♪それはっ、いいことだろ~♪ は、井上陽水さんの「傘がない」風に読んでいただくというのが今回のお決まりです。「傘がない」なんて歌、知らないよーというお若いあながは、例えば以下の動画なぞを聞いて、しっかり ♪それはっ、いいことだろ~♪ をまず感じてみてちょうだいな。
洗濯機、掃除機、冷蔵庫。あるいはトラクター……、みんな素敵ですよね
85歳の母に聞いてみたところ。彼女は1963(昭和38)年に23歳で結婚したらしいのですけれど、その際には「最初っから、洗濯機も冷蔵庫もあった、洗濯機は2槽式ね」だったそうです。といっても、母は結婚までは自宅から通学・通勤で、「結婚前に自分の服を自分で洗っていた記憶は特にない」とのことですから、私の祖母が母の服を洗っていたのでしょう。「私が結婚するときは、すでに実家には洗濯機はあった」そうですけれど、「戦争中、戦後しばらくは、おばあちゃん(私の祖母、母の母)がタライに水入れて洗濯物を洗っていた」ということです。母は5人兄妹でしたから、祖母の洗濯の手間はかなりのものだっただろうと想像します。一艘式で、洗濯機の側面にローラー式の水絞りがついている洗濯機の記憶が母にはあるそうですから、おそらくそれが最初に祖母が購入した洗濯機だったのでしょう。タライから洗濯機に代わったことで、さてどれぐらい祖母の家事労働は短縮されたのだろうか?
たとえばカンボジアの私の義理の両親(サンワーのご両親)の家には、10年ちょっと前までは洗濯機がありませんでした。実は私が結婚前にサンワーに洗濯機をプレゼントしたのです。そして、サンワーの姉妹、姪っ子たちがその洗濯機を使い始めたのですけれど、義母は自分の着る服はあえて手洗いしたりしていたそうです。洗濯機は服が傷むような気がしたらしい。
それでも、だんだんに洗濯機利用の頻度は増えているようです。歳をとれば、楽なほうがいいもんなぁ。
今、プノンペンで同居している姪っ子夫婦に部屋の掃除をお願いしています。その際に、姪っ子は掃除機を使わない。あるのですよ、掃除機は。けれども姪っ子にいわせると「掃除機はガーガーいってうるさい」ということらしい。それほど大きな音ではないと私は思うのですけれど、彼女は今でも箒で床をはいています。その後に、姪っ子の旦那殿がモップがけをしてくれます。
冷蔵庫、これもサンワーのご家族にとっては「なければないで済む」みたいなところが感じられます。彼女/彼らは、食べ残した白米やおかずは、そのまま蠅よけのカバーをかけておいておくのが通常。はたからみていて、すぐに傷んで悪くなって食中毒でもおこしそうなんですけれど、じゃ、彼女/彼らが腹の痛みを訴えることがあるかと思い出しても、特に思い出せない。おかずは食べてみて「あ、これはダメだ」となればあっさり捨ててしまいますし、白米は食事毎にご飯を炊いて(今は炊飯器で炊いています)、炊きあがるとすぐに残っていた白米もその炊飯器に入れるという技を使っています(だから電子レンジで白米を温めるということも、無い)。食するときは、炊き立てのご飯と、残っていたご飯が混ざってしまうわけで、でもそれで特に飯がまずくなるってことでもない。なるほど。
生鮮食料品も、一日一回、あるいは食事毎に近所の路上マーケットで購入すれば冷蔵庫は特に無くても困らないということになります。それでも冷蔵庫は都市にはどの家にもあって、冷たい水(水道水を沸かしたもの)が必ず入っていたりするわけです。冷蔵庫に何を入れるかは、各家庭の文化という感じもありますよね。
とにかく、冷蔵庫があれば、毎日マーケットに出かける必要もない。洗濯機も、例えば私のプノンペン宅では一艘式自動洗濯機が活躍しています。もちろん、脱水も自動。乾燥機は、まだあまり需要がないようです。サンワー曰く「干したほうが、気持ちがいい」。ま、気持ちはわかるけど、服を干す手間ってのがあって、乾燥機があれば、あとは畳むだけですから。かように電化製品が家庭に入ることで、家事の手間は大きく短縮されてきたのがここ数十年の世界中で起こっていることだと思われます。家事を担う方々(そのほとんどが女性?)にとっては、家事労働の短縮は願ったりかなったり、であるはず。
農業にとってはトラクターってのは革命的であったわけです。稲作であれば、耕運機、田植え機、さらには刈り取り機、脱穀機……、つい最近までは人力、あるいは牛などの家畜の力を使っていたことが、すべからく機械化が進んでいます。農業労働の集約化のおかげで、日本ならば兼業農家がどんどん増えたわけですよね。なんて書けば、機械化が進むことで農家は借金漬けにされている、なんて反論が出てくるかもしれません。それはそれで問題ではあります。けれどもやっぱり手作業をやっていた時代と比べれば、機械化が進んだほうが楽ちんでいいじゃない??
楽ちん問題以前に、たとえば世界の大穀倉地の農業は、もはや大型機械の活用なしには成り立たない。そして、大型機械の活用によって農業の生産力が大幅にアップし、増え続ける世界人口の食料供給が可能になっている。ここもこう書けば、世界の農業を数少ない欧米の大企業が牛耳っていて、F1作物(収穫時に種をとって翌年植えても、良い収穫にはつながらず、つまり農家は毎年種を買わねばいけないことになります)やら、遺伝子操作やら、農薬やら化学肥料やら、好き勝手にやっている、なんて反論がやっぱり出てくるかもしてない。それはそれで問題ではあるけれど、でも大型機械化による大量生産がなければ、世界人口80億に食わせていけないのも実際のところだと私は感じているのです。もはや、人力の人海戦術には戻れない。また戻るのが良いとも思えない。
ベーシックインカム、それは最低生活保障ではないはず
かように、生活の中に機械が入ってきたことで、私たちの暮らしは楽ちんになってきたわけです。
で、AIです。
私はAIがどんどん生活に入ってくるのは、♪それはっ、いいことだろ~♪ と思っているのです。
たとえば、介護。母は「私はAIに介護してもらうのは嫌だ、ぞっとする」と言っていますけれど、へぇ、どうして? 私はAI介護、ぜんぜんOKです。もちろん、それが身体的に苦痛がないという前提ですけれど。私もこれからますます老化がすすみ、今自分の力で支えていることも、やがては出来なくなる。そのときに、やはり歳を取っていくサンワー(私のパートナー、小柄、非力)に手伝ってもらうよりも、AI介護マシンに助けてもらうほうが良いと思うのです。サンワーもそっちのほうが楽なはず。
AIは生活空間だけではなく、職場空間にもどんどん入り込んでくる。これまで人力でやっていたことが、どんどんAIにとって代わられる。基本、♪それはっ、いいことだろ~♪ だと私は思う。そして、その分、私たち人間は、どんどん楽ちんになる、あるいは、自分本来の時間活用が可能になる、はず。
仕事にしても、生活にしても、ようはどう時間を使うかということです。AIが進歩することで、好きなような使える時間が増えるのが、悪いはずはない!
けれども、問題は収入です。私/あなたがやっていた仕事をAIが代わりにやってくれるようになる。となると、私/あなたは失業? それは非常に困る。一方で、企業はそれは非常に嬉しい(ですよね?) たとえば企業は私に20万円月給を払っていた。それがAIになることで、経費削減になるはずですよね。ならないのなら、AI導入なんかする必要、多分ないわけで。
AIにかかる経費としては、導入費(設備投資費)、改良費、メンテナンス費、等々が考えられます。人に給与を払っていたときにくらべて、厚生年金費も、健康保険費も、労災積立金、失業保険積立、といった経費はまったく必要なくなるはず。つまり、企業はますます儲ける。それを横目に、AIに仕事を奪われた失業者がどんどんでてくる。
それではやっぱり困るわけです。AI導入で、それまで人間がやっていた労力を肩代わりしてもらうとして、そのAIの生産力で生まれた価値を、それまでそこにいた人間に分配してくれないとAI導入のうまみは労働者にはない、ってことになる。どうやってその分配の仕組みを作るか。
それが政治なのだろうと思うのです。AI導入によって生まれる価値を、資本家だけが受け取るでは、そりゃ殺生というものですよ。そして、儲けた資本家が恣意的に分配するでは、どうしたって濃淡が出過ぎてしまうだろう。そこはある程度の公平性が必要でしょう。
だから、公的なところが回収して、再配分することにしてもらう。いわゆるベーシックインカム制度です。さて、このベーシックインカムはおいくら万円ぐらいが適当なのか?
生活保障では「最低限の生活」を保障するわけです。だから、最近まで(今でもか?)エアコン設置は贅沢すぎるとか、車購入も贅沢すぎる、ディズニーランドに遊びに行くのもダメ、ってことになる。
けれども、ベーシックインカムはけして「最低限の生活」を保障するってものではありません。過ってタライに水はって、あるいは川に出かけてごしごし洗っていた服を、洗濯機がやってくれる。その結果、家事労働の負荷が減った人たちはどうしたか? 美しいストーリーであれば、彼/彼女らは、お友だちと近所のお洒落レストランでランチセットを楽しんだり、あるいは空いた時間に通信教育で興味ある分野の資格を取ったりするわけです。あるいは、空いた時間、ダラーっと横になってテレビ見たとしても、それはそれでいいじゃんねぇ。
ですから、AIに仕事を代わってもらった私/あなたは、これまでよりもより一層、自分のやりたいことをやれる、ってふうにならなくちゃいけない。単に、衣食が足りているだけでは不充分なのです。その不充分を補えるぐらいのものがベーシックインカムでは保証されることが望ましい。その使い方は人それぞれでいい。美味しいワインに費やすのもあり、自分の好きなスポーツに費やすのもあり、海外旅行もOK。スポーツカー、欲しかったら買ってもいいのよ。
でも、そりゃ限りもある。毎月百万円も費やして旅行に美食にエステに読書に、ってのをすべての人に保証するのは無理(だろう)。住処だって、そりゃキリからピンまである。すべての市民に、同じレベルの生活を提供できるってところまでは、そりゃAIが発達したって難しい(だろう)。そのあたりの調整は、喧々諤々、なかなか落としどころが決まらない。でも、だから政治でしょう? そして、投票でしょう? そして、優秀な官僚の皆さまでしょう? 選択し、期待するしかないわけです、私もあなたも。
でもはっきりしているのは、AI導入で私/あなた(たち)の人生は、より楽しく、楽ちんになるっていうベクトルで進んでもらいたいってこと。AI導入で失業者わんさかでは、困る。AI導入が、(それほどやりたいわけでもない)労働から私/あなた(たち)を解放してくれるってなってくれないと、♪それはっ、いいことだろ~♪ と無責任に歌っていられないことになっちゃう。
自分の時間を生きる覚悟
「仕事をしなくてもいいってのが、本当に良いのかねぇ」と母はおっしゃいます。生き甲斐、みたいなことも、母は口にします。仕事から解放されたら、生きている価値・意味までが奪われてしまうかのようなことを彼女は感じているのです。
けれども、仕事、してもいいんですよ。そこはつまり、やりたい仕事をできるようになるってこと。要は、どう時間を過ごすか、に尽きると思います。そして、その時間の過ごしかたが、なぜ収入と直結する必要があるのか、と問いたいです。その仕事をしようとしまいと、収入は確保されているのって、いいんじゃないかなぁ。どうですか? あなたの生産性は問われない。それはAIが肩代わりするのです。わたしたちの日々は、生産性からも解放される。
そりゃ、これまで「生産性の高いのが良いこと」と骨の髄まで教え込まれてきたわけですから、そうそうその生産性の呪縛からは自由になれないだろうとは想像します。それでも、(人類は)次のステージに進むしかない。それが広くAI導入が進むってことなんじゃないかしら。
AI導入が進まないお仕事をされている人たちはどうするのだ?という問題もあります。AI導入が比較的簡単に進む仕事に就いていた人たちは、仕事をしなくてもベーシックインカムが支給され、AI導入が進みにくい仕事に就いている人たちは、それを横目に身を削って収入につながる仕事をしなくてはいけないとしたら、そりゃ不公平感はありますよ。
そこは「代わりの効かない仕事」をしてくれている人たちは、より多くの収入を得るってのもありだろうと思います。
ドーアという学者さんは、人にとって必要不可欠の単純作業仕事(たとえばゴミ回収)により高い収入を保証し、やりがいや達成感の高い仕事ほど(そこに高い自己達成感が得られる分)低い収入で良いのでは、と考えました。そして、そんな価値観こそが、いわゆる学歴社会を突破する鍵だと書いたのです(『学歴社会 新しい文明病』 ロナルド・P・ドーア著 松居弘道訳 岩波モダンクラシックス 2008)。そして、私の知る限り、彼の提案は、無視無視無視!!ですよね、我らが社会では。
AIが広く導入された社会では、ドーアによる提言なんかも改めて再検討されるなんてこともあるかもしれないなぁと考えると、ちょっと楽しい気分です。
とにかく、検討されなければいけない様々な状況が思い浮かびます。配分されたベーシックインカムをギャンブル等で使ってしまい生活が成り立たなくなってしまうケースなどどうするのか? おそらくそのような人を対象にしたカウンセリングなどの仕事が新たに必要になっていくでしょう。そのカウンセラーはAI? ヒト? 現実的にはヒトであるカウンセラーがAIの力を借りながら対処するってことになるんじゃないかしら。
海外からの移住者はどうなるのか?彼らはベーシックインカムを受け取れるのか? 彼らがその社会の生活を成り立たせるために必須の存在であるとすれば、そして同じような仕事をする日本国籍者がベーシックインカムを受け取れるのであれば、そりゃ支払う方向で検討するのが人の道ってもんじゃないですかね。
ベーシックインカム問題は、実は一国だけで対応しきれない要素もあるように思うのですよね。AI導入で得をしている資本家が、税金?を支払うのを回避するために会社や住居を海外に移すようなケースへの対応も考えなくちゃいけない。あるいは、AI導入で潤っている国家があるとしたら、AIがもたらすその利益をその国家社会だけで分配享受するのか? AI導入がなければもしかすれば、他国へも利潤が分配されていたかもしれないとしたら、そりゃやっぱりAI利益の独り占めはダメだろうと思うのです。AI利潤は、世界中に裨益効果をもたらすものであって欲しい。ベーシックインカムという方法以外にも、食料が今よりも値段が下げることができるなんてことがあれば、貧しい国家にも裨益は広がっていくのではないか?
とにかくAIで潤っている国家社会は、AIの恩恵を受けきれない貧しい国家社会への支援が義務付けられるなんて措置が求められるのだと思います。
そして、当然のことですが、AI導入が広く行われる社会では、学校教育も大きく変わらなければいけないはずです。それは教育手法・教材の中にAIの活用が進むという意味にとどまりません。教育の内容そのものの見直しが必要なはずです。それこそベーシックインカムによる生計のマネージメントの練習も必要でしょうし、これまでの生産性重視の価値観を下地とした競争教育はあんまり人生の役にたたないのだろうと思えるのです。これまでよりも楽することにもっと高い価値を置きたいわけですが、それは楽して儲けるとは違うはず。儲ける、とは違う価値、それはおそらく貨幣経済へのクエスチョンをもたらすものになる可能性があるんじゃないかしら。
心の奥底では、けっこうニューワールドに対しての不安はたっぷりあるわけですけれど、でもそこはなんとか楽観的に乗り越えていけるといいなぁと思うわけです。大事なことは、衣食住(追記 衣食住にプラスαが欲しい) の心配を今ほどしなくていい人が今よりもずっと増えること。安心して生きることができる安全な社会に、AI普及がつながるということ。
単純すぎる理屈かもしれませんが、洗濯機が導入されたことで生まれた余暇時間が人類の幸せに貢献したように、AIの導入で人々が収入のための労働から解放されるのが理想です。そのための仕組み、作っていきましょうよ。
そして、自分の時間を生きる、その覚悟も必要だろうなぁと思うのです。「暇で、暇で、つまんない」ということになっては、まったくもって面白くないじゃないですか。どうです、覚悟、ある? もしあなたが「覚悟あるよ」とおっしゃっているのであれば、多分きっと ♪それはっ、いいことだろ~♪


















恥かしいことですがAIっていうもの、AIの概念のイメージが未だに理解できない。AIの導入で人間が(収入のための)労働から解放されるそこまでの風景が先ずイメージ出来ない。
一方で仲間との話題の中ではAIに依る具体的な恩恵(そんなこと、本当かよ?と思われる生活の断面)が語られて焦っている。AIはそこまで来ているらしい。
だからこの論文の筆者が提供するようなテーマを自分こととして、現実の問題として考えなければならない時空だろうとは思うのだが・・・。新しい自分の時間を生きる覚悟を迫られているにもかかわらずその時空を理解できない者はどうすればいいのかよ。またも寄せて来る新しい時の流れのままに無自覚に流されて生きるしかないのだろうか。生き続けられればまだ救われるが。
匿名様 はい、書かれていること、よくわかります。
私がこれを書く際に頭の中に描いたイメージ。
たとえば、工場でこれまで人がやっていた仕事がどんどんAIでコントロールされる機械に代わっていく。あるいは、パソコン関連の仕事の多くは、今後ますますAIがやってしまえると言われています。例えば映像関連の仕事。これまでパソコン相手で手仕事・手入力でやられていた仕事をしていた人が、AIにどんどん取って変わられる。今後、運転や配送関係でも、AIが参入していく匂いがします。これまで100人でやっていた仕事が、AIを管理する数人がいればできるようになっていく。
このような仕事がかなりあって、そしてAIが私たちに代わって生産してくれる、価値を生み、その企業の収入となる。けれども、それまで給与として支払う支出を(人間労働者が減るので)企業は支払う必要がなくなる。
洗濯機であれば、家事労働者に直に便益が生まれた。じゃ、AIは?AIがやってくれる仕事をそれまでやっていた労働者にどう便益が生まれるのか? けれども、企業だけが儲かって、労働者は失業? それじゃ困る。
まず、それがイメージされていて、書き始めたのでした。
私たちの身の回りでは、具体的にはすぐに思いつかない、というのはもっともなご指摘です。さて、どんなことが考えられるでしょうか? 介護あたりは、今後AIが活躍できる(その管理や、実際に機械を使っての労力や)ように想像しています。
でも、日々の暮らしには実はすぐに反映されることってないのかもしれませんね。日々の暮らしを見えないところで支えるさまざまなインフラで、私たちがよく知らない所でどんどんAI化が進んでいるってことなのかなぁ。例えば、いわゆる人工知能の実用化が進んでいて、インターネットをやっていると「人工知能を単に百科事典代わりに使っているだけではもったいない。もっと活用できる。そのための研修プログラムはこちら。初心者でもすぐつかいこなせる」なんて広告が流れてくるのです。実際に私、少し前にちらっと無料のAI活用セミナーに参加してみたのですけれど、今の私にはそれほど活かしたくなる内容は特になかったのです。多少時間はかかっても、今自分でやれている方法で不便は感じてないと。そんなに忙しくしなくてもいいなぁ、と思ったのでした。そんなわけで、私、人工知能はほとんど使っていないのです。旧態依然。ま、そんな感じの人、実は多いだろうと想像してます。流される、それもまたよろし。
ムラヤマ