(今回は急いで投稿することに少しは意味があるように思うので、構成の熟考や校正は甘いことをお許しください)
2026年2月8日、日本時間で20時を過ぎ、インターネットのニュース速報記事によれば、今日実施された衆議院銀選挙で高市氏率いる自民党が単独過半数を超える議席を得たことが確実と報道されています。
同様の予想記事は数日前から多数流れていましたけれど、その予想が当たったということで、大きな驚きはありません。けれども、「やはりそうなのかぁ」という苦い思いは私の胸の中にはあります。一部の報道によれば、20代世代の高市内閣の支持率は8割を超えています。夏草さん(私の子ども)やチヒロさん(甥っ子)やツクシさん、チヅルさん、アカネさん(姪っ子たち)はみ~んな20代ですから、もしかしたらあなたたちの中にも高市政権を支持している人がいるかもしれません。それは積極的支持であろうと、消極的支持であろうと、支持にかわりはありません。なにせ20代の8割が支持ですから、確率論でいえば、我が子、甥っ子・姪っ子の中にも、高市政権支持者が必ずいるということになりますが、さて、どうなのでしょう。
おそらく日ごろの言動から容易に想像できるでしょうけれども、私はアンチ高市政権です。彼女(たち)の訴えていることの多くを、私は容認できません。そもそも、選挙前から報道されている、統一教会との結びつきは私の知る限りほとんどまったく説明されないままですし、裏金問題が指摘されている多くの議員が自民党公認として今回立候補していることも、納得できません。
さらには、高市首相がトランプ米国大統領と親和性が高いのもとても嫌です。トランプ大統領が昨年10月に来日した際に、横須賀に停泊していた米国海軍原子力空母ジョージワシントンに高市首相はトランプ大統領と一緒に乗りこみ、トランプ氏が演説する横で右手拳を突き上げながらびょんびょん飛び跳ねた姿の醜悪さといったら……。あくまで私自身の直感ですけれど、彼女のこの悦び満面の笑顔はホンモノだと思います。作られたものでなく、演技されたモノでなく、という意味です。つまり、あのときの様は、彼女の本質が現れていたのだと感じています。つまり、軍隊との自らの高い親和性にまったく臆することがない(軍隊の役割は、「殺す」ことであり、「殺される」ことです。実際高市首相は、「血を流す必要性」に積極的肯定派であることを自ら公言しています。戦争が始まれば、それを継続できる制度が必要であると言っている。もしあなたが高市政権支持で投票したのなら、そのベクトルを肯定したということなのです)。
そして、私がその彼女の“本質”に嫌悪感を感じるのと同じ主観的レベルで、彼女を支持する人たち(報道通りならあなたたち世代の8割の人たち)にとっては、それが好ましいものと受け取られているのです。そのことが如実に示されたのが、今回の選挙結果だったということなのだと私は理解しています。

民主主義ですから、選挙結果がその社会の指示するベクトルとなります。今回、高市与党は大きく議席数を伸ばし、単独過半数を超えたという。さらに、連立を組んでいた維新という政党の議席を加えれば、(これを書いている段階ではまだわかりませんけれど)憲法改正に踏み出せる3分の2以上の議席を確保できた可能性も十分にあるそうです。ふむ、なるほど。それが現在の日本社会のマジョリティなわけですね。
私にはとても苦しい結果ですけれども。認めるも認めないもありません。それが事実です。とても残念なことです、私には。でも日本社会がそれを選んだのです。
さて、あなたたちの今回の投票行動はどれだったでしょうか。
可能性1:高市政権与党(自民党&維新)に投票した。
可能性2:高市政権与党と親和性が高い政党(参政党、憂国連合、保守党といった保守系政党、もしかしたら国民民主党もここに位置するのかも)
可能性3:高市政権に反対する傾向が強い野党(中道、共産、れいわ、民社など)に投票した。
可能性4:そのほかの政党に投票した(政党みらい、や、無所属議員?)この可能性が可能性2に近いのか、可能性3に近いのか、それは今後あなたが投票した先がどう動くかにかかわってくるのでしょう。私個人は可能性2に近いのだろうとは予測していますけれど、実際のところはよくわからないというのが正直なところです。
可能性5:白票、あるいは投票所に足を運ばなかった(無投票)
この5つの可能性のどれかでしょう。あるいは小選挙区と比例区で、この5つの可能性が混在しているケースもあるかもしれません。
もし可能性1あるいは2であるとすれば、例えば今、防衛省がイスラエルから軍事ドローンなどの兵器を購入しようとしていることについてどう思いますか? とか、今後の軍備拡大を指示するのですね? とか、あなたの意見を聞いてみたいことはいくつかあります。
けれども、ここではそれはせず、とにかく今後の軍備拡張を支持したと他者から評価されても仕方がない選択をあなたがしたということを、あなたはもはや否定できないということは書いておきます。だって選挙って、結局は「大きな枠」の選択だろうと思うから。細かい政策以前に、根本の思想をどう読み、評価するか。それが選挙だろうと思うから。
いや、軍備拡大は指示しないけれど、たとえば海外からの労働力が日本に入ってくることを抑えて日本文化を守るといった政党や、行き過ぎたジェンダー政策をストップさせると公約している政党を支持した、いや経済政策で選んだ、ということがもしかしたらあり得るかもしれない。でもさぁ、それは言い訳にはならないよ、と思うのです。高市政権とその類似政党らはそんなあなたの思惑なんか気にしないまま、しかも実際に軍備拡大に反対している政党が軒並み議員数を減らしているのですから、今後日本政府が軍備拡大に進むのは確実な情勢なのですから。まさか、「こんなに反対野党が負けるとは想像していなかった」とは言わないですよね。
その場合、あなた自身たちの世代が、あるいはあなたたちに続く若い世代が、もしかしたらその世代にはあなたたちの将来の子どもたちが含まれる可能性も高いわけですけれど、徴兵される可能性が高まることを選択した、ということになりますよね。もし、いや、ならないという意見がある場合は、機会を見つけてぜひ私にそれを説明してもらいたいと思っています。
問題は高市政権を支持しないベクトルに投票していたら、です。その場合、さてあなたには今後の日本政府による軍拡路線に責任はあるのか、ないのか? そこが私は気になっていて、考えているのです。
例えば、最近読んだ本の中に以下のような文章を見つけました。
有権者は参政権を持つ国の行為に責任がある。(『ヘルシンキ生活の練習はつづく』 朴沙羅著 筑摩書房 2024 63ページ)
この表現をそのまま受け取れば、有権者の投票先にかかわらず、最終的に有権者はすべからずその国の行為に責任がある、かのように読めます。その通りだとすれば、たとえあなたが高市政権与党に投票しなかったとしても、今後、あなたが指示しなかった高市政権が今後採用する政策に責任があるということになります。
う~ん、どうなんだろう、それはちょい酷だなぁと私は思うわけ。例えば、80年前に終わった15年続いた日中太平洋戦争にだって反対した大日本帝国の市民はいたわけです。その中には、反対を表明したことによって弾圧を受けた人たちだっていた。小林多喜二らに象徴されるように、当人にとって最悪のケースは、大日本帝国政府の官憲によって虐殺された人だっていた(それはつまり拷問をした側の日本市民がいたってことですよ!)。そんな虐殺された人たちに象徴される「政府の政策に反対した人たち」にも、あの戦争の責任があるとするのか? いやいや、それはないだろう、と思うのですよ。
そして、それほど大声で反対を唱えなくとも、例えば選挙の際に当時の大翼賛会を支持しない投票行為をした人たちにも、大日本帝国の海外侵略行為とその後の日本社会の荒廃の責任があるというのは、酷だよなぁと思うわけ。国民/市民と国家をリンクすることにはできるだけ慎重でありたいと私は思っているのです。でも、大日本帝国の侵略方針を熱狂的にかどうかにかかわらず指示した人たちには、少なからずの戦争責任はあったと私は思ってもいるわけです。
とにかく、もしあなたが高市政権を支持しない投票行為を選択したのだとしても、実際にはあなた自身、あるいはあなたの子どもたちが、徴兵される可能性はあるわけだ。その場合、どうするのか? せめて良心的徴兵回避の道があるのか? それを選択できれば、まだいいけどなぁ。
あるいは、流れに任せたまま徴兵されるのか? 私が学んだ高校の同級の中には、倫理社会の授業の中で教師が「徴兵制があったら、どうするか?」と問われた際に「徴兵制に応じます。でも、ぼくらのようなエリートは、前線に出る可能性は高くない」と答えた奴がいたんですよ(この発言者は、そういえば東京大学に進学したような気がする)。大学出身者のエリート性は、時代と共にだんだん低下する傾向はあるわけだけれど、さて、我が子も甥っ子姪っ子たちも短大を含めた高等教育に進んでいます。つまりエリートですよ。まさか私のその糞野郎的(?、やっぱり糞野郎だと思うけどな)な級友と同様に、前線に出る可能性は低いから大丈夫なんて思ったりしているわけでもないでしょう?
本当に、ボチボチと考えておいた方がいいと思うわけさ。
ちなみに書くまでもないだろうけれど、可能性1あるいは2,そして忌々しいと私は思うけれど可能性5の場合は、徴兵制に応じる責任があるんだろうな、と思う。もし、可能性1/2/5を選択しておきながら、軍拡は嫌だとか、徴兵されるのは嫌だとか今思うんであるとすれば、それはあまりに投票前の想像力が軽い。そして、なんかヤバいのかもと思っても今や遅い、ということなわけだよね。
(それでも、実際の段階では気が変わるってことは人間だもの、あるかもな。仕方ない、その場合だとしても、どう徴兵を回避するか、やっぱり早めに考えた方がいいよ)
つまりね。私は、もしあなたが高市与党を支持しない投票行動をとったとしたら、今後の高市政権の軍拡方針、もしかしたらそれは本当に徴兵や他国への軍事行動につながる可能性があるだろうと思うよ、に一義的な責任はないだろうと思っているわけ。だから、積極的に回避方法を考えたほうがいいとアドバイスしたいわけ。
私自身は、ひとつは1999年に始まった石原慎太郎(すでに故人、人権感覚のきわめて乏しい御仁でした)の東京都都政、もうひとつは同じ年に法制化された国旗国歌法を契機に、「日本の外に逃げ場所を作っておかなくては」と思い続けて現在に至るのです(ちなみに、石原都政に関しては、石原自身もそうだけれど、石原を当選させた大衆としての都民への恐怖が強かったです、東京は私が生まれ育った故郷なので、余計に忌避感がありました)。1999年当時、私は35歳ね。すでに私自身が徴兵される可能性は高くないだろうとは思っていたけれど、私の子どもたち(その段階では、ようやく最初の甥っ子であるチヒロが生まれたあたり、夏草が誕生したのは翌年2000年でしたね)がやがて徴兵される可能性を考えないわけにはいかなかった。
もちろん、私自身はその後の投票行動で、徴兵制へのベクトルに親しい政党や議員に投票したことは一度もない。それは誓って言える(だけれども、私が投票した政党や議員が多数派になることも残念ながら一度もない)。そして、私の危惧は年を経るごとに小泉政権や安倍政権を経るに従って大きくなっていって、そして今回の結果だよ、ってことなわけです。
もしも、あなたが「政治には、あんまり興味がない」という種類の気分を持っているとすれば、「われわれの生活は政治に貫かれているという認識」(昭和の文筆家である大岡昇平氏が書いた言葉、大岡氏には『野火』や『俘虜記』といった彼自身の戦争体験を基にした良い小説があります、おススメです)がなさすぎるね、と伝えたいです。投票をしない、政治に無関心、そんな行動や態度もきわめて政治的なことにぜひ自覚的であって欲しい。そして、それらは往々にして選挙で買った側を利することになります。(私が今これを書いている場所を支配する国家では、投票を棄権するとか、白票を投じるという行為は「反国家的」と政府から評されてしまいます。それでも政府に物申す野党がひとつもない現状では、無投票か白票ぐらいしか政府を支持しないことを示す行為はありません。このような選挙が形骸化した独裁制下では「無投票や白票が、選挙で勝った側を利する」と評するのは当たっていないでしょう。でも、日本には一応野党が存在しますからね)
そして、投票率にかかわらず(つまり投票率が低くても)、民主主義という制度のもとでは、勝てば官軍。投票率が低いことを理由に、選挙の勝者を批判しても、それはどうしたって負け犬の遠吠えになってしまう。つまり、今回、高市政権は圧勝したのです。
ならば、もしあなたが高市政権を支持しない投票行為をしたならば、ぼちぼちと逃げ出す選択を考え出すのがいいと思うのです。逃げるというのは、けして卑怯な態度ではないと私は強く思っています。「殺す」より、「殺される」より、逃げる方がずっと良い。
具体的には、ひとつの選択は、その身を海外に置くということです。そして、その手伝いならば私は少しはできると思っています(ちなみに現時点で、カンボジアはもちろん、その他でもフィリピン、ケニア、ルワンダ、イタリアなどに逃避滞在の相談先があります)。生活? そんなの逃げてから考えればいい。ここでは書かないけれど、具体的な戦略はいくつかアドバイスできるので、必要に応じて尋ねてください。
弱者は戦略的にならないと、権力にはとてもかないません。
ちなみに、海外に逃避するというのは、亡命とは違います。別に亡命なんかする必要はない。国籍を変えるという意味でもないです。単純に、逃避する。そういう感覚で大丈夫です。
とにかく、そういう自分を守る戦略を講じないと、巻き込まれる。
喜んで巻き込まれるという立場もあり、あなたがそんな立場をとっているのであれば、どうぞご自由にとしか私には言い様はありません。でも高市政権の政策、特に軍備増強とその先にある徴兵へのベクトルに喜んで巻き込まれる立場を、私は強く嫌悪します。

さて。
闇があるから光がある、と書いたのは、先にちらっと触れた虐殺された小林多喜二です。この言葉の背景には、聖書の中の「光は闇の中にある」という一節があるようですね。まぁ本義はさておき、私自身はこの「闇があるから光がある」という表現は、どんなに状況が悪くなっても希望を失うな、という意味に受け取っています。最近読んだ本のなかでも、パレスチナがイスラエルの暴政に遭っている状況をこれでもかと書いた後で「けれども、闇の中にこそ光はあるのだ」(『なぜ書くのか』タナハシ・コーツ著 池田年穂訳 慶応義塾大学出版 2025 175ページ)という表現があるのに出会いました。まさに、それでも希望を捨てるな、という意味として書かれたものと私は信じます。
希望、それは私たち人類が持ち続けてきた貴重な感情です。千年前の和歌にもこんなのがあります。
冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月 和泉式部 (拾遺和歌集より)
希望、具体的には各自思い描くしかない。でも、生きていないと希望もなんもないでしょう?そして「殺す」という行為を行った後の生存は、おそらくとても辛いことだろうと想像するのです。世の中、やり直しの効かないことはほとんどないと私は思っている。でも「死」だけは、もう戻すことはできない。だから、「殺す」は取り返しようがない。それはかなりしんどいこと。だから必死で避けるべきこと。
とにかく(私には)本当に心寒く暗い冬となりました。おそらく、私が生きている間にこの冬がもはや明けることはないだろうと覚悟しています。長い冬がやって来た。あなたが凍えないことを祈っています。祈ることぐらいしかできない。そして、もし逃亡を企てることがあり、それを私が少しでも支援できる可能性があると考えるのであれば、どうぞそのときは遠慮なくお伝えください。
あきらめてはダメです。あきらめて「殺す」ことに近づいてはダメです。人間は慣れるのです。だれでも人を殺せるようになる。それすらも慣れる。いくらでも言い訳できるようになります。だから、そうなるずっと前に、逃げないといけません。それはあなただけのためではなく、あなたの次の世代のためにも、そうしなければいけません。遺伝子を残せなんてちゃちい話じゃないんだ。人類がどう「正しさ」を示すかという大きな問題にかかわることです。日本人として以前に、人類のひとりとして、より“害のない”道をあなたには歩いて欲しい。
そして、最後に。もしあなたが高市政権を支持する側にいるとしても、これからいくらでも考えを変えていいのです。間違っていたなら、そこから離脱せよ。そう思ったら、多分、それはまだ間に合う。どうぞ、離脱してください。考え直してください。「殺す」側になびくことから、どうぞ距離をおいてください。あなただけではない、他者にも「殺させ」ないように。人としては、そっちがいいと心底思うんですよ。
もしあなたが「国を守る」という文脈で「殺す」ことに近づいているなら。あるいは、「敵が我らを殺そうとする以上、敵を殺すのは致し方ない」という文脈で「殺す」を擁護するのであれば。どうぞ、「敵」とは誰かを何度でもよく考えてみてください。敵の兵隊は、市井の人なのです。市井の人と市井の人が殺し合う。なんのために?何を守ろうとするのか? 国家と距離を置く生き方は存在します。国家と距離を保つ生き方の方が、楽なのに。殺すに直面するもっと前に、殺すから距離をおくように心がけることが大事だと私は思っている。そして、それは実際可能だし、それこそ国家を守るための行為だろうと思う。備えあれば憂いなしではないのです。備えれば、備えるだけ危険性が増すというのが軍備だ。
そして、米国兵士の前で見せる高市首相のこの笑顔をもう一度よく見てください。軽い。軽すぎると思いませんか? 彼女の進める方針にのって「殺す」に近づくなんて、なんかチョロすぎるって思いませんか。私は思うんだ。そして、そんなチョロいことで、あなたが「殺す」ことに近づく(それは「殺される」ことに近づくことでもある)のが辛い。考えると辛くてたまんない。止まれ。少しでも早く止まれ。降りてしまえ。逃げましょう。どんどん降りて逃げましょう。闘うな。逃げて。「殺す」充実よりも、「逃げる」空虚が素敵なんだと私は信じてる。大丈夫。逃げて、生きて。それでなんとかなる。そっちが、マシなんだと考えてみて欲しい。ぜひ、考えてみて。

(追記: これを投稿した日本時間9日午前2時の報道によれば、高市連立政権の与党の議員数が衆議院議員の3分の2を越えたとのことです。つまり与党が出した法案は、参議院で否決されても、再度衆議院で再可決されればすべて通るということです。さらに憲法改正へも具体的に近づいたということになります。これからの4年間は、国を二分する議論をすれば、すべて高市サイドの意見が通ることになりました。あ~あ、とんでもないことになったもんだよ。)


















本当にとんでもないことになったものです。
匿名様
昨日の母との会話で
母「自衛隊の人数は足りないっていうことでしょ。憲法改正の先には、徴兵制になるんじゃないかね」
私「20年かな、徴兵制までかかるのは」
母「そんなにかからないんじゃない。10年ぐらいでなるんじゃない。
でもまぁ、そのころには私はもういないから、私には関係ないけどね」
私「………」
さて、どうなるのでしょうね。心配です。
ムラヤマ
今日の授業は面白かったです。種を蒔くことしかできませんが、諦めません。
匿名様 コメントありがとうございます。ふふふ「授業」ですか。
少数者がどう自分の身を守ればいいか。大きな時代の流れのなかで、どう自分自身を守るためにあがけるか。身を置いている状況から、物理的に距離をとる、って、冷静になる客観的になるためにも、いい方法だと思うのです。とにかく、いったん外に出る。ひとつの選択肢として用意できていたほうがいいと、心底思っているのです。
諦めない、は当然ですよね。諦めるんだったら黙ってろ、と以前人から言われたことがあります。そうだよなぁと思った。ただ、逃げる=諦める、ではないはずです。「三十六計、逃げるが勝ち」という言葉もあります。いざってときは、まず逃げてから、それから考える。それでいいんじゃないかと思うのですよね。
ムラヤマ
Facebookから、高市早苗応援団グループがおすすめとのメールが届きました。SNS空間が金と権力の影響を強く受けていると感じます。カンボジアはタイと国境未画定地域で戦争状態、この状況でタイの「愛国的」政党の支持率が高くなっているようです。カンボジアはどうなんだろう?習近平と高市は、互いの軍拡を自らの軍拡路線を正当化する理由にしている。逆説的に言えば、高市自民の選挙勝利の一因は習近平強権中国の応援があったからかも。逃げずに、力を合わせて戦えば変えられる。いつでもどこでもそうだった。逆流は歴史にはつきものだが、人間は希望を持ちたいと思う存在だろう、だから逆流は一時のものだ。現在のスペイン・ポルトガルの状況、ハンガリーの状況、アメリカでさえ格差社会や強権に反対する社会的力(運動)が強まっているように見える。We shall overcome! 逃げずに戦えば、私たちは次の時代をひらくことができる。
有馬先生 読んでくださって、さらにコメントまで、どうもありがとうございます。
先の国境紛争についてちょっとだけ書きます。両国の軍事力は格段に差があります。当初カ国も相手国国内への砲撃を行いました。けれども、時間が経つにつれて、国際社会へ「カンボジアは平和を望んでいる」というメッセージ戦略でなんとかしのごうとした感じがします。おそらく、タ国がピンポイントで国境近くのカ国側の軍事施設を攻撃したのが、かなり効いたのだと想像します。タ国は、カ国の兵士を5百人程度殺戮したという報道をしました。それに対してカ国は、それはフェイクであるとアッピールした。けれども、停戦後も、カ国は自国の兵士の戦死者数を発表していません。カ国政府は、今年から(カンボジア的にはお正月は4月なので、つまり4月以降)18~30歳の男性を対象に徴兵制を導入すると発表しています。そのことも、兵士の死傷者数を発表しない一因があるのだろうと想像します。そして、そのような情報を発表せよという社会からの声は上がりません。というより、上げることはとても難しい。すぐに国家反逆罪に問われてしまうからです。先生のコメントには「タイの「愛国的」政党の支持率が高くなっている」とあります。カ国では、そういう《選択》の自由はありません。選挙はありますけれど、それは形骸化しています。つまり一党独裁で世襲制が完成しつつある。そういう国家です。その中に身を置いていると、いろいろと学ぶことは多いです。例えば、独裁はけしてトップダウンだけで成立するものではない。独裁に喝采を叫ぶひとたちはけして少なくありません。もちろん、喝采を叫ぶことの利点がたくさんあるわけですけれど。一方で喝采の輪にくわわらないのは、特に公務員(その最大多数集団が教師の皆さんです)には、不利益が多い。
今回の紛争で、カ国市民が学んだのは、たとえば戦闘機を持たなくちゃダメだ、ってことかもしれません。ちなみに、停戦後、両国の国境線の一部では、紛争前よりもカ国側に入ったところまでタ国が占拠しています。これはやっぱりタ側、やりすぎていると感じます。武力によって国境線を変更したと言われても仕方がない。タ国政府側からすれば、紛争に勝利して正しい境界線に戻したということなのかもしれませんけれど。でも、これでは「力は正義」です。当然、カ側は「力がもっと欲しい」となってしまう。溜息です。
先生は「逃げずに戦えば」と書いてくださいました。けれども、カ国の状況では、逃げずに戦えば、あっという間に拘束されます。裁判官が与党党員であることをまったく隠さない国です。公平な裁判など期待するのも無理です。そんな与党と戦っているのは、海外に逃げた人たちです。状況によっては、逃げて戦う、という選択もいくらでもあると私は感じています。
さらに書けば、戦わないという選択を否定するのもよくないかもしれません。人がもっているパワーやエネルギーは、けして公平に分配されているわけではありません。そして戦うことは、それなりに「力」が必要です。皆に「戦え」と求めても、それに応えられない人はいる。そんな人でも、せめて逃げて欲しい。戦わなくていいから、逃げて欲しい。そんなふうにも思うのです。とにかく、「殺し」「殺される」その前面に立たないために知恵を絞る。それも市井の人たちの自らを守る戦略だろうと思っています。
村山哲也
「力」を持たない人はいないのでは?何を求めて何と戦うか、それが大切だけれど。誰でも戦う力を持っている。世界人権憲章(宣言)や国際人権規約、それに国連憲章を実体化するために戦う必要があると考えます(日本で日本国憲法を実体化することと重なることだけれども)。強権国家が広く存在する中で、内心的な不服従も含めて多様な方法で戦うことはできるのでは?それは、この世の主人として主体性を持って(主権者として)生きようとする人にとっては生きることの意義でもあると思います。逃げることによっては力を合わせることもできないし、現状を打開することもできないのでは?
有馬泰紘
うーむ、有馬先生、なるほど。
確かに、他者に対して「力」の有る無しを語るのは不遜でした。「誰でも戦う力を持っている」。確かにそうなのかな。すごく健康的な考え方で、反論する部分ではないようにも思います。(ちょっとだけ、健常者社会的な考え方だなぁと思って、ちょっとひるんでしまうような気持ちが、私の中にはあるんです)
さて、先生が書かれているように「多様な方法で戦う」ことが可能として、とすれば「避難して、そこで戦う」という戦略も可ではないでしょうか。私が「逃げる」と書いたのがまずいのだろうな。避難するなら、どうでしょう。
状況に巻き込まれないように、物理的に距離をとるという行為を「避難」と表現したら。それでもまずいでしょうか? 避難したら、力を合わせることができない?現状を打開することもできない?
このあたりになると、具体的な状況をもとに議論しないと、空中戦になっちゃいそうですね。
たとえば、私が今いる場所から比較すれば、日本はまだ言論の自由があり、その場で戦うことはいくらでも可能でしょう。でも、実際に徴兵制が引かれるような状況がうまれたら? どうしたってまず若い世代の人たちが強制的に「殺し」「殺される」状況に送り込まれてしまう。徴兵=戦場ではない。徴兵というのも、戦争をストップする抑止力になるという考え方をする人たちも、今や少なからずなのでしょうけれど。でも、私はそうは考えていない。そこは先生もそうでしょう。
そういう状況が生まれてから避難を検討するのは、もしかしたら遅すぎないかということを私は心配しています。戦うのはいいけれど、実際こうやって3分の2を高市首相を頂く政党は単独で確保した。今後4年間は衆院選挙はないでしょう。日本社会が改憲やむなし、に流れていく。それを「戦う人たち」は阻止しようとしているわけだけれど、実を結ばない現状はある。
だから、避難する準備も大事だと思ったりはするのです。それを逃げると表現したら、ダメなのかなぁ。正義に殉ずることを他者に求めてしまうのは、どこか非人間的な感じが私はしているのだと思う。大きな流れというのは本当に恐ろしい。危機的な状況が起こってしまったら、そこからできるだけまず距離をとる、戦うのはその後でもいい、そんなふうにも思っているのです。そして、避難するならその準備は早めにね、と思っている。それもダメ?
村山哲也
他の人の人権を侵さない限り、どのように道を選ぶか、何を望むか、何を大切に思うか、それを自由に決めることは人権の一部(自己決定権)ですね。だから、逃げるも避難も自由でしょう。それを他の人に勧めるのも自由。しかし、「日本社会が改憲やむなし、に流れていく。それを「戦う人たち」は阻止しようとしているわけだけれど、実を結ばない現状はある。」には異議あり。どれほどの時間を要するかはわからないけれど、日本社会が存続し続けるとすれば必ず実を結ぶことでしょう。人権・平和・民主主義の日本国憲法であるのに、改憲をリードする人やそれに賛同する人が多く(過半数という意味ではない)存在するのはなぜか?詳しい説明は省くけれど、一番根源にあるのは、私的利益追求のエネルギーを駆動力とする資本主義社会が様々な格差を生みそれを広げる社会だからではないだろうか。そのような社会から公的利益(公益=一般市民の利益)の追求・実現を駆動力とし且つ目的とする社会に移行することを望む人たちは、やがて多数派になるのでは?日本だけの問題ではなく世界全体の問題でもあるし、私としては一日でも早く新しい次の時代を開きたいものです。ブログへのコメントとしては不適切だったかもしれませんね。これで終わります。
有馬先生 その後の返信が遅くなりまして失礼しました。
私が信を置く物理学者の藤永茂さんは、以前ご自身のブログで「パレスチナに民族共存の一国家が建設できないのであれば、人類が滅ぶのは避けられないことであろう」という主旨のことを書かれました。
その段で言えば、「人権・平和・民主主義が尊重されない世界を作り上げられないのであれば、ホモサピエンスがやがてそう遠くない未来に衰退するのは避けられない」ということのように私は考えています。
それは日本に限らず、この地球上すべての場所において・・・・。80億もいたら、なかなか難しいのかな。世界中には今日も蹂躙される人たちが多数いる。ミャンマーも、ウクライナも、もちろんパレスチナのガザもヨルダン川西岸も、
さらにイエメン、スーダン、南スーダン、コンゴ共和国東部、あるいはシリアやイランや、さらにはクルドや、アメリカ合州国や、ベネズエラも、ハイチも、エトセトラエトセトラ。
それでも、いったいどうすれば一日も早く新しい次の時代が開けるのか……なかなか現実的な展望が見えなくて、希望が持てなくて、とても辛い気持ちになるわけです。
まぁ、私もそう遠くない年月で消えていくわけですから、あとは任せるしかないのですけれど。
「日本社会が存続しつづけるとすれば必ず実を結ぶことでしょう」という先生の力強いお言葉には、いつも頭が下がります。
いつも勇気づけてくださってありがとうございます。 遅ればせながら、返信まで。 村山哲也