アティン―――ぼくが、フランスでのアジア人差別のニュースが気になる理由(わけ)

パリのアティン

プノンペンからフランスに渡ったアティン

アティンはプノンペン市内、サップ川西岸沿いに軒を構える多くの飲み屋街の一番北側の一角にあった店で働いていた。その店は川沿いの道に面した扉をいつも大きく開きっぱなしにして、店の中だけではなく、歩道の上にまで張り出した庇の下にも籐製のテーブルと椅子を出していた。そこでビールなどを楽しむ客がいると、店の女性スタッフも一緒に座って相手をしてくれる。昼間は仏語を学んでいて、その学費を稼ぐためにその店で夜働いていたアティンは、20代中頃だっただろう。

アティンはぼくには波長の合う話し相手だった。おそらくそれは、彼女が学校通いをしていたことと関係があったような気がする。飲み屋街で働く多くの女性が醸し出す〝勉強は不得意です〟というか、ちょっと〝粗野〟というか、そんな雰囲気とは違うものを彼女は持っていた。そういえば、アティンはいつも眼鏡をかけていたけれど、飲み屋街で眼鏡をかけて働いている女性はごく少ない。けして高学歴ではなかったけれど、ちょっと〝インテリ〟っぽいといえば当っていたかもしれない。もちろん、それはお高くとまっているというような意味とは全く違う。〝お高くとまる〟というのは、彼女にはもっともそぐわない形容詞だった。彼女はよく無防備に大きく口をあけて声を上げて笑ったけれど、そんなとき見える大きな八重歯が彼女の飾り気のない素直な内面を象徴しているようにも思えた。そんな彼女との会話が楽しくて、ぼくはときどきその店に顔をだした。

 やがて彼女の姿は店から消えた。フランス人男性と結婚し、仏国に渡っていったと聞いたなるほど、そのために仏語を勉強していたのか。

パリ

 それから1年ほど経ったころ、アティンがぼくに電話をかけてきた。国際電話だ。パリからだった。聞けば、結婚相手の母親との軋轢がもとで離婚してしまい、今はパリでひとり暮らしているのだという。そこで彼女はフランス政府からの給付金をもらいながら、仏語と職業の訓練を受けながら「フランス人になる準備」をしているという。

 それからもアティンとぼくはメールでときどきやり取りをした。その度に、ぼくは彼女がフランス人なる進捗状況を知ることになった。それは仏国政府によるとても手厚い支援のようにぼくには思えた。

 それからまた1年ほどが経った。1週間ほどの休暇が取れたぼくはパリに遊びに出かけた。アティンとも、会った。彼女のフランス化は順調に進んでいるようで、ぼくがパリを訪ねたとき、彼女は職業訓練の研修として、スーパーでレジ打ちのパートタイムをしていた。彼女の仕事の後、遅い夕食を一緒しながら改めて彼女の話を聞くことで、それまでばらばらだったアティンを形作るいくつかのピースがぼくの中で少しずつ組み合わさっていった。

 アティンは最初から仏国に渡るために仏語の勉強を始めたそうだ。そして、仲介業者を通じて花嫁を探すフランス人と知り合い、結婚して仏国に渡った。夫の家はフランス南部の農家で――アティンはその場所を正確にぼくに伝えきれなかった。電話番号は覚えていたけれど住所は覚えていなかったし、地図でその場所を指し示すこともできなかった――、夫は優しい人だった。けれど「姑はとても意地悪だった」。その家庭では、毎食チーズが山ほどテーブルに上がったけれど、アティンはなかなかその味と匂いに馴染めなかった。そして姑はそんなアティンをけして義理の娘として認めようとせず、まるで女中のように扱った。孫が産まれれば、姑の気持ちも変わったのかもしれないけれど、そういうことは起こらなかった。気の優しい夫は、気の強い母親と異国からの妻の間で憔悴していき、ある日アティンは夫に離婚してくれるように頼んだ。そして夫からいくらかのお金をもらうと駅まで送ってもらい、ひとりでパリ行の列車に乗り込んだ。夫は文句もいわず、アティンの望んだとおりにしてくれたそうだ。パリに着くと彼女は移民局を訪ねた。

「あの人にはとても感謝をしている」話を聞いてアティンの夫だった〝優しすぎる男〟に憤慨しているぼくをたしなめるように彼女はいうのだ。

「もっと可愛い子はたくさんいたのに、あの人は写真の中から若くもないしきれいでもない私を選んでくれた。だから私はフランスに来れたのだから」

フランス化をサポートする仏国政府

 さらにぼくにとって驚きだったのは、離婚後に彼女がカンボジアに帰ろうとしなかったことではなく、仏国政府も彼女をカンボジアに送り返そうとはけしてしなかったことだった。送り返そうとしないばかりか、仏国政府は積極的に彼女のフランス化を支援していた。けして高額ではなかったけれど物価の高いパリで生活できるだけの生活費を支給し、仏語を訓練し、さらに今後収入を得るための技術を学ぶ多くのプログラムを提供していた。公共交通機関を自由に乗り降りできるフリーパスもアティンはもらっていた。しかもそのときの仏国大統領は、仏国への海外移民に対する厳しい姿勢で知られていたサルコジ大統領[1]だ。大統領の方針とは別に、〝異邦人をフランス化するプログラム〟がきちんと機能していることをぼくはアティンから学ぶことになった。

 もちろん、政府から援助を受けているといってもアティンのパリ生活はとても切り詰めたものだった。レジ打ちの研修中はスーパーの売れ残りを持ち帰って食費を浮かせていたし、住んでいたのは移民たちが暮らす安アパートで、しかも部屋ではなく廊下だという。アティンはその安アパートの清掃も請け負って小金を得ていたようで、廊下の片隅に置かせてもらったベッドの上だけが彼女のプライベートな場所だった。仏国にきて、さらにパリで暮らし始めてからも、彼女はエッフェル塔にもノートルダム寺院にも行ったことはなかった。ルーブル美術館やオルセー美術館の存在も、アティンのパリでの生活の蚊帳の外のことだったんだ。

アティンの研修が休みの日に行ったノートルダム寺院で

 身寄りのいない異国で、なぜそこまで苦労して居場所を求めたのか。経済的に成功しカンボジアの家族へ送金したいという希望や、フランスへの強い憧れはあったとしても、おそらくカンボジアを出たかった強い理由が彼女にはあったのだろうと思う。でも、その核となる理由までたどり着くことはぼくにはできなかった。

 短い休暇を終えプノンペンに帰るぼくに、アティンは半分冗談、つまり半分本気で「あなたはフランス人になる気はないのか」と聞いた。「その気があれば、いくらでも手はある」というのだ。彼女にとって、フランス人になるというのは、要は当人のやる気の問題だった。国籍をそのような感覚でとらえたことはなかったぼくに、彼女のやる気は清々しいほど潔かった。

アプリオリな境界なんて、ない!

 〝違い〟とは単一の存在には生まれない。ふたつの存在があれば、何かの差異があり、そこに境界はいつでも生まれる。境界は無数に存在する。たとえば、〝私〟と〝あなた〟の間にも、さまざまな境界が築かれている。境界の両側に〝共通すること〟が見つかれば、いっとき境界が消え去る。そして、その〝共通すること〟の外側に新たな境界ができる。〝私〟と〝あなた〟は〝私たち〟となり、〝私たち〟とはまた違う〝あなたたち〟や〝あの人たち〟が立ち上がる。

 子どものころなら、学校で違うクラスであれば、そこには強い対立意識が生まれた。その対立意識は、他の学校との競争でもあればあっという間に消え去った。

 性別はいつも必要以上に強固な境界になりがちだし、病気や障害もそうだ。社会的な階級が国境以上に超えがたい境界であることも多いし、肌の色、話す言葉、食べるもの、宗教、文化、民族、祖先……、境界を作り出すものを挙げていけば、いくらでもある。ぼくたちは、その多くが生得的で一度固定されたら変更不可能なものと思いがちだ。

 そんな境界の中でも、国境はとても力強いものだろう。パスポートと出入国審査という特別な装置による儀式がドラマチックで、国境をより強く印象づける。国境を超えるためには海か空を渡るしかない島国では、出入国のものものしさがますます国境の強固さを醸し出す。

 最初は、ぼくにとっても国境は不動の境界だった。でも、ケニアで2年間生活し、その後も何度も国境を超える経験を積み重ねるうちに、国境も多くの揺れ動く境界のなかのひとつに過ぎないと考えるようになった。たとえばアティンのやる気は、国境どころか国籍でさえもけしてアプリオリなものではないことを教えてくれた。

 こうして考えれば考えるほど、いずれの境界も、実は不確かで揺れ動いているようにぼくには思えた。ビールを飲みながら意気投合すれば、世界の誰とでも〝私たち〟になれるのも、境界が実は思っていたよりもずっと自由なものだからだ。

 どの境界も、存在理由はそれぞれだ。人は、そのときそのときで、自分の都合に合わせてその境界を使い分けているに過ぎない。ひとつひとつの境界の強弱濃淡を決めているのは、その境界を必要とする人たちの価値観や利便性だ。そしてその価値観や利便性によって、境界は都合よく現れたり消えたりする。それはけして不道徳でも、責められることでもない。境界はなくなったほうがいい存在ではけしてなく、あくまで生き易く使えばいいのだとぼくは思うようになった。もちろん、その境界が他者に対しての侮蔑や否定や、特権の維持のためでない限り。

 たとえば、フランス国籍をとっただろうアティンは、もうカンボジア人ではないかというと、そんなことはない。彼女はけして〝カンボジア〟が嫌いだったわけではなかったし、捨てたわけでもない。フランス料理なんかよりもずっとインドシナの食べ物が好きだった彼女は、〝生得〟のカンボジアと自ら〝獲得〟したフランスを上手に使い分けて生活しているだろう。どちらかひとつしか選べないときも含め、臨機応変に対応してるはずだ。

 もしあなたの前に超えたいのに超えられない境界が現れたら、その境界が強固なのは実はあなたの考え方が一因である可能性を一度は考えてみてもいい。アプリオリな境界なんてないのかもしれないことを思い出してみてもいい。

アティンに関する追記:

 アティンはやがて、やはりカンボジアから渡ってきて不法労働者としてパリで暮らしていた男性と知り合い、結ばれ、子どもが生まれ――女の子だ――パリ郊外の賃貸アパートで暮らし始めた。そして彼女からの連絡は減っていき、やがて途絶えた。きっと彼女のフランス化は完了したんだ。彼女は大きな賭けに勝った[2]toutes nos félicitations!(仏語で〝おめでとう〟)
 今ごろ、アティンは新型コロナ禍が続く仏国で静かに暮らしているはずだ。新型コロナ禍が始まった1年前には、ヨーロッパでのアジア人蔑視が起こったと報道された。仏国でもそういうことは起こったようだ。先日は、仏国では午後6時以降の外出禁止令が出た。アティンたちの小さな小さな暮らしが、なんとか幸せに続いているといいなぁと、フランスの報道があるたびに思う。


[1] サルコジは仏国政治家で、2007年から2012年までフランス大統領を務めた。自身がハンガリー系移民二世であったけれど、移民に対して「フランスの価値観」を共有することを強く求める発言を繰り返した。

[2] アティンが「賭けに勝てた」のは相手が〝フランス〟だったからで、しかもアティンがフランスの植民地だったカンボジア出身だったからで、たとえば外国籍の人が日本国籍を取ろうとしてもやる気でどうなるものではないという人がいるかもしれない。難易度の話ならば、たしかにそのとおりだ。ただ、境界が固定されたものではなく揺れ動くことをアティンがぼくに力強く示してくれことに変わりはない。

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