「健常者が頑張っているんだから、障害者の自分もガンバル」って障害者世界の人は思わない。なぜなのだろう
「(障害のある村山の頑張りを知ると)健常者でまだ若者の私が頑張らないわけにはいかない」と言ってくれた人がいます。はい、ぜひぜひ一緒に頑張りましょう!という気分です。
一方で、「ピコん!」と私の心にほんの小さな音量でアラームが響いたのです。こういう「ピコん!」は大事にしたほうがいい予感がある。そこで、そのアラームの理由をじっくりと考えてみました。
「健常者が頑張っているんだから、障害者の自分もガンバル」って障害者世界の人は思わないよなぁと振り返るのです。だけれど、「障害者が頑張る⇒だから健常者の自分もガンバル」は多発しがち。なぜなのだろう?
私、50歳まで健常者世界の住民でした。そして思い出すのです。あのとき私の側から障害者世界に送るメッセージなど持ち合わせていなかったものなぁって。
そして、私も障害のある人たちの健闘を知って、「俺もガンバロウ!」って思ったりしていたのかもしれません。
なぜ「障害者が頑張っているんだから、俺もガンバル」が問題なのか?
○○が頑張っているんだから、私もガンバろう。さて、○○にはどんなものが入るのでしょうか。
この春、話題となったベースボールクラシック。あれを見て、「大谷選手が頑張っているんだから、私も頑張ろう」「サムライジャパンに勇気づけられた」、そういう思いを持った人もいるのだろうと想像します。
なるほど、○○に入るのは大谷選手。この場合、自分よりも力のない大谷選手ですら頑張っているんだから、と思える人はまずいないだろう。大谷はすごいのだ。それにあやかりたい、という思いもちょっとあるのかしら。事案1。
1歳になる子どもが、一生懸命つかまり立ちをして、そして歩き出す。「幼子が頑張っているんだから、私も頑張ろう」これもあるだろう。
○○に入るのは、幼子。この場合は、その子どもを支えるために、自分は頑張らなければならない、という思いも強いかもしれない。事案2。
紛争地で、それでも懸命に勉強する若者がいる。わずかな可能性にかけて、安全地に逃避しようとする人たちがいる。あんな彼らと比較して、自分はとっても恵まれた環境にいる。安心して学校に行き、そのありがたみもよくわかっていなかった。あぁ、自分のラッキーさを知り、もっとしっかり生きなくては。
○○に入るのは、自分よりも不幸な環境にいる人たち。それと比較して、安楽をむさぼっている自分を反省する。事案3。
「障害者ががんばっているんだから」は、事案3に親和性が高い。
大谷が大病や大けがをしてしまう。これまでのような活躍を取り戻すのは難しいかもしれない。それでもリハビリテーションに励む大谷を見た場合は、事案1から事案3への転換が起こるだろう。そして、大谷への応援度・共感度は増幅するだろう。
事案2のような思いを感じるのは、一次的には保護者、つまりその幼子の両親だ。愛する存在、守りたい存在が頑張っている。だから、それを保護する者として自分も頑張らねばいけないと思う。
以上、まぁ、どうってこともないことを書いた。
でね。つまりね、「○○が頑張っているんだから、自分も」という思いは、○○が自分よりもランクが低いときに、より成立するように思うんです。例外が事案1なんだけれど、それはわりと特別なケースではないのか? 昔、お相撲取りが神の使いで、みんなお相撲取りの立派な体躯を叩いて「ご利益」を期待したという。事案1にはちょっとそれと似た匂いがする。
そして、神が自分のレベル、あるいはそれ以下に落下したとき(例えば、もし大谷が怪我をしたら、というようなケースね)、人は落ちた神に共感しやすい。「辛いだろうなぁ。でも頑張っているんだなぁ」と。
後日記す追記*
事案4として(いや、上記の事案1~3以前の事案として)、以下を検討しないのはまずいだろうと思うに至りました。
たとえば、友が頑張っている。俺もガンバロウと思う。クラスメイト、クラブの仲間、あるいは両親や姉妹兄弟、いつも通勤電車で見かけるあの人、同僚や遊び仲間、庭で育つ植物、子育てをするツバメ・・・・・、そんなものに励まされる、ということは人生でごくごく普通のことでしょう。そして、そのほとんどは、そこに上下関係は無関係である。そして、「私もガンバロウ」と思う。それがもっとも普遍的なこれらの事案での在りようである。まずそのことはしっかりと再確認します。上記の事案3での懸念は、その上でもさらに、ということでご理解ください。
人はみな障害者として生まれ、障害者として生を終える
つまり、「障害者が頑張っているんだから、俺も」と思う背景には、障害者がやっぱり自分より低いところにいる。差別か共感かで話題になることのある24時間テレビなんかにも、障害者を憐れむような視線が入り込みやすいよね。
まぁ、いいのよ。生まれてからずーっと健常者世界に生きていて、身近なところに障害者世界が存在しなければ、障害者世界を同情と憐れみの目でみてしまうというのも、仕方がないだろうと思う。そう、私も50歳まで、そうだった。
ただ一つだけ気になるのは、たとえば「俺も頑張らなくちゃ」と思ってくれた健常者のあなたもが、将来障害者になる可能性は低くないよ、ってことなんだよね。その際にね、障害を持ってしまった自分を、健常者であったころの自分と比較して、やっぱり憐れに思うんじゃないかな、ってことが気になるわけです。これ、よくあるケースなんだけれど、やっぱり過大には思ってほしくなかったりするわけ。「障害がある人生なんか、生きている意味がない」なんて思われるのは、障害者としては少々困るわけです。おいおい、障害をそんなに否定しないでよ、って言いたくなるわけで。
障害者になる可能性? みんなかなり高いはずだよ。障害者を「他者の積極的なケアが必要な人」と定義してみましょう。そんなに的外れな定義じゃないと思うんですよ。心身、どこかに自分でできないことがある。だからそこは積極的に他者の介助が必要。それが障害者だとする。
するとね、赤ん坊、幼子、まぁ10歳ぐらいまでは障害者でしょうね。あと、老人も多くが障害者にカテゴライズされる。けして多数にはなりえない「癒えない病気や怪我による障害」をあえて考慮しなくても、すべての人が、障害者として生まれて障害者として人生の後半を生きる。
赤ん坊や幼子を障害者とするのは???って思う人もいるでしょう。彼らの障害は、成長につれてほぼ必ず消えますものね。そういうのは障害とは呼ばないでしょうって。いや、だからそれはさっき「他者のケアが必要な人を障害者と呼ぶ」と定義したのでね。その定義に従えば、人は皆、最初は障害者よ。あくまでも思考実験だから、よろしくね。「障害者と呼ばれたくない」ってのもあるからね。やれやれ、障害者はつらいよ。
だからね、みなさんさん。あなたも障害者になる。あなたでなくとも、あなたのご家族が障害者になるときがくる。そのときに、「レベル下がった」とあんまり思ってほしくなんだなぁ。だから、いまから障害者は健常者よりも下という価値観と向き合ってみたりすることも、あったとしても、まぁいいんじゃないかなぁ。
自分より社会的ランクが下の立場の人のガンバリの方に、「俺もガンバロウ」機能が働きやすいってことなんでしょうね
そもそも、他者が頑張ろうとどうであろうと、それはそれ、それほど自分とは関係はない。他者がどうであろうと、自分は自分として、がんばりたければがんばればいい。力入れたければ、力を入れるだけ。
でも、私たちは、そんなに強くもない。生きるためには、いろんな挿話、物語が必要だったりもする。そんな断片が「○○が頑張っているから、私も」だったりする。その○○が、自分よりも弱いモノだろうとなんだろうと、まぁ、それほど気にすることはない。
でもね、それこそ視点の問題で。弱いモノからすると、特にそれが集団としての少数者だったりして、少々屈辱の歴史も抱えていたりすると、「ピコん」と注意報が鳴ったりする。
「女性なのに頑張っている」とかね。やっぱりカチンとくる女性が増えていて、それはいいことだと思うのよ。「貧乏なのに頑張っている」。貧困に苦しんでいる人からすれば、ほっとけ!って思うんじゃないかな。貧乏だから頑張ってんだよ、って言い返すかしら。「移民のわりにしっかりやっている」。もう完全にアウトじゃないかな。
「障害者が頑張っている」としても、なにも健常者のあなたたちが頑張ることはないじゃない。障害者たちは「健常者が頑張っているんだから、私たち障害者もがんばりましょう」って、思わない。まぁ、特殊な文脈では思うかな。障害者支援団体みたいのがあって、そこで健常者が頑張ってくれている。それを見ていて、まぁ彼らが頑張っているんだから、当事者である自分もロビー活動しっかりやるかな、みたいなケース。これも、わざわざ障害者とか健常者とか持ち出さず、同僚が頑張っているから、で済む話でもある。とにかく、こういう文脈以外は、「健常者が頑張っているんだから、障害者の自分もガンバル」って思うことはまずないですよ。どうしてなんだろうね。やっぱり、障害者は、健常者が自分たちよりも下のランクにいるとは思ってないからでしょう?? むしろ、少々アッパーな存在が健常者だったりする。
自分たち(障害者)は健常者をアッパーだと無意識に思っている。一方で、健常者から低くみられるのは、やっぱり気分がよろしくない。障害者はランクが下だと思わないでね、とやっぱり私は思っている。
そこに「障害者が頑張っているから、健常者の自分もガンバル」に小さなアラームが鳴ってしまう理由があるんだろうな。
「負の部分を抱える誰かが頑張っているから、負の部分を抱えていない自分も頑張らなくちゃ」っていう考え方は、どうなんだろうね、実は「ガンバリズム」の罠のようなものも感じます。パラリンピックの厭らしさみたいなのは、多分ここに根差している。
まぁ、こんなところかな。ふむ、アラームの理由がかなりクリアになって、めでたしめでたし。
付録 健常者は映画館で最前列中央からしか見られない、クラシックコンサートで最後列端っこからしかコンサートを楽しめない そうだとしたらちょい残念だと思うよ
以下、追加というか、付録。
健常者と障害者の「多数者と少数者」としての役割を入れ違えてみる遊び、最近すこしずつ増えているみたいです。たとえば、以下みたいな事例です。
「車いす」多数派 「二足歩行」少数派になったら? 障害生み出す社会を実感 バリアフルレストラン:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
面白いですね。車イス者が圧倒的多数の世界だったら、健常者世界と比較して、天井はずっと低いし(だって無駄に高くする必要ないもんね)、公共の施設に椅子はない。そりゃそうだ。
じゃ、こんな思考実験はどう?
映画館、椅子が設置してあるのはスクリーン直前最前列の真ん中だけ。TOHOシネマズは、多くのシアターがこの逆方式ですね。車いす席は、最前列真ん中のみ。映画、そこそこ大きな画面を最前列でみるなら、真ん中よりせめて端からみるほうがずっと快適だと私は思う。デザインした人、自分で最前列に座って映画をみたことあるのかな。あの不便さは、ぜひ車イス多数者世界に行って、TOHOシネマズ関係者(当然健常者)には体験していただきたい!
あるいは、クラシックコンサートホール。健常者用の椅子がおいてあるのは、最後部の両端のみってのはどう? 東京新宿(初台駅近く)にある、東京オペラシティの素敵なコンサートホールの車イス席は、これです。一階横約30席縦31列、つまり約千席あるなかで、車イス用のスペースは最終31列目の両端各2席分の合計4席のみ。
クラシック、最後列なのは仕方ないとしても、ならば真ん中で聞きたいけどなぁ。最後列端っこのみってのは、なんというのかなぁ、おこぼれをいただいている感、と言ったら卑屈?
こういう思考実験は、どんどんやって欲しいものです。
付録2 付き添いの健常者がいると、なんでも健常者に聞くし話しかける。つまりね、障害者と健常者が一緒にいる場合、その健常者が障害者の保護者だと思うわけですよ。
先日の、成田空港アシアナエアーにチェックインするときのこと。私(車イス者)は連れ(健常者)と一緒にチェックインカウンターに向かいます。連れは荷物を運ぶキャリアーを押しているので、私はもちろん自分で車イスを動かしている。
カウンターでは、連れが、二人分のパスポートを示す。預け荷物のやり取りも、連れがやる。私は黙って後ろに控えています。「お客様、ご自分の車イスは搭乗口まで使われますか?」とカウンタースタッフが連れに聞く。後ろで控えていた私が「はい、お願いします」とちゃんと聞こえるように答える。そのときは私のほうをちゃんと見るスタッフ。でも。「機内では、小さな車イスに乗り換えていただきます」とまたそのスタッフが話し出すのだけれど、視線は連れに戻る。それを聞いて、また私が「はい、お願いします」と答える。スタッフにはちゃんと通じている。「搭乗は他のお客様より先にいたしましょうか、後にいたしましょうか?」、スタッフはまた連れに向かって聞く。おいおい、なんで私に言わんのよ?「先でお願いします」とまた私が答える。この、私が答えるときにはスタッフの視線は連れから私に移るのだけれど、次の質問をするときは視線はどうしても健常者である連れに戻るのです。
あぁ、あるのですよ、こういうこと、わりと頻繁に。駅やデパート、ショッピングモールなどでスタッフに問い合わせをすると、車イスの私が問い合わせているのに、回答は一緒にいる健常者にむかって放たれる。
つまりね、障害者に同行している健常者って、その障害者の「保護者」なんですよ。だから、説明は「保護者」である健常者に向かってなされる。
あれねぇ、健常者の皆さま、知らず知らずやりがちだと思うよ。障害者に対して、とっても失礼です。どうぞ気をつけてくださいませ。


















あはは、最近私は、自分が障害者であると、あまり感じなくなっています。
村山さん同様、私も障害者1級なんですけどね
だって、周りを見回しても、私以上に人生楽しんでる人ってあんまりいないんですよ。
最近思います、日本て、いま、一億総障害者文化なのじゃないかって
満員電車に乗せられてるだけで身体障害者、コロナが終わってもマスクが外せないのも一種の精神疾患、障害者。
年齢✖️10万円の年収が無い方々は経済的障害者。
日本人て、本当は恵まれているのに、不幸を払い除けようとする人が少ないどころか、自ら不幸を求めて不幸がってる人が多いんです。
そして、不幸な人は自分より不幸な人を探して、障害者差別をするんです。
私は村山さん同様、いろんな国の人々と交流があるので、とてもそう感じます。
悲しい国です。