衣食住を賄うだけでなく、余暇までカバーするものであるべきだ。そういうことを前回のブログで書いたのでした。
けれども。
私の書くことは、単なる理想論・楽観論なのではないのか? それは、むしろ罪作りなのではないのか?
どうも自分の書くことは、机上で考えた単なる理想論・楽観論でしかないのではないのか?
そんなことを前回の投稿の後にも思うのでした。例えば、その前回の投稿で書いたAI(人工知能)が私たちの仕事を軽減してくれて、そしてAIが私たちに代わって生み出してくれる利益を分配することによって、私たちの生活は楽になるよねっていう考え方。そりゃ書くのは簡単だけれど、実際それが可能となるのか? おい、お前、ずいぶんとお気楽なことを書くじゃないか、お前、もしかしてインテリだな?! って怒られてしまうだろうなぁという気分。
例えば、前回の投稿に寄せられた匿名氏からの以下のコメント。
「AIの導入で人間が(収入のための)労働から解放されるそこまでの風景が先ずイメージ出来ない」「新しい自分の時間を生きる覚悟を迫られているにもかかわらずその時空を理解できない者はどうすればいいのかよ」。
覚悟せよ、という文章を書いた者として、ハッとせずにはいられなかった。どうやら私の書いたことは、お遊びに過ぎなかったのではないだろうか。現実はもっと厳しいってのが、相場だ。
そういう現実を前に、気楽な理想論・楽観論を書くということは、むしろ現実の厳しさを覆い隠す罪作りな行為なのではないだろうか??
儲けることへの天井知らずの執着!その結果、弱きものは単なる使い捨ての労働力として使われるだけ。
そんなことを、以下の2冊の本を読んでも、強く認識せざるを得ないのです。
その一冊は『追われゆく坑夫たち』上野英信著 岩波新書 第1刷は1960年、私が読んだのは2011年の第23刷。第1刷が出た1960年ってのは、昭和35年。私が生まれる4年前。その本が、読み継がれて第23刷(現在、新刊で販売されているのも23刷のようです)。
もう一冊は『私の名はリゴベルタ・メンチュウ マヤ⁼キチェ族インディオ女性の記録』 エリザベス・ブルコス著 高橋早代訳 新潮社 昭和62年の第1刷。昭和62年ってのは1987年ですね。こちらは、すでに絶版になっているようです。
まず、『追われゆく坑夫たち』は、主に筑豊地方の炭田、特に当時つぎつぎと倒産し閉山していった中小炭田の坑夫たちのどん底の生活ぶりを取材して書かれたものです。
彼らの生活は、現在の価値観でいえば、間違いなく奴隷そのものです。いったん前借りして働きだしてしまえば、その後は給与は遅れ、払われず、せいぜい金券と呼ばれるその炭鉱を運営する会社が運営する商店でのみ通用する商品券での支払いがなされるだけ。その商店にもほとんど商品はなく、たまにやはり給与の代わりに現物支給される米も、実際の価格よりもかなり高く計算され、さらに量も中抜きされている。けれども、坑夫たちからすれば、ないよりはマシということで、そんな金券でも米の現物支給でも結局ありがたく受け取ることになる。子どもたちは学校に行けず、病気になっても医者にも通えず、あるいは医者に行くためには借金するしかなく。あるいは、わずかな現金を得るために坑夫たちは何十キロも離れた都市部に歩いて血を売りに行く。その売血さえも、やがては「血の比重が軽すぎる」と言われて売ることもできなくなる。
それでも……、それでも坑夫たちは、他の仕事に移れない。騙されてひどい目にあっても、やっぱりまた炭鉱坑夫の仕事に舞い戻ってしまう。あるいは、仕事を抜けようとしたり、あるいは労働組合を作ろうとすればひどい暴力を受けることになる。幸いにも労働組合結成までたどり着けたとしても、そうなればリーダーたちはすぐに首になり、あるいは会社よりの第2組合が作られて、組合運動は効果を産めない。大手の組合に協力を頼んでも、小さな炭鉱の小さな組合ということで、ほとんど相手にされない。
安全基準をチェックしに来る公的な役人が訪問するときには、数時間、出口をふさがれ(つまり見えないようにされて)、その間、沈殿する空気の中でただ恐怖におびえる人たち。大手の炭鉱が機械化を進める中で、弱小の中小炭鉱では、あえて人力を使ってわずかな炭田層を掘る。日曜日は休みだから、その前日土曜日には通常の2倍の石炭を掘らないと、地上に戻らしてくれないという仕組み。それでも、それをやるしかない坑夫たち。
体を壊し、障害を持ち、それでも地下に降りて石炭を掘るしか術のない人たちが、1950年代には多数存在したのです。それはたった70年前の日本社会の確かな一面なのです。
そうまでしてそれらの中小炭田が操業を続けたのは、とにかく儲けるため。できる限り安く儲けて、最後は偽装倒産して利益は持ち逃げする。そういう人たちをなんと呼べばいいのでしょう。資本家? 金持ち? 企業家? とにかく、坑夫たち、その家族たちは、単なる使い捨て、飼い殺しされるだけなのです。
あるいは、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ マヤ⁼キチェ族インディオ女性の記録』は、中米グァテマラで1959(昭和34)年に生まれたリゴベルタ・メンチュウというインディオ(先住民)の女性が、亡命してメキシコ滞在中に訪ねたパリで語ったインタビューをもとにして書かれたものです。リゴベルタは23歳でした。彼女の語りは、コロンブスの新大陸“発見”(実際は発見ってのはオカシイですよね、あくまで欧州が初めて新大陸を知ったというだけ)以来、5世紀にわたってつづく、インディオへの搾取の歴史です。グァテマラを支配するラディノ(白人とインディオの混血、他国ではメスティーソを呼ばれる人たち)が、インディオの土地を奪い、文化を奪うシステムが、彼女の育った1960年代70年代に、ますます強固になっていく様を彼女の語りはあぶり出していきます。
特にいわゆる契約。リゴベルタがインタビューに応えた1982年当時、多くのインディオはグアテマラの公用語であるスペイン語を使えなかった。それでも、労働でも、土地の所有でも、彼ら彼女らは差し出された契約書にサインを強要されるのです。そして、その契約書は口頭で説明された内容とは違うことがスペイン語で書かれていた。たとえば「これにサインすれば土地はあなたのモノだ」と言われてサインする。けれども、同意書には「2年間」という期間を限定しての文章が書かれていて、「2年したら土地を政府に明け渡す」という一文があったりする。
年間いくら支払うと口頭で言われてサインした労働契約書には、その支払いから家賃や食費や機材費や…を雇い主がいいように中抜きできる内容が書いてある。人間の良心ってあるのですか?というような嘘ごと・騙しごとが、むしろ当然のように行われていたのです(過去形にとどまるのか!?)。
しかもそれは猛烈な暴力を伴うものでした。あまりの悪事に耐えかねてインディオが反抗すれば命まで盗られる。リゴベルタの弟は、13歳で反逆罪で捕まり拷問の末、生きたまま焼かれます。我が子が生きたまま焼かれるのを見つめ泣くしかなかった母親も別件で拷問を受け殺され、インディオの指導者であった父親は反政府活動中にスペイン大使館を占拠して、その場で殺されます(拷問で苦しまずに死んだ父親は、拷問を受けて殺された母親や弟よりラッキーだったとリゴベルタは語るのです)。父の意志を継いで活動していたリゴベルタの身にも危険がせまり、亡命を余儀なくされたのです。
幼いリゴベルタが生活のために過ごしたプランテーションでの過酷な暮らしぶりなどは、先の『追われゆく坑夫たち』で描かれた坑夫の奴隷労働とまったく同じように思えます。働いても働いても、その稼ぎは地主たちに吸い上げられてしまう。ここでも、地主たちの儲けることへの執着は天井知らず、限りがありません。
(蛇足ですが、その後、生き延びたリゴベルタは1992年にノーベル平和賞を受賞します。彼女の受賞は、その前年の1991年に国連で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を象徴する存在としてリゴベルタが選ばれたということのようです。さらに、この『私の名はリゴベルタ・メンチュウ マヤ⁼キチェ族インディオ女性の記録』の中の一部には、事実を肥大化させて語っている部分があるという批判もあり、リゴベルタも一部過剰に表現している部分があったことを認めています。けれども、彼女の小さなやらせの語りは、搾取のシステムの本質には関係のないことでもあります)
けして昔話じゃない、儲け絶対主義
紹介した2冊の本が世に描かれているのは、前世紀のこと。リゴベルタの本の出版から数えても、すでに半世紀近くが経ちました。本の中で描かれた坑夫たちや、インディオたちの苦悩・辛酸は、過去の一ページに過ぎないのでしょうか?
もちろん、そんなことはありませんよね。様相を変えつつも、ひどい搾取は今もある。
身近な事例だと、先日カンボジアから日本に護送され逮捕された、国際詐欺グループの掛け子と呼ばれる人たち。彼ら彼女らのやったことは確かに犯罪行為ですけれど、要は彼らの背景にはそれで大きく儲けている人たちが確かにいる。多くの掛け子は、単に使い捨ての存在に過ぎない。しかも、彼らの労働環境はまさに奴隷として働かされていたというようなものです。
あるいは、やはり当地カンボジアでの事例ですけれど、現在のタイ湾での漁業の現場ではやはり奴隷労働とも呼ばれるような騙され、拉致され、無理やり働かされている人たちが存在することが知られています。その多くが、貧しい家庭環境からの脱却を夢見た若者たちです。彼らも一獲千金を求めてその罠にはまってしまうという点では、儲けることの狂気に取り付かれた結果とも言えなくはない。そして、そんな若者を搾取して、実際により大きく儲けようとする悪徳船主らの存在がある。
いわゆる悪徳企業(よくブラック企業という呼び方をしますが、アメリカの黒人解放の歴史をしれば、ブラックに負のイメージをおわせるこの表現はまったくいただけない!)もそうでしょう。あれだって、無理して働かせることで誰かが儲けている。人を不幸せにしてまで儲けたいという欲望には、どうやら歯止めが効かない。
技能実習生の件だって、結局は儲けるために彼らを利用している。もちろん、良心的に彼らを受け入れている人たちがいるのは知っています。私は農業系の大学出身です。そして、現在農業を専業にしている学友もいる。彼らが農業を営む上で、もはや途上国からの労働力は欠かせない状況があったりするのも知っています。技能実習生を雇うことが悪だとはとても言えない。けれども、制度の背景にあるのは、やっぱり安く労働力を使うことにあるのも間違いない。
そして、昨今の高まる移民反対の声は、やっぱり短期できて働かせて、そして去ってもらうというあまりに都合のいい考え、他者を消費することにつながる気がして仕方がない。
確かに坑夫はほぼいなくなりました。一般論で言えば、インディオたちも学校でスペイン語を学んでいるかもしれない。けれども、「儲けることに取り付かれた狂気」は今でもある。それは間違いない。資本主義の仕組みが、それに拍車をかけています。
プチブル、小ブルジョア、日和見主義
とすればね、前回書いたような、AIが労働者に取って代わって稼いでくれる、その稼ぎはそれまでの労働者に還付される、なんてのは、やっぱり夢物語のような気もしてくるのです。AIに取って代わられた労働者は、つまりは失業し、労働者に代わってAIが生み出す稼ぎは、今の金持ちをもっと金持ちにするだけなんじゃないだろうか?
今回紹介したどちらの本にも文中に「プチブル」という言葉が出てきます。若い人にはプチブルと書いても、なにを意味する言葉かわからないでしょう。プチブルとは、プチ₋ブルジョアの省略形。プチ₋ブルジョアとは、つまり小粒なブルジョア。 ブルジョアとは資本家の意味です。大企業を持つ資本家ほどではないにせよ、そこそこの財産を持った小さな資本家がプチブル。
例えば、リゴベルタが言う 「キリスト教徒と称している人は大勢いますが、その名を辱めるばかりです。何の心配もなく、立派な家に住み、それでよしとしているのですから。」(308ページ)なんかも、プチブルの一種。あるいはプチブルには小市民、あるいは日和見主義者という意味もあるようです。日和見主義者とは? 「ある定まった考えに基づいて行動するのではなく、形勢を見て有利な側方に追従しよう」というのが日和見主義。つまり、けっして格好良い意味ではありません。
そして、私も多少の憂いはあっても「なんの心配もなく、立派?とは言えないにせよ自分の家に住み、それでよしとしている」んじゃないだろうか? おいらもプチブルに過ぎない? 少なくとも虐げられたり、理不尽な厳しい暮らしを人からすれば、プチブルに見えるだろう。なんかなぁ、情けないなぁ、辛いわぁ。そんな風に思うこともあるのです。プチブルの唱える理想主義? そりゃぜんぜ~ん説得力ないよなぁ。
前回書いた楽観的な内容は、そうなればいいなぁと本当に思うのです。やりたくもない単に収入を得るためだけの仕事であれば、どんどんAIに取って代わってもらったほうがいいと。そして、AIの稼ぎが、人々に還元される仕組みがあれば良いと。
けれども、もしも「儲けることの狂気」が私たちの社会に根強く巣食っているのであれば、その実現は簡単ではない、ほとんど不可能でしょう。だって、儲けることの狂気とは、他者よりもより一層儲けたい。人を食い物にしてでも儲けたい。おそらくAIを使って儲けたら、それを分配なんてとんでもない!
さらに『追われゆく坑夫たち』が教えてくれるのは、AIが広がったら、そのAIによって失業した人たちを使い捨てにしてAIなしの人力生産で儲けようという人が存在するのだということです。みんなで幸せになるのではなく、とにかく自分だけ幸せになりたいという人がいるのです。そんな人にとって、貧しい人っていうのは騙しやすい人ってこと。
おそらくそんな騙す側の人も、家庭では良き母だったり父だったりするのでしょう。身内にとっては優しい人。守ってくれる人。けれども、そんな人が平気で他者を食い物にできる。それが人間の負の側面です。どんなに良い家庭人でも、戦地にいけば平気で人を殺せるのと同じです。
それをどうすればいいのか? もちろん、右から左までみんな同じってのがいいわけではない。でも、格差も程度問題です。そして、21世紀も4分の1経った今も、幸せはみんなには分配されていない。そこにAIが入れば? 結局AIから得る利益は持てる少数者へますます集中するんじゃないのか? 個人の年収が何億円、何十億円って、なによ?!
それに対抗するためには、やっぱり「身内」の枠を広げるしかない。今、たとえばそれは広がっても国境で遮られる。日本人ファースト。アメリカファースト。そんなのばっかり。
どうやって同じ人間じゃんって価値観を持てるか。国境を越えて身内意識を広げられるか? 他者の不幸せにシンクロできるか? ガザの状況に、心底心震わせられるか、怒れるか。
もし他人事なら、AIのもたらす幸せも、なんか望み薄って感じなんだよなぁ。どうすりゃいいのかなぁ、どうすりゃいいのかなぁ……


















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