ピースセルプロジェクト(以下PCP)というNPOがイラクで活動しています。そのPCPのインターンをしている若い人たちから、先日インタビューを受けました。彼らはイラクの活動現場から、私は滞在しているプノンぺンから、それぞれインターネットを繋いでお話ししたのです。
そのインタビュー記事を、先日PCPがそのホームページで公開してくれました。以下の青字下線付きの部分をクリックすると、そのインタビュー記事に飛ぶことができます。ぜひ飛んでみてくださいませ。
https://www.peacecellproject.org/post/murayama
あと、PCPについての詳細は以下の青字下線の部分から、PCPホームページ表紙に飛ぶことができますので、そちらを探ってみてください。
インタビューの背景
PCPでは継続的な寄付支援をしている人を“細胞さん”と呼んでいます。そして、私もごくごく少額ですけれど、私の銀行口座から毎月PCP当てに振り込みがされるようにしているのです。つまり私も細胞さんです。それで、今回はたまたま私にインタビューのお役が回ってきたというわけです。
PCPのリーダー的存在が、高遠菜穂子さんです。2004年にイラクで支援活動中に武装勢力に誘拐された3名の若者のお一人です。彼らが人質となったこの事件は当時の日本社会で大きく報道され、一部政治家が発言した自己責任という嫌な言葉が独り歩きしたことを覚えている方が多いと想像します。
このときの日本国政府の首相は小泉純一郎でした。彼は武装勢力が要求するイラクへ派遣された自衛隊の撤収には、断固として応じない姿勢を崩しませんでした。民間人を人質に取られたからといって、政府が国連平和維持軍(PKO)に派遣した軍隊を撤収してたらキリがない……、そんな風に思う方が多いでしょう。私もそう思うところもある。けれども、この事件と同時期に自国の出稼ぎ労働者が人質となったフィリピン政府(アロヨ大統領のとき)は、PKOに派遣した軍をイラクから撤収し、人質の解放を最優先したのでした。そういう事例もあるということは知っていていい。
自衛隊は撤退しませんでしたけれど、拘束された3名は幸い8日後に無事解放されました。けれども、この事件から約半年後に日本の若い男性旅行者1名がイラクで誘拐される同じような事件が再発し、このときは被害者は殺害されました。
(この事件から約10年後の2013年には、シリアで日本の男性2名がやはり武装組織に誘拐される事件も起こりました。この事件では、武装組織は高額な身代金を請求したとされ、安倍晋三首相を首班とした当時の日本国政府はこれを拒否しました。 その後、この2名も武装組織によって殺害されています)
2004年、私はカンボジアでの教育支援ODAに参加して2年目です。高遠さんたちの事件をプノンペンから追いかけつつ、私は「誘拐された人たちは、一つ間違えば私だ」という思いを強く持ちました。
カンボジアでの仕事の前に働いていたフィリピン南部のミンダナオ島ダバオ市での仕事の際には、誘拐されないために多少は気をつけていたことも実際にあったのです(それでも、プロ集団が私を誘拐しようと画策すれば、それから逃れる術はほとんどなかっただろうとは想像していましたけれど)。私がダバオ市で働いていた2000年ごろ、ミンダナオ島西部ではイスラム勢力とマニラ政府との内戦が続いていました。そのせいもあって、そのとき長期専門家としてミンダナオ島に派遣されていたODA関係者は私だけだったのです(青年海外協力隊員はダバオ市周辺に数名おられました)。ODA派遣の専門家が、反政府勢力に殺害されることは、数多いわけではありませんがこれまでも起こっています。1991年ペルー、日本が支援していた野菜生産技術センターが襲われ、勤務していた3名の専門家が射殺されました。また、2016年、バングラディシュの首都ダッカのレストランを武装した若者たちが襲い、たまたま居合わせた日本やイタリアの支援者ら、民間人20名が殺害されました(日本人は7名が死んでいます)。そういうリスクは、けして高いわけじゃないけれど、ゼロではない。バングラディシュの事例では、殺された方に私の直接の知人はおられませんでしたけれど、私の仕事仲間の知人は数名おられたのでした。そんなこともあるわけで、海外協力支援で喰ってきた私にとって、海外での人質事件は他人事ではないのです。
さらに、高遠さんたちの事件から半年後に誘拐され、殺害された方のニュースも私にはより一層他人ごとに思えませんでした。被害者はまだ学生で、「自分の眼で現場を見てみたい」というような心持でイラクを旅して事件に遭ってしまったようでした。それは素人の不用心と日本社会からは非難の声が上がっていた。はい、確かに不用心でした。
でもさ、彼の気持ち、私は理解できたのです。私は高校3年生の秋(1982年の秋)、手痛い失恋を経験した直後に「大学進学は後回しにして、海外を見てきたい」と両親に主張したことがあったのです。その際に私が行きたいと願った先は、レバノンの首都ベイルートでした。このとき、レバノンは、首都ベイルートにはパレスチナ解放機構(PLO)の本部があり、それをイスラエル軍が攻撃し、さらに隣国シリア軍も関係し云々という状況でした。新聞に写るベイルートの町は戦闘でひどく破壊され、パレスチナ難民のキャンプで大量虐殺が起きる(サブラー・シャティーラ事件)など混乱が続いていました。私が信用する報道写真家の長倉洋海さんは、まだ若き弱冠30歳でこのサブラーシャティーラ事件の現場に居合わせ、生命の危険を感じながらシャッターを押しています。
そんな戦乱のベイルートに行きたいと、若輩18歳の私は思ったのです。バカ、無謀ですよ。もちろん、まだ100%ヒヨッコだった私が、それを実行に移す力があるわけもなく、そのアイデアはあっという間に立ち消えになってしまったのですけれど。でも、「自分の眼で見てみたい」というその殺された若い旅人は、一つ間違えば私でもあったというのは、それほど的外れでもなかったし、己惚れた考えでもなかったろうと今こうして思い返してみても感じるのです。
そして、高遠さんたちへのバッシングは本当にひどいものでした。おそらく当時の若い3名の方々(さらにはご家族や支援者の方々)にとっては四方八方から礫が飛んでくるような状況だったろうと思います。それをカンボジアから眺めていた私は、ただただ彼らの苦しみを想像し、バッシングする側に対してイライラすることしかできなかった。それは本当に申し訳ない気分だったのです。
ですから、高遠さんたちのNPOをわずかばかり応援するというのは、どこか私自身の罪滅ぼしのような気分があった。さらにPCPの活動は彼ら支援者自身の手の届く範囲を丁寧にケアするような風情があって、ODAなどの支援でときどき見られるような大口を叩くようなところがなく私には好印象でもあったのです。
というのが、はい、このインタビューの少々長い背景なのであります。
インタビューの中で語られる「役に立つ」、補足です
インタビューの中で、面白い授業とはどんな授業かと語る私は、「本当に役に立つことだよね。そんなにサプライズじゃなくても、『これ勉強したら役に立つよね』って思えることかな」と語っています。実際のインタビューではかなり長々としゃべったのですけれど、まぁ要約すればこの通りのことを話したのは確かなのです。
でも、こうやって要約されてみると、「役に立つ」という言葉がどうしたって言葉足らずに思え、少々反省もするのです。なぜならば、「役に立つ」というのは、たとえば「便利」「実利」「便宜」というような言葉と親和性が高いように思えるからです。けれども、私が考えているためになる授業とはそういう利便性の高いという意味ではなかった。「役に立つ」をあえて残せば、それは人生を豊かにし、自分や他者の幸せに貢献するのに、「役に立つ」こと。深く考える(それは哲学とも呼べるでしょう)技術を高めることに「役に立つ」こと。
もちろん、技術としてのあれこれ、読み書き計算とか、衣食住に役立つ技術・情報とか、さらには教養として知識も含めた「役に立つ」こと。そういう意味・意図で使った「役に立つ」であることを、ここで補足しておきます。
さらに蛇足ながら書き足せば、「やっぱり『わあ』とか『えー』とかね。 サプライズとか発見、 反応がある授業」というのは、おそらくそこで学ぶ知識はそれほど重要ではないのかもしれません。知識以上に大事なのは、「知らなかったことを知る、その驚きと喜びの体験」なんだろうと思うのです。自分の知らないことがたくさんあるということを実感する。世界の広さに慄き憧れる。そんな機会を提供するのが、良い授業、なのではないか? それで言えば、先生中心はダメとかいうのも、少々どうなのかな、って思うこともあります。自分の知らないことを上手に語る大人と接する、それだって十分に良い授業になり得るんじゃないかな。生徒だけで意見交換しても、ブレイクスルーしないってことは十分に想像できるじゃない? たまたま昨夜読んだ『新装 教えるということ』(大村はま著 ちくま学芸文庫 1996)、やっぱり改めて教えるって簡単じゃないなぁと思った。この本に書いてあることを、そのままカンボジア語に訳してこちらの先生方に伝えても、おそらく大村さんの真意はほとんど伝わらない。なかなか一筋縄にはいかないですわ。

私たちは、今回のブログで書いたような意味での「役に立つ」ことを(あるいは「大事な」ことを)、自分たちの若いころどこでどうやって学んだのだろうと、ふと考えます。それは学校だったのか? それとも学校以外の機会、たとえば友人との語らいや、読書や、映画や、両親の生き様や、エトセトラエトセトラだったのか? つまりさ、結局は総合的に学んだ、人生を賭して(大げさか?)学んだ、ってことだったんだろうとも思います。そして、そんな学びは年齢を経て人生の終幕に近づいた今も続いている。残り時間が少なくなればなるほど、募るように増える「学び」への欲求があると書いたら、きれいごと過ぎるかしら? でも、そうなんだよなぁ。


















面白い授業って、おどろき(感動)をもって真理の発見の場に立つことを体験させられる授業だろうか。
教育って、人間を発酵食品に例えれば醸成の過程で介在する麹のような役割かなあ。駄目な教育は発酵すら促せないまま終わる麹、豊かな教育とは上手いこと材とすりあって個性ある風味絶佳な発酵食品にならしめる麹。
何十年間も教育の現場に生きて、教育の意味が分からないままに終わってしまった。今、人生の極終末期に在ってさえ時折貧困な教育現場に放り出されて苦悶している夢をみる。多分、今夜は寝られない。