イントロダクションとして。パレスチナ入門本の良書の紹介。
この1月26日には、2023年10月にハマースらの反イスラエル勢力が拘束した人質の残る一人の遺体がイスラエルに返還されたというニュースがありました(報道によれば、この最後に返還された23年当時24歳のイスラエル警察官は、2023年10月7日のハマースらの攻撃直後に戦死し、遺体としてガザに移送されたそうです。そして、その埋葬地をハマース側がイスラエル側に伝え、イスラエル軍がその遺体を発見した、ということのようです)。昨年10月の停戦から、全人質の解放・返還には3カ月かかっています。一方で、この3カ月にイスラエルの攻撃で死亡したパレスチナの人は480人、怪我人は1275人に達しています。1日あたり5人強の人が殺され、14人強が傷つき続けているのです。さらに、イスラエル側が拘束しているパレスチナの人たちは9千人以上いるそうです。この拘束者へのイスラエル側による拷問や暴行も数多く報告されています。この9千人と、23年10月の251人の“人質”と、理不尽に自由を奪われたという意味で、どれほどの差があるというのか?この9千人の解放予定についてのニュースは、私の知る限り見たことがありません。
今後は、いったいどういう権限が米国大統領にあるのか不明のままですけれど、彼が主宰する「平和評議会」が暫定統治を担うそうです。この評議会にはパレスチナを代表する人は誰一人いない。評議会が決定した施策を、実施するのは現地のパレスチナ官僚組織ということになるそうですけれど。単に言われたことをやるだけ。パレスチナの人たちには、自分たちの未来について意見を表明する機会は無視されたままです。

そんなパレスチナの状況を理解するのに、もしあなたが基本的な情報を改めて求めるとして、高橋麻樹著『ぼくの村は壁で囲まれた パレスチナに生きる子どもたち』(現代書館 2017)はとても良書だと思います。出版は2017年ですから、ガザ大虐殺以前の状況しか書かれていない。けれども、歴史的背景と現状がとても分かりやすく記載されていて、しかも文章も読みやすい。中学生なら読めるでしょう。もちろん大人の読書にも十分堪えます。特にパレスチナのガザ以外の場所、つまりヨルダン川西岸地区の情報が詳しく、そこも良いです。
ガザ大虐殺の期間中、ヨルダン川西岸地区でもイスラエル人による不法入植地(この場合の不法は国際法に対する不法です)住民と彼らを警備するイスラエル軍によるパレスチナ住民への暴力は拡大するばかりです。それは今後もますます続くでしょう。
もしあなたの周りの若人が「どうしてイスラエルは……?」という疑問を持ったら、どうぞこの本を差し上げてくださいませ。もちろん、あなたの頭の整理にも、ぜひ。
あの『ハックルベリー・フィンの冒険』を登場人物のひとり黒人ジムの視点で書き直したら……
さて、『ジェイムズ』(パーシヴァル・エヴェレット著 木原善彦訳 河出書房新社 2025、今回のブログの表紙写真)です。これも昨年購入して、積読箱に入っていたのです。それを救出して、特に前情報もないまま読んでみましたところ、大当たりでした。昼過ぎから読みだして、途中雑事もありながら、同じ日の深夜には読み終わりました。400ページとそこそこ厚みがありますけれど、翻訳も大変すばらしく、読みだしたらとまらない小説、久しぶりです。いいですね、集中した読書の後の気分は。
この本は、マークトウェイン著の超有名作『ハックルベリー・フィンの冒険』のパロディとでも言ったらよいのか。元ネタ本である『ハックルベリー・フィンの冒険』、私もきっと昔々に読んだと思うのですけれど、ストーリーはまったく覚えていません。原作は1884年に英国で、1885年に米国で出版されています。
こちら原作は、無邪気な白人少年ハックと気のいい逃亡黒人ジムとの二人のミシシッピ川中流域での旅物語です。このふたりを結び付けているのは、人種を超越した“友情”です。さらに、黒人ジムに象徴される当時の黒人たち(特に南部奴隷制擁護州で)の境遇を同情を持って書かれていることが、“自由の国アメリカ”の暗部を暴いたと話題になり、出版直後にはマサチューセッツ州の一部図書館で禁書となっています(ちなみに当州は、南北戦争で北側、つまり奴隷制廃止州)。奴隷廃止州で禁書ですから、いわゆる南部でこの物語がどのように受け止められたか、ある程度は予想がつくというものでしょう。
その後も、この『ハックルベリー・フィンの冒険』は、米国小説史上の重要作と高く評価されつつ、一方で人種差別の記述が少年少女に相応しくないと学校図書室から追放されたりということが米国では最近でも起こっているようです(日本語版Wikipedia 『ハックルベリー・フィンの冒険』の項より)。特に原作に多く登場する“ニガー”という単語がまずいらしいですね。この訳本では、当該箇所は“黒ん坊”と、現代であれれば当然避けるべき差別語で記載されています(本の最後に、差別語をそのまま使う理由について訳者が言及しています)。
さて、このように人種差別に対して厳しい視点を内包した、開明的な小説、それが『ハックルベリー・フィンの冒険』だったのです。しかし、ハック目線で描かれているこの物語を、ハックの相棒である“黒ん坊”ジムの視点で書き直すとどうなるか?
本書に付いていた帯の裏表紙側には、星野智幸氏(日本の小説家、ごめん私は存じ上げなかった)の以下のコメントが他の方のコメントと共に載っています。
読み始めたが最後、『ハックリベリーの冒険』を愛する私がいかに「白人」であったか、自分を笑い飛ばして痛快になる。———星野智幸
うん、まさにそういうこと。ハックの視点から書かれた物語は、ジムの立場から書かれるとかなり、というよりまったく変わってしまうのです。つまり、『ハックルベリー・フィンの冒険』を知っているほど、より強烈に刺激を受けられるわけです。上記の星野さんは、自分が「白人」であったことに気がつき、それを笑い飛ばして痛快になると書かれていますけれど、でも間違いなくかなりの冷や汗をかいたはずなのです。まさに価値観の転換がある。そういう本は面白いですよね。
でも、私はその元ネタのストーリーを全然覚えていなかった。それでもやっぱり面白かった。まさにページをめくる手が止まらないという読書体験でした、こういうのは久しぶりだったなぁ。
もちろん、元ネタの『ハックルベリー・フィンの冒険』すべてを、この『ジェイムズ』は踏襲しているわけではありません。元ネタでは後半に大活躍するハックの友人(あの)トムソーヤーは『ジェイムズ』ではほとんど登場しませんし、時代設定も、元ネタが1830~40年ごろだったのに対して、『ジェイムズ』では少し後の1860年代前半になっています。これは1861年から始まった南北戦争が『ジェイムズ』の中では重要な舞台仕掛けになっているからです。
ジムの怒り、そして“殺す”。その普遍的な力の前で「殺すな」は萎びていくしかないのか。いや……
さてと、はい、ここで終わらないのが当ブログでございます。もうしばらくおつき合いくださいませ。ただし、途中レイプシーンや殺人の描写が入ります。そういうのダメな人は、背景クリーム色のところは読み飛ばしてください。
この小説『ジェイムズ』の主人公、通称ジム(その正式名がジェイムズ)は作中終わり近くに、意図的に二人の白人を殺害します。ひとりはジムが逃亡前に働いていた農場の奴隷監視人ホプキンズ。ホプキンズは、逃亡中のジムを匿ったケイティ―という名の女性奴隷を、彼女の夫が農場の仕事中で留守している間に日常的にレイプしています。ジムは、それを匿われた樽の後ろから目撃しますけれど、そのときは何もできない。妻が監視人にレイプされていることは、彼女の夫もおそらく気が付いている。けれども、その夫も何もできない。
「ケイティーは私の方に目をやった気がした。実際には、ホプキンズと目を合わせないようにしているだけだった。
「尻を出せ」
「お願いです。ミスタ・ホプキンズ」
二人の体が当たる音は最悪だった。いつ聴いても吐き気を催す、ひどい音楽だった。(中略)
頭の中の私は彼女を助けるために飛び出して怪物の頭をつかみ、ポキッという音が聞こえるまで首をひねった。頭の中では。現実世界の中では陰に身を潜めたままだった。もしも私があの男を殺せば、もしも私があいつに飛びかかれば、もしもあの男に姿を見られれば、ここにいる奴隷の全員が罰を与えられる。殺される者も出てくるかもしれない。そして白人たちはどうせまたここに戻ってきてケイティ―に同じことをする。若いケイティーの顔にセイディーの顔が重なって見えた。そこに娘も重なった。私は目を逸らさなかった。怒りを感じたかったからだ。私は怒りと親しくなりつつあった。怒りの感じ方を学ぶと同時に、その使い方も学んでいた。(364ページ)(ムラヤマ注:文中の“セイディー”は、ジムの最愛の妻。もちろん彼女も奴隷。ジムとセイディーとの間には、幼い娘がひとりいる)
レイプだけではありません。ジムの逃亡以前に、白人女性の顔にほんのちらりと視線を送ったというだけの理由で若い青年奴隷がリンチで殺された際にも、ホプキンズはそのリンチを心から楽しんでいたのをジムは目撃しています。そして、ジムが隠れている川中の無人島に、それと知らず酔ったホプキンズがカヌーでやってくる。以下、本文から。(文中の「私」がジムで、「彼」がホプキンズです)
「私は自分の中の怒りを見つけ、その火を搔き立てた。私は森の静けさに守られているような気分で、これはチャンスだと思った。私がここにいることは誰も知らない。(中略)
彼が近づくにつれて私の怒りは花が開くように高まった。彼はうとうととしながら鼻歌を歌っていた。私はその横の地面に置かれていた拳銃を手に取り、ズボンの腰に挿した。白人がそうするのを何度も見たことがあったからだ。私は火に薪を一本足した。さらに一本。焚火は大きく燃え上がった。大きな炎で居心地の悪くなった彼は目を覚まし、炎の反対側にいる私を見た。(中略)
「黒ん坊のジムか?」
「正解」と私は言った。「いや、奴隷言葉に翻訳しておこうか。そんだよ、わしだ、ホプキンズの旦那」。私はそこで間を置いた。「監視人様」 (後略)」 (366~370ページ)
このシーンでジムはホプキンズを絞め殺し(ジムは銃の使い方を知らないのです)、その遺体をミシシッピ川の流れの中に沈める。
この最初の殺人の後、さらにジムは妻子が売られた先の農場、そこでは奴隷を繁殖させて売っていてかなり儲かっている様子、の主人が彼に散弾銃を向けてきた際に、上の場面でホプキンズから奪った銃でその主人を撃ち殺します(このときにはジムは銃の使い方をすでに教わっている)。
さて、私にとっての大問題はこのブログでもたびたび取り上げている「殺すな」という思想です。ジムが農場主に対峙した際の本文をちょっと見てみましょう。
私は拳銃を彼に向けた。「私は死の天使。甘き正義を果たすために来た」と私は言った。「私は神のしるし。おまえの未来だ。名前はジェイムズ」。私は拳銃の撃鉄を起こした。
「たわけたことを」。彼も撃鉄を起こした。
私が放った銃弾の音は大砲のように谷に響いた。その反響は永遠に続くように思えた。私と一緒にいた者たちは立ち止まり、男が鉛の弾を受けるのを見た。寝間着を着た男の胸は赤く破裂した。彼の倒れ方は木が倒れるときとは似ていなかった。大きさを感じさせるところはどこにもなかった。彼はただ倒れた。うつ伏せに。(396~397ページ)
あらら、最後の最後にジムは(あるいは作者は)“正義”と“神”を持ち出してしまいました。ここまでジムはけして神を崇拝する人物造形ではありませんでした。つまり彼は、怒りを身につけることで、怒りと一緒に正義も神も獲得してしまったのか。ここは、400ページ近くを読破してきた読者への、作者からのカタルシスというギフトなのだろうか。そうかもしれません。作者がまず意識しているのは、米国の読者のはずです。米国の読者なら、この正義と神と銃によるカタルシスに足をとられる人は少ないのだろう。
でも、我が足はすくみます。それはジムの正義を疑うという意味ではありません。中立なんて糞くらえ、喧嘩両成敗も引っ込んでいろ。ここではどうしたってジムの怒りは正当だ。奴隷監視人も、奴隷繁殖農場の主人も、さらには作中に登場する善良そうな白人も含めて、彼らには一片の共感も私にはありません。僕はジムの怒りを共有する。
唯一、ハックだけが白と黒の線上を歩いている。それだって、ハックが成長しながら、そのまま境界線上を歩き続けるのか、あるいはどちらかに傾くのかは判りません。それはハック次第。まるで、21世紀の私の価値観が私次第なのと同じように。
そして、もし私の足元が(あるいはハックが)、白い側(これは比喩)に傾くとして。そのときジムは、正義と神の名のもとに私を「殺す」のか。それは仕方がないことなのか?
イスラエル軍による「殺す」を、ジムの「殺す」に重ね合わすことは可能なのだろうか? 両者はどうしたって重ならないように私には思えます。でも、イスラエル政府の教育を受けた両親に育てられ、両親に続きイスラエル政府の教育を受ける今のイスラエルの子どもたちならばどうか? ジムの怒りは、欧州で差別を受け続けホロコーストを経験した“ユダヤ人”という大きな集団の怒りや哀しみに重なるのではないか。私は、それを認められないけれど、でもイスラエル市民の多くにはジムの怒りと自分たちの怒りは似たものに見えるのではないか。
でも、違う……。そう断固言える力を僕は身につけなくてはいけません。イスラエルの若人たちの曾祖父母はパレスチナに移る以前に欧州で虐げられ(これはナチスドイツのホロコースト以前からのことです)、殺されレイプされ略奪された。2023年10月のパレスチナからの反攻の際にも、一部の侵攻兵士によるイスラエル市民へのレイプがあったとされています(この件、私はちょっと疑っている面もあるのだけれど、ここでは置いておきましょう)。
だから彼ら(イスラエル)は怒り、怯え、そして殺す。それが自らの安全に直結するとして、殺す。直接に殺さないとしても、同胞の殺しに目を瞑る。祖先の痛みには敏感でも、他者(敵?)の痛みには関心を払わない。
その殺しと、ジムの「殺す」はどう違う、のか。100%違うわけでは、ない。でも、100% 同じわけでも、ない。その違いをきちんと探せ。掘れ。考えよ。
両者の違いを見つけることはそんなに難しいことではないだろう。例えば、ジムの怒りは直截的な彼の体験がベースにある。けして彼の父母、祖父母、祖先の体験を主たるものとする怒りではない。もちろん彼にも「我ら黒人」という意識はある。けれど、彼の「殺す」は彼個人の所有物だ。自分以外の誰かから伝達された教育の成果ではなければ、義務として押し付けられたものでもない。ジムは我が子に自分の怒りを引き継ごうともしていない、自分で考えろというのが彼の姿勢だ(ここはかなり意味深なのです。本を読んで、この意味深さを読み取ってくれる人がいたら、ちょっとうれしいなぁ)。彼は怒りの使い方を知ったのであって、それは不安の使い方の話ではない。なぜなら彼は自ら第一線に立っているから。その立場の人にとっては、不安なんて役に立たないだけのものなんだろう、きっと。
それに対して、現在の多くのイスラエル市民の怒りは、彼らの「殺す」は……。
けれども、気になることもある。
最初の「殺す」として、奴隷監視人を絞め上げるとき、ジムが口にしたのは「“どうでもいい”」(371ページ)だった。その後、彼は「殺した」ことの意味を再考する。あれは復讐だったのか、罪を犯しのたのか、勇気なのか、邪悪なのか、等々熟考しつつ、「他に何ができるか」と思い、「それは必ずしも嫌な感覚ではなかった」(373ページ)と思う。
その後、自分の命よりも大切な妻と子を救い出す際に2度目の「殺す」に直面した際には、正義や神という言葉を口にする。黙って引鉄を引かせることもできたのに、作者はジェイムズに正義を語らせた。そこに最初の「殺す」にあった逡巡は見られない。もちろんそれが物語のカタルシスを呼ぶのだけれど、それはジェイムスがやり過ぎへの道に足を踏み出しつつある可能性を示しているようにも思える。私には、その道がイスラエルへつながるのが見えて怖い。逡巡は大事だ。それを捨ててはダメだと思う。
さて、今日はここまで。じゃ、また。『ジェイムズ』、多くの公共図書館に入っているはずです。おススメです。


















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