『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第15回 うどん=ウドン説 さらに追跡 ピニャルーにあった日本人町のその後

香りをお届けできないのが残念 この胡椒ミルは2005年にカンボジアでの教育支援プロジェクトが終了した際に戴いたもの。

 前回の連載14回では、カンボジア料理の中での胡椒と、さらに日本の麺類、うどん(饂飩)の名がカンボジアの17世紀の王都ウドンを起源とするという説を紹介しました。(連載14回には、以下から飛べます。)
 そのウドン郊外のトンレサップ川沿いにあった日本人町。そこから伝わった「麺」がうどんと呼ばれ、さらには麺には胡椒という習慣が、日本に伝わったという説。本当に、うどんはウドン起源なのか?さらに深堀りします。そして、カンボジアにあったピニャルー日本人町のその後は? 

 17世紀始め、ピニャルーの日本人町で、食べられていた麺類とは

 朱印船貿易のころにプノンペンにあった日本人町については岩生成一の『南洋日本町の研究』に詳しい。それによればプノンペンに日本人町ができたのは17世紀の初めだった。

 朱印船の渡航貿易が繁くなると共に、便乗日本人中には、同地に居残って活動する者も生じて来た。(中略)一六一八年五月二十日付(元和四年閏三月二十七日)同地在住日本人二名連署して、交渡来の教父に宛てた書信によれば、当時柬埔寨国に日本人吉利支丹七十名あり、彼等の教会堂も既に建立され、他に吉利支丹に改宗せんと欲する日本人未信者が多数いたと記している。[i]

 文中の交はベトナム中部のことで、コウチと読む。ここではベトナム中部フエを指すようだ。さらに文中の柬埔寨は漢語でのカンボジアだ。岩生が書くように、プノンペンに現れた日本人町の住民の多くがキリスト教徒だった。17世紀初めにカンボジアの当時の王がマラッカのフランシスコは修道院に手紙を送り、日本からのキリスト教徒とポルトガルからのキリスト教徒との間で争いがあり、それを調停してほしい旨希望したという記録も残っている[ii]。これらの移住者の中には、江戸幕府によるキリスト教徒弾圧を逃れて越境した信者も多く、日本人町の人口はその後も増えていった。岩生は1665年に書かれたオランダ東インド会社の書簡を基にして次のようにも書いている。

即ち日本人は首府ウドンの南東ピニャールにおいて、河岸に沿いて日本町を建設し、貿易に従事してその生計を維持し、その戸数は七、八十軒に上がっていったから、かりに一家の単位を三人と見ても、同地の日本人町には、当時優に二百数十人の同胞が遺留していたに違いない。[iii]

 ウドンから「うどん」と「麺類に胡椒」という習慣が伝わったとすれば、この17世紀前半から中頃のことだと考えられる。

 しかし、先に挙げたように、16世紀前半には日本でうどんに類する麺に胡椒を入れていた。うどんに胡椒を入れる習慣は、けしてカンボジアから伝わったわけではないことになる。

 さらに、カンボジアの隣国タイに麺が伝わったのは、二百年ほど前、18世紀に入ってからのことのようだ。講談社学術文庫『世界の食べもの 食の文化地理』の中で、石毛直道は次のように書いている。

 中国を起源地とするアジアの麺は伝統的に中国文明の影響をうけた。朝鮮半島、日本、モンゴル、ヴィエトナムなどに伝播した。そして、近世になると、華僑の進出とともに東南アジア諸国にも麺食が伝わった、たとえばタイ人はよく麺類を食べるが、それはこの二百年のあいだにひろまった風習である。米の生産地であるがコムギはできないタイでは、麺は普通、米を原料としている。[iv]

 タイでは、アユタヤ王朝がビルマに滅ぼされ、潮州系華人であるタクシ-ン王が新たなタイ王朝を1769年、つまり18世紀後半に入ったころ、に今のバンコク近郊のトンブリーに開き、その頃からタイに潮州系華人が多く流入した。現在のタイ地域で麺食が始まったのは、この潮州系華人の移入後のことだった。辻原康夫による『世界地図から食の歴史を読む方法』の中にも「東南アジアにおける麺食の風習は、過去二〇〇年余り前に進出した華僑の歴史に伴ったものである」[v]とあり、この「華僑」が潮州系華人だった。そして、それはカンボジアに朱印船が往来していた時期よりも後のことだ。

 もう一方の隣国ベトナムでも麺類は多い。一番有名なのはフォーというやはり米粉で作った麺だろう。そもそもベトナムは古くから中国の影響を強く受けてきた。ベトナムというのは、もともとは現在のハノイあたりに起こった国で、中国から強い干渉を受けながらも徐々に南に進出し、現在のベトナム中部にあったチャンパ王国を滅ぼす。そしてメコンデルタまで勢力を伸ばしすが、それも17世紀後半のことだ。現在のカンボジアではベトナムの影響を受けた料理は多いけれど、それらはベトナムがメコンデルタに進出した17世紀後半以降に伝わったと考えられる。

 タイに麺が広がったのは18世紀以降、ベトナム料理の影響がカンボジアに伝わったのも17世紀後半以降であることから――カンボジアの当時の食事や料理の資料はまったくないため断定はできないけれど――日本人町が存在した17世紀初めから中頃にかけてカンボジアのウドンで麺類が食べられていた可能性は高くないように思える。むしろ、日本人町ができたことで、日本からもちこんだ麺類を食べる習慣がカンボジアに持ち込まれた可能性のほうが、あるかもしれない。

 ウドンで食べられている麺と似ているという理由で日本の麺がうどんと呼ばれたというのは、どうも無理がある。平野が書いた、うどんという呼び名はカンボジアの古都ウドンから、という説は、間違った俗説だったと、私は考えている。

「伝統的なカンボジア料理では、箸は使いません」

 蛇足になるけれど、私がフランスの首都パリでカンボジア料理店に行ったときのことをご紹介する。

 フランスに移民した友人を訪ねたのは2011年ごろのことだったか。彼女はフランス人(カンボジア系ではない)とお見合い結婚し、フランスに移住した。けれど、義理の母との折り合いが悪く、結局離婚。私がパリで再会したときには、フランス政府が提供する移民プログラムで職業訓練を受けながら、けして経済的には豊かでない暮らしをしていた。
 じゃ、カンボジア料理をご馳走するよ、ということになり、彼女とちょっとおしゃれなカンボジア料理を看板にかかげるレストランに行った。アモックという魚を使う煮込み料理にサーモン(鮭)が使われていたりして、そこでのカンボジア料理はやはりどこか西洋風ではあった。
 いくつかの皿を注文して、さて、そこで私は店員(カンボジア系)に、箸も出してくれるように頼んだ。しかし、その店では箸を置いていないという。

「伝統的なカンボジア料理では、箸は使いません」と、その店員は言うのだ。そのときは、ふーん、そんなもんかなぁと思ったけれど、今回、カンボジアと麺類の歴史を調べてみて、たしかにそうなのかもしれない、とパリの店のことを思い出した。
 現在のカンボジアでは、クウィティウやノンパンチョップという名で呼ばれる何種類もの麺類が親しまれ、それらを食すときには箸を使う。
 伝統的なカンボジア料理では箸を使っていなかったとすれば、麺類と箸とがカンボジアに入ってきたのは、それほど古いことではないのかもしれない。

ピニャルー日本人町のその後

 日本人町があったピニャルーは、カンボジアにおける布教の重要地としてキリスト教徒には今でも語り継がれている。2006年12月3日に、カンボジア宣教450周年を祝う祝典がカンボジアの町コンポントムで開かれた。ローマ教皇(教皇ベネディクト16世)からもメッセージが届けられる本格的なセレモニーだったようだ。日本のミッショナリーのホームページから、その祝典を報告する記事の抜粋を紹介する。

 日本にフランシスコ・ザビエルが来てキリスト教を伝えたのが1549年。その後信者はどんどん増え、1580年には20万人の日本人信徒がいたという記録があるようです。驚くべき数字ですが、この信者数の増加を見て、豊臣秀吉はキリスト教が権力を持つのをおそれ、バテレン追放令(1587年)を出します。それ以来ずっと、キリスト教は迫害を受け続け、1597年に長崎での26聖人の殉教があり、その後徳川の江戸幕府も禁教令(1612年)を出し、迫害はひどくなっていきました。1614年から1638年の間に、数万人の信徒が殉教を遂げたと言われています。
 そんな背景を受けて、日本人の信徒の一団が迫害を逃れ、今のポンニアルーといわれる場所に住み着きました。このポンニアルーには、以前からポルトガル人やスペイン人のキリスト教徒も住んでおり、後に400人のインドネシア人の信徒も加わり、カトリック共同体の村となりました。インドネシア人も、国内でのプロテスタントからの迫害から逃れるために、カンボジアへとやってきたのでした(1650年)。このポンニアルーの地域に住む外国人信徒達が、消えてしまったカンボジアのキリスト教に再び火をともすことになりました。
[vi]

文中のポンニアルーは、ピニャルーのことだ。

「消えてしまったカンボジアのキリスト教に再び火をともすことになった」というのは、それまで宣教師が何人もカンボジアで布教活動を行っていたけれど、そのどれもが不成功に終わったことを指している。そして、ピニャルーに移住してきた日本を含む海外からのキリスト教徒が、カンボジアでのキリスト教布教の源泉となった。

 胡椒から離れてしまうけれど、カンボジアに越境した人たちのその後を少し書いておく。

 カンボジアから物産を運んだ最期の朱印船についてはオランダ東インド会社の記録に残っているそうだ。その船は、1635年に日本を発ち、1年ものあいだカンボジアに停泊し鹿革、鮫皮、漆、カンボジア胡桃などを集め[vii]、1636年5月に日本に向かって出帆している。その船が長崎に帰港したことは、平戸のオランダ商館の同年7月27日の日記にも記録されている[viii]

 最期の朱印船が去ってから200年以上たった1852年、カンボジアに滞在していたフランス人神父ブイユヴォーは、その著書の中で、「日本人街があったピニャルー近辺に住んでいるキリスト教徒の中に日本人の子孫と自称している家々がある」という史料に言及している[ix]。その情報を基に、日本の学術調査団が1957年にピニャルーの集落を訪ね、なんらかの遺跡や日本に由来する名前を持つ住民、あるいは日本人子孫の伝聞が残っていないかを調べた。この調査団はピニャルーの納税者名簿を調べて、日本に由来する名前がないかどうかまで丁寧に調べている。しかし、なんの痕跡も見つけられなかったという[x]

 おそらく、日本人たちはカンボジア社会の中に溶けこんで、日本人町はやがて消滅し「祖先が日本から来た」という伝聞も消え去ってしまったに違いない。

 ピニャルーの集落は、今でもプノンペンから北西に向かう国道5号線沿いにある。プノンペンから行けば、右手はトンレサップ湖とメコン河をつなぐサップ川がゆうゆうと流れ、左手はサップ川増水時の氾濫原が広がり、左手前方には王の墓が祭られているウドンの丘が見えてくる。そしてサップ川と国道の狭い空間に、ところどころ集落が続く。日本人町があったときから400年がたった今も、サップ川の流れには大きな違いはないはずだ。この川を最後の朱印船が出帆した五月、雨季で増水したメコン河の水は、トンレサップ湖に向かってゆっくり流れ、朱印船は流れに逆らってメコン河にむかって進んだはずだ。日本から逃れてきたキリスト教徒たちの多くが、川岸からその船を見送ったに違いない。彼らは、その朱印船を、最後のものと認識していただろうか。
 彼等にとって越境とは、戻ることのできない片道のみのものだった。今の世界にも似たような越境はまだ多くある私が気楽に語る越境と違い、その越境の意味は重たい。


[i] 87~88ページ 岩生成一/著『南洋日本町の研究』 岩波書店 1978

[ii] 82ページ 東南アジア稲作民族文化綜合調査団編『メコン紀行 民族の源流を訪ねて』 読売新聞社 1959)

[iii] 九七ページ 岩生成一/著1978 前掲著 

[iv] 232~233ページ 石毛直道/著『世界の食べもの 食の文化地理』講談社学術文庫 2013

[v] 16ページ 辻原康夫/著『世界地図から食の歴史を読む方法』 河出書房新社 2002

[vi] JAPAN LEY MISSIONARY MOVEMENTのページよりJLMM HOT NEWS 2006年12月22日付
カンボジア宣教450周年記念式典
http://www.jlmm.net/hot_news/2006/12/20061222.html

[vii] 鹿革や鮫皮は日本では鎧・兜・刀・矢筒の紐・飾り・クッション、小物用袋(煙草、巾着、鼻緒など)、蹴鞠、革足袋、手甲、革羽織、火事装束・半天にと、とても多くの需要があった。胡桃(クルミ)は西アジアが原産で、熱帯でも産する。

[viii] インターネット上の個人のHP『カンボジア 個人的な資料 編』2013年10月記事  「カンボジアと日本~中世の朱印船貿易を通じた交流~4章 カンボジアへの渡航理由4ー1最後の朱印船とその貿易利益」の項にある記述より
http://cambodia-memo.blogspot.com/2013/

[ix] Bouillevaux. C.E. L’Annan et la Cambodge. Voyages et notices historiques. Paris. Vivtor Palme, 1987 , 和訳本としてブイユヴォー他/著 北川香子/訳 『カンボジア旅行記』 連合出版 2007 があるけれど、該当する部分の「カンボジア布教史」は、「ブイユヴォー自身の見聞ではなく、史料をもとにブイユヴォーが再編成したものである」という理由で翻訳本から割愛されている。該当部分に日本人子孫のことが記してあることは、次の注Xで示した資料の同ページによる。

[x] 82ページ 東南アジア稲作民族文化綜合調査団/編『メコン紀行 民族の源流を訪ねて』 読売新聞社 1959

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