『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第18回 ポルポト兵から走って逃げた日

カンポット 胡椒を干す

 海南島からやってきた祖父が開いたスラエオンバルの土地。
 その後を継いだ、祖母、父。すでに亡くなった祖先を祀るチェンメン(清明祭)は、4月の乾季明けの前に行われる。2017年4月のチェンメンのとき、ティさんを訪ね、私も彼らの祈りに加わった、というのが前回連載第17回のお話(以下から飛べます)。
 その後、改めてティさんを訪ね、ティさんの記憶がしっかりしてくるポルポト時代以後のことをゆっくりと聞いた。

 ティさんの家を次に訪ねたのは2017年12月の最後の週だった。4月のチェンメン(清明節)のときにお腹が大きかったパートナーは赤ん坊を生んで、もうすっきりとした身体になっていた。ピンティアンという名前の男の子で生後半年になるそうだ。少し驚いたのは、使い捨てオムツを使っていたことだ。これまで私(筆者)が見たカンボジアの農村では、赤ん坊はお尻丸出しで、おしっこは床に垂れ流しのことが多かった。それをティさんに伝えると、確かに使い捨てオムツを使うのは、ティさんの子どもの中でピンティアンが初めてだという。使い捨てオムツは値段が高いでしょうと尋ねると、「そんなことない、安いもんだ。このあたりの家は、もうみんな赤ん坊に使い捨てオムツを使っている」という返事だった。

 この日も昼食をご馳走になりながら、ティさんから話を聞いた。

簡単ではない、中年以上のカンボジアの人たちの生まれ年

 以前にも書いたように、ティさんは1968年の生まれだという。しかし、カンボジアの人、特にティさんの年代は、複数の生年月日を持っていることが多い。例えば、私(筆者)の50代半ばの友人は、本当の生まれ年、それより若い生まれ年、さらに実年齢よりも年長となる生まれ年と、つまり3つの生年月日を持っていて、要件によってその3つを使い分けていた。ポルポト時代の後、学校に戻るときは若い年齢を、10代後半で仕事を探したときには年長の年齢を、1980年代にカンボジアに徴兵制が敷かれたときには若い年齢をというように。年齢を証明する書類はいくらか払えば役所で簡単に作ることができた。だからパスポートにだって、必ずしも本当の生年月日が書かれているわけではない。

 本当の生年月日を覚えていない人もたくさんいる。ポルポト時代前に出生を役所に登録していたとしても、その登録はポルポト時代に散逸して確認のしようがない。特にポルポト時代に生まれた人たちは、自分の誕生日が正確にはわからない。ポルポト時代にはほとんどの人はカレンダーすら使えなかった。なんとなく雨季乾季の移り変わりで年が変わっていくことはわかっても、何月何日かを確認する手立ては市井の人々にはまったくなかった。

 そういうカンボジアの人たちも、自分の干支はわかっている。干支はカンボジアの日常に広く使われているさまざまな占いのための大事な情報だからだ。干支を聞けば、ほぼ正確に生まれた年を知ることができる。70歳か82歳かとなれば判断が難しいこともあるだろう。でも、24歳か36歳か48歳かとなれば、まぁ間違えることはそれほどない。ティさんにも改めて干支を聞いた。申年だという。確かに1968年の干支は申だ。

名前を変えるのも珍しくないこと

 カンボジアでは結婚しても姓が変わることはない。また子どもの多くは父親の姓を名乗る。でも、ティさんは父親とは姓が違う。これも華人系カンボジアの人たちにごく普通に見られることだ。1953年のカンボジア独立後、華人が特に虐げられることはなかった。しかし、1970年にクーデターが起こり1975年4月まで続くロンノル政権の時代が始まると、国粋主義が高まり、華人は迫害を受けるようになり、全国にあった華人学校がすべて閉鎖された。ロンノル政権後、1975年からのポルポト時代には自分が華人であることを隠すのが当たり前だった。1979年にポルポト時代が終わった後も、中国と対立していたソビエト連邦を後ろ盾とするベトナムに支援されていたプノンペン政府(ヘンサムリン政権)は、華人に厳しい対応をとった。だから華人系のカンボジアの人は、ポルポト政権後に新たに役所で身分証明書を作る際、カンボジア風の名前に変えて登録した。ティさんもポルポト以前は父親と同じヤンという姓を名乗っていた。しかし、ポルポト後にカンボジア風のフゥーとしたのだという。

攻めてくる側に向かって逃げる?ポルポト兵とは反対方向へ!

 1975年4月、ロンノル政権が倒れ、ポルポト派がプノンペンを掌握したころのティさんの記憶は曖昧だ。ティさんが7才ころのことだ。スラエオンバルがいつポルポト派側に支配されるようになったのか詳細はわからない。1975年4月よりもかなり前かもしれない。とにかく、ポルポト時代、ティさんの家族は、スラエオンバルから立ち退きを命じられ、このときにティさんの父親が引き継いでいた胡椒畑も放置されることになった。家族は、スラエオンバルよりも西側ある集団キャンプで暮らしていたようだ。おそらく家族全員で暮らしていたのではなく、ティさんは兄たちと一緒のグループで、両親とは違う場所で寝泊まりしていたようだ。
 1979年、ポルポト政権が倒れたとき、ティさんは11歳だったことになる。その日の彼の記憶ははっきりしている。

 ある日、ポルポト兵たちが私たちに、ベトナムが攻めてくる、と言ったんだ。だから、みんなはベトナム兵の方に向かって、ポルポト兵から逃げた。一緒に逃げた人たちは千人ぐらいいたと思う。最初の10キロぐらいは、ポルポト兵が怖くて走って逃げた。牛車に乗って逃げた人もいた。米や煮炊き道具も、こうやって肩に天秤棒を担いで、ぶらさげて逃げた。私も天秤棒を担いだ。10キログラムぐらいはあったと思う。重たいけれど、いつも重たいものを持って働いていたから大丈夫だった」

 「水たまりがあると、その水で米を炊いた。夜は森中の土上で直に寝た。10日間ぐらい逃げていたような気がする。最初は兄さんたちと一緒で、途中で父や母にも会えて、家族みんなで逃げた。そして、もともとの家のあったこの場所にたどり着いた。あっちの道(タイ国境の方を指す)から戻ってきた。たどり着いたのは朝早い時間だったよ。
 家は朽ち果てていてなんにもなかったから、最初に森から木や葉っぱを取ってきて、ツルでしばって眠るところを作った。ベトナム兵がミルク、米、小麦粉なんかを今のコミューン事務所がある場所で配ったので、それをもらって食べた。
 それから一番最初に稲を植えた。コショウの畑を見に行ったのは、戻って数ヶ月経ってから、かなり落ち着いてからだと思う。地雷は怖かったけれど、このあたりにはそんなに埋められてなかったみたいだ。それに、地雷は胡椒畑があるような森の中ではなくて、車が通るような道に埋まっているんだ。このコミューンで地雷の被害にあった人はいない。隣のコミューンではひとり地雷で死んだ」

〝走って逃げたのは10キロメートル〟〝一緒に逃げたのは千人ぐらい〟〝天秤棒で担いた荷物は10キログラム〟〝逃げて歩いていたのは10日間〟。ティさんが語る数字はきりのいいものばかりだ。もちろん正確な数字ではないだろう。ただ、11歳だったティさんのリアリティが、そんあきりのいい数字に表れていると感じた。

ポルポト後の日々

 その後、ティさんは学校に通い出したけれど、あまりきちんとは通わなかったようだ。むしろ、父親を手伝って働いている時間が長かった。ティさんの兄たちや弟は、プノンペンの親戚のもとからプノンペンの学校に通ったらしい。ティさんは家庭の労働力としても重要な存在だったのだろう。

「一度、仕事をさぼって遊びに行ったことがあった。朝、農場に出たら、友達が誘いにきて、彼のモトにふたり乗りしてシハヌークビルの町まで行った。夕方、午後六時ぐらいには帰ってきた。でも、両親には伝えずに出かけてきてしまったから、父が心配していることはわかっていた。ひどく叱られるかもとビクビクして帰ったよ。父はすごく心配していた。怒っているのもわかったから、とても怖かった。でも、それほど叱られはしなかった。私が反省しているのがわかったからだと思う」

 兄弟の中で、幼い頃から父親と田畑で働いてきたのはティさんだけだ。自然と父親の後を次ぐような立場にティさんはなっていった。けれど19歳のとき、ティさんはプノンペン政府(ヘンサムリン政権)軍に入り、数年プノンペンで暮らした。前線に出る兵士ではなく、事務仕事だったようだ。そして、おそらくけしてきれいではお金を得る道を見つけ、かなりの放蕩三昧の生活をしていた時期があった。

 やがて軍を辞め、スラエオンバルの父親の元に戻ってからも、お酒や博打というヤンチャは続いた。そんな“悪癖”から抜け出すきっかけというのが、なんとも不思議な話だった。(つづきは、次回)

スラエオンバル ティさんが世話する整った美しい胡椒畑で。
2017年12月の取材では、なんと知っている人は知っている超大物Aさん(『香港 あなたはどこへ向かうのか』の著者)が、取材チームには加わっていたのだった!!!!

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