ブルシットジョブ(クソつまらない仕事)であろうとなかろうと、油断しちゃダメだよね。意地悪な気持ちに打ち勝つためには、いったいどうすればいいのかねぇ。

ある早朝の朝日と独立記念塔。プノンペンにて。 本文とはまったく関係はありません。

無名の人たちの仕事

 カンボジアのお正月、クメール正月を過ぎて静かな日々が続いています。
 特別のニュースもなく、どうしても観念的な投稿になってしまうわけですが、どうぞお許しを。ここしばらくずーっと気になっていること。

 2021年3月6日に名古屋出入国在留管理局の収容施設で亡くなったスリランカから来た33歳の女性。報道によれば、亡くなる前、彼女は自分では食べられないほど衰弱し、施設の職員からスプーンで食べ物を口に運んでもらう日々があったそうだ。スプーンで口に入れてもらっても、その直後にすぐに吐き戻してしまったと。それでも、職員はさらに次のスプーンを口に運んだ。
 亡くなる前の様子について、新聞記事には以下のようにある。 

 報告書によるとこの日、ウィシュマさんは座った姿勢を続けられず、食事中も頭や首を支えてもらわなければならなかった。すでに自力では飲食できず、「担当さん」と呼ぶ職員にスプーンでおかゆを口に運んでもらっていた。
 食事を吐いたという記録は報告書では確認できないが、後に監視映像を見た遺族代理人の一人、駒井知会弁護士は「ウィシュマさんはこの日、青いバケツに吐き続けていた。吐いても吐いても、職員はすぐに食べものを口に運んでいた」と話す。
 
 「病院お願い」信じなかった入管職員 孤独な衰弱死、その最後の記録:朝日新聞デジタル (asahi.com) 

 同じ記事には、2月15日の血液検査で、彼女が極度の栄養不良の症状に陥ったことは分かっていたそうだ。ただ、職員には彼女の病気はそもそもはスリランカへの帰国を避けるための『詐称』であるという認識があったのだそうだ。血液検査の結果まで詐称することは無理なはずだ。職員は食べたそばから吐いてしまうのも詐称だとおもっていたのだろうか?

 いったい、彼ら彼女ら職員たちは何を思って今仕事をしているのだろうということがとても気になります。職員たちが何を思いながら衰弱していく彼女の口にスプーンを運んでいたのかも気になります。さらには、彼女を診察した医療関係者たちは、今何を思うのでしょうか。

 おそらく想像するに、多くの関係者に「悪意」は存在しなかったのでしょう。ただ淡々と日々の仕事をこなしていた。なにも考えないようにしていたのかもしれません。収容所にいたのは亡くなった彼女だけではないわけで、やらなければいけないことはたくさんある。それは今も同じはずです。今日も彼ら彼女らは淡々と真面目に仕事をこなしているし、明日もそれが続く。さらに、仕事が終わればそれぞれの家庭がある。誰もが日々多かれ少なかれ気になることもあるだろうし、そのひとつひとつすべてに丁寧に対応できるわけでもない。そんな誰にでもある普通の日々を送りながら、でもおそらくスリランカ女性が一歩一歩死に向かう日々の周辺に身を置いていた彼ら彼女らは、善き市民なのだろうと僕は確信します。

 市井の人々。無名の人々。前回の投稿で無名性について少し書いたような覚えがある。僕も無名であるとも書いた気がする。世界はそんな無名の人々の仕事で、動いている。

 たとえばトレンド風に書けば、ウクライナへのロケット攻撃の発射台をメンテナンスする技術者。彼も与えられた仕事をこなしている。
 中国ウイグル自治区の市民に海外の親戚から届く荷物や手紙の封をあけて中を調べる仕事をしている人たち。漢人かもしれないし、ウイグル人かもしれない。その人たちも、おそらく淡々と仕事をしている人たちだ。
 ミャンマーの国軍兵士の多くはかなり真剣に国家のために反政府運動に対峙しているんじゃないかな。そういえば、2007年9月27日に反政府デモの取材中に死んだ長井健司さんを至近距離か撃った若い兵士は、今どうしているのだろう(残されている長井さんが撃たれた瞬間が写り込んだビデオを見ると、ビデオを持つサンダル履きの長井さんに対して兵士は2メートルぐらい離れたところから片手で持った銃を手慣れた感じで発射している)。
 沖縄の辺野古で、埋め立てに反対する人たちを2016年に「土人(どじん)か」と侮蔑した大阪府警機動隊員だって、その後の6年近くをきっと一市民として普通に過ごしてきているに違いない。
 そんなふうに考えるのです。

ドーアが考えた夢のようなこと

 話は少し飛ぶけれど、国際教育開発の古典に『学歴社会 新しい文明病』がある。著者はドーアという英国の社会学者で、1977(昭和52)年に出版され、翌年には日本語版(松居弘道訳)も出ている。僕がこの本と出会ったのは、1993(平成5)年だから、出版されてから15年も経ってからだ。(この本、岩波書店の単行本、さらには岩波書店同時代ライブラリー新書版とこれまでいくつか出版されていますけれど、今ではどれも古本としてしか入手できないようです。大きな図書館であれば、だいたい在庫はあるはずだとも思います。)
 教育後発国であればあるだけ、学歴社会に陥ることを喝破した内容で、つまり教育後発国であればあるだけ学歴がものをいう社会になることが実例をあげて書かれている。途上国でのサティフィケイトコレクター(学歴証明書を集めることに終始する傾向)を実体験として知る者として、ドーアの証明したことは正しいと強く思います。

 学歴病と言えるこの傾向に対して問題を(あげつら)うだけではまずいと思ったのか、ドーアはこの本の中で少々突飛とも思える対処法を提示しています。それは「働いている充実感を得られやすい職業の給与を安く、人の嫌がる仕事の給与を高く設定する」という提言でした。人の嫌がる仕事とは、きつい・汚い・危険、3Kと呼ばれるような仕事のことを指しています。
 高学歴が必要とされる仕事に人が就きたがるのは、そっちのほうが給与が高いからだけではなく、「やりがいがあるから」だとドーアは考えたのです。責任の高い仕事は、やりがいがあって、つまりは自己充実感が高いはずだと。その自己充実感が高い、つまり満足度が高い分だけ、人はその仕事からすでに対価を得ているのだから、その分金銭的収入は少なくてもいいのではないかとドーアは書く。一方で、特別の資格がなくてもできるのが3Kの仕事で、そういう仕事の給与は一般に高くないことが多い。けれども、そういう3Kの仕事の中にも社会に不可欠の仕事がある。そういう仕事の給与こそ高くあるべきだと、ドーアは考えたのです。

 僕は、例えばゴミ収集の仕事はとても人の役にたっている尊い仕事だと思う。そして確かに3Kの大変な仕事だとも思う。自分がその仕事をやれるか、やりたいかと問われれば、進んでつきたいとは正直思わない。だから、そういう仕事をしてくれる人たちが私よりも高給取りだとしても、まったく不満はない。さらに、ゴミ収集に従事してくれる人たちには、心から御礼を伝えたいし、彼ら彼女らが誇りをもって仕事をしてくれたらと思う。
 プノンペンの町にも、もちろんゴミ収集の人たちがいる。彼らの主な勤務時間は夜間だ。夜に市内を車で走っていると、ゴミ収集車がゴミを回収して回っている様子を目にすることがある。聞くところによると、彼らの賃金は高くない。かなり低く抑えられているらしい。
 賃金を上げてくれと彼らがストライキをうったことがあって、そのときは市内あちこちに大きなゴミの山が積まれ放置され、それが悪臭を放った。ようやくほんの少しだけ賃金が上がって、やがてゴミは回収された。それでも、彼ら彼女らの賃金は社会的に低いほうだろう。カンボジアの人たちもゴミ回収を仕事にしたがる人はいない。改めて、ドーアの提言の鋭さを思う。そして、ドーアの提言が実現する可能性はまずないであろうこの世界を少し残念に思うこともある。

 とにかく、まず「職業に貴賤なし」というところから考えなくちゃと思うのです。

ブルシットジョブだろうとなかろうと

 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(デヴィッド・グレーバー著 酒井隆史他訳 岩波書店 2020)という本が話題になった。僕の本棚にも積まれているのだけれど、まだちゃんと読んではいない。最初のほうをパラパラとめくると、機械化が進んで労働の集約性が高まっているにもかかわらず、人々の労働時間がなかなか減らないひとつの理由に、多数の人々の幸せに貢献していない仕事(それがブルシット・ジョブ、クソどうでもいい仕事)が増えているからだということが実証的に書かれている本みたいだ。特に、不必要な管理職が増えているとある。

 わかるわかる。読まなくても、少なからず想像できる。

 けれども、本稿で書きたいのは、そういう人の幸せの役にたっていない“クソ食らえの仕事”のことではないのです。障害を得てしまうと、仕事に対する価値観の見直しを迫られる。あまり簡単に「人の幸せの役に立つ仕事」を賛美するのもどうかと思う。ポイントは「役に立つ」だ。役に立つのが正義ってのも考えものだと思うわけです。その観点で、世間に数ある仕事の一部を切り取って「クソどうでもいい仕事」と批判することにも慎重になってしまう気持ちが僕にはあるのです。

 だって、このご時世、とにかく収入がないと困るわけだから。そして、病気や怪我や障害などで働けない理由が明確でない限りは、働くことが必要となるわけだから。どんな仕事であろうと、それを選択する人たちにはそれぞれやんごとなき理由、つまりは収入が必要だ、がある。

 もちろん、クソどうでもいい仕事なぞ、やらないで済むほうがいい。できれば、人の幸せの役にたつ仕事をするほうがいい。それで喰えれば、何よりだ。さらには、クソどうでもいい仕事なんか減ったほうがいいし、クソどうでもいい仕事が減ることで仕事に困る人が増えないのがいい。そういう世の中になることが望ましいのはもちろんのことです。

 一方で、とにかくまずは今日の日々を過ごさなくてはならない。自分だけならまだしも、自分の稼ぎで食わせなければいけない家族もいるだろう。さらには、人は食うだけの生き物にあらず。娯楽も必要だし、教養も身に着けたい。何が無駄か、そのラインだって簡単にはひけない。生活の「最低ライン」なんか、そうそう簡単に決められるものではないのです。

 だからこそ、そこそこの余裕を持って市井の人、無名の人の暮らしは守られなくちゃいけない。それは、市井の人の仕事/稼ぎも守られなくちゃいけないってこと。もしかしたら、それが大砲のメンテナンスだろうと、大砲を作る仕事であろうと、大砲を撃つ仕事であろうと、ね。どこまでが「許される」のか、誰が決めるの? 少なくとも、僕はそれを決める立場に立ちたいわけでもない(ただ、自分のことは自分で決めたい気持ちは強いけれど、ね。それはまた別の話し)。

 そして、入管収容施設で亡くなったスリランカ女性の例は、そんな精一杯の暮らしの中に潜む他者を痛めてしまう危険性のことを僕に強く印象づけるのです。油断するな、油断しちゃだめだと、彼女の死がけして小さくない声で訴えかけてくるのです。大砲を撃つ仕事ばかりが、人を傷つける仕事にあらずだと、思い出させてくれるのです。兵士を批判することに夢中になって、自らの油断を顧みることがないとしたら、それは恐れ多いことなのではないかと問いかけてくるわけです。

 油断の背景を一生懸命想像(あるいは自戒)してみると、そこにはやはり他者を「軽く見る思考」があるんじゃないかと思います。他者を軽く見る思考がもたらしがちなのが、ほんのちょっと、ほとんど自覚されないぐらいの「意地悪」な気持ち。どういうわけか、人は誰しもこの意地悪な気持ちから自由ではないみたい。幼子をよく観察すると、彼らにだってなにか意地悪な気持ちが宿ることがあるのです。つまり人間の脳はそういうふうにできている? きっとそれは人にとって大切な自尊心とどこか近いところに位置する感情なのかもしれない、なんて予感します。そして、幼子はそんな自分の意地悪な気持ちに正直に行動する。だから幼子はときに酷いことをするのも平気です。
 幼子の意地悪は、社会性を獲得する成長の過程で矯正されていくはずです。でも、それでもそれが心の底から完全に消え去るわけではないみたい。ふとしたきっかけで、大人の心にもこの意地悪な気持ちが宿ることがあるのを、僕たち大人はよく知っていますよね。

 だからその意地悪な気持ちに対抗する知恵と勇気、それが何よりも必要なんじゃないのかなぁ。その知恵と勇気にかんしてすら、人はだれもが同じように会得できるわけでもない。だから、まず大事なのは自分です。他人がどうであろうと、まずはそれぞれが自分のできる範囲でなんとか対抗するしかないわけで。

 それはきっとときに厳しいことですよね。簡単じゃないのだろうね。

 そんなことをいろんな悲しいニュースに触れたり、滑稽な日常の断片に一喜一憂するたびに、思ったりしております。

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