サティフィケイト(資格)コレクター 中身なのか/証明書なのか 学んだことが実を結ぶとき

建設ラッシュが続く首都プノンペン カンボジア (写真は2017年12月)

友が博士号をとります。よかった、おめでとう。

 ちょうどこの文章を書く直前に、カンボジアから日本に博士留学をしていた友人の博士論文発表会が開かれた様子がフェースブックで流れた。彼とぼくが会ったとき、彼は高校教員養成校の図書室担当スタッフだった。大学の生物科を卒業し、高校教員養成校でも生物教員になるコースで学び、ようやく就職したのに人員配置の関係で回されたのが図書室。たまたまぼくがODAプロジェクトでその養成校で働き出したころのことだ。
 ぼくが開いた生物教師向けの勉強会に、彼も参加していた。明るく英語も達者だった彼は、ぼくにはコミュニケーションを取りやすい参加者だった。やがて彼は生物を教えるスタッフの一員に加わり、プロジェクトから派遣されていた修士留学の機会を得て日本にも行った。マスターを取得した彼は、勤務先の教員養成校にもどるとどうやら少し“出世”したらしい。けれども、出世した結果、生物担当スタッフからは離れた。
 そして、強く希望していた博士課程での留学のチャンスを掴み、数年前から中部地方にある大学で研究を続け、ようやくドクターを取れた、ということなんだ。彼には3人の子どもがいる。博士過程への留学が始まったとき、年長の2人はすでにプノンペンの私立校に通い始めていた。だから、彼と一緒に日本にやってきたのは、彼の妻と一番下、当時はまだ小学校に就学前だった息子さんだ。
 一昨年の春、彼らを東京に招いた。当時のぼくの住処に彼らに泊まってもらって、東京見物を数日楽しんでもらった。

 そのときのこと。朝、彼らは東京ディズニーランドに出かけた。理由はよく覚えていないけれど、ぼくは同行しなかった。なにか用があって同行できなかったのか、それともディズニーランド嫌いなぼくが「行っておいで」と送り出したのかは、覚えていない。東京ディズニーランドへの行き方を紙に書いて説明したのは覚えている。でも、東京の地下鉄に彼らは迷ってしまった。行きつ戻りつしてようやくたどりついたディズニーランド。でも、彼らは入場しなかった。チケット代を惜しんだんだ。ディズニーリゾートを回るディズニーリゾートラインに乗って、写真をとって、夕方彼らは帰ってきた。
 話を聞いて、ぼくは同行しなかったことを悔いた。しまったー、やっぱり一緒に行けばよかった。チケット代を出してあげればというよりも、もしぼくが一緒に行けば彼らも思い切りがついただろう。幼稚園に通って日本語は両親よりもうまくなっていた末っ子くんに、カンボジアへの土産話を作ってあげられなかったことが、ぼくも残念だった。
 彼らが帰る日、ぼくたちは一緒に上野動物園に行き、美味しい焼肉を楽しみ、そして彼らは帰っていった。今から思えば、一年後だったら新型コロナ禍で上京は無理だっただろう。ちょっとほろ苦いこともあったけれど、東京まで家族で遊びに来てもらってよかったと、今改めて思う。

 このタイトルでブログを公開することは、少し前に決めていた。だから、彼の博士論文完成のニュースが入ったは、単なる偶然だ。でも彼のニュースのおかげで、この投稿をスムースに書き出すことができた。

 おそらくもうしばらくすれば、彼は日本での生活を終えてカンボジアに戻るだろう。帰国後、彼がどんな仕事をすることになるのかは、まだ聞いていない。帰ってみないとわからないこともあるだろう。けれど、ひとつはっきりしていることがある。彼が研修したこと、生物教育分野の「研究」は、彼の主たる仕事にはならないはずだ。博士を取った彼が、学生相手に生物科目を直接教える機会も、もうないのではないだろうか。つまり、日本で集中して学び研究したことそのものを活かすというよりは、博士号を活かして次の道を選び開くということが、彼をカンボジアで待っている。

学士、修士、博士………サティフィケイトの重み

 日本で大学に進むとして、卒業すれば学士という資格がつくことになる。日本だって、大学にすすまない人は山程いるわけだから、学士当然とはぼくは思わない。学士を取った人たちは、それなりに自分が恵まれた環境にいたことを意識して欲しいと思っている。
 で、学士を取ったとして、改めて違う分野で学士を取る人は、日本ではごく少ないだろうと思う。けれど、途上国では、あるいは先進国でもかな、学士資格を複数もっている人は珍しくないようだ。カンボジアでは、学士を複数持っていることは珍しくない。

 サティフィケイトコレクターという言葉がある。サティフィケイト/Certificateとは、あるプログラムを受けてそれを修了したことを証明する証書のことだ。資格証明書。大学の卒業証書は“学士”のサティフィケイトとなる。もっと短いプログラムもたくさんある。短期研修を受けて発行されるのもサティフィケイトだし、なにか表彰を受けて(たとえば、スピーチコンテストで賞を取るとかで)もらった表彰状もサティフィケイト(certificate of commendation)だ。
 サティフィケイトコレクターとは、資格証明書を集める人、という意味になる。もちろん集めるのは自分自身の資格証明書だ。プロジェクトで働いているとき、修士の留学を希望するときの提出書類に、多くの資格証明を出してくる人が多かった。中には修士の資格証明があったりする。つまり、カンボジアですでに修士を取っていて、それでさらに日本での修士を希望するんだ。そんなときは、「修士の資格をとっていることは内緒にしましょう」ということにする。履歴書にも修士の資格を書かないように指導した。なぜそれほど彼ら/彼女らは資格にこだわるのか。

 もちろん、それが有利に働くことが多いからだ。10年前、20年前、海外で取得した修士や博士は高いポジションにつくための強力な武器だった。その後、修士や博士の資格を取った人たちは増えつつはあるけれど、それでも今でも強力なのにはそれほど変化がないようだ。資格持ちが増えたことで、ますます出世には資格が不可欠になるという現象も起きている。実力があっても、資格(サティフィケイト)がないと、まわりがその“栄転”を認めないような雰囲気が醸造されつつある。

発見は!!??

 海外に留学した人たちに「帰国してどう母国に貢献しますか?」と尋ねると、学士にしろ、修士にしろ、博士にしろ、短期の海外研修プログラムでも、帰国して「学んで来たことを、若い世代に伝えていく」と発言するサティフィケイト取得者がとても多い。「研究をさらに深めたい」という主旨を伝えてくる人に、ぼくはまだ会ったことがない。
 確かに、帰ってしまえば「研究」では食えない。「研究」を評価する場がまだない。いわゆる学会が育っていないし、学会誌もない。高等教育機関でも、「授業」をすることが主たる仕事で「研究」しても給与は増えない。だから「学んだことを若い世代に伝える」のが求められている、と皆が思う。
 「研究」が評価されない、お金にならない、となると、留学が終わることは専門性の探求が終わることを意味する。科学を学んでも、それを直接活かすことは多くない。専門的な分野なら、分析機だって必要だけれど、それは帰国すれば、そこにはない。
 海外から共同研究の声がかかることがある。もちろんそれは願ってもない機会だ。けれど、そんな研究を主導するのはどうしたってスポンサーに近い側だ。傍からみれば、共同研究者なのか、データ収集のお手伝いなのか、現地調査の通訳なのか、お偉いさんへのアポ取り係なのか。

 ごめん、書き方が辛辣になっているかな。私的なブログの場ということで許して欲しい。

 それでも、それでも、専門分野に集中できる留学期間は、彼ら/彼女らにとって、とても得難い貴重な時間だとぼくは信じている。ときどき、“ちゃち”な研究をしてサティフィケイトを取ってくる(とぼくには思える)ケースがある。だからね、そんなときはとても悔しい。指導教官なにしてる!って、自分の立場や実力は棚に上げて、思う。
 遥洋子の書いた傑作『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(ちくま文庫)の中に、研究発表会の場で発表者に対して上野千鶴子が「発見は何?」と叫ぶ場面があったはずだ。もしかしたら「で」がついていたかもしれない。で、発見は?!!」

 言われるままに実験して学士を取り、なんとかかんとか修士を取った我が身に、「発見は!!!???」の声は耳に痛い。一方で、すごくよくわかる。学士も、修士も、博士も、単に勉強して研究する場ではなくて、「発見する場」なんだってこと。発見しなくちゃ意味はない!
 うん、わかります、上野先生。だからね、留学するチャンスを得た人たちには、ぜひ「発見する」ことを体験して欲しい。苦しんで何かを「発見」して欲しい。
 指導教官は「発見は?!!」と留学生に遠慮なく叫んで欲しい(でも、そうするとめげちゃって帰っちゃう留学生もいるんだよね。大変だなぁ、指導教官)。もちろん叫ぶだけじゃなくて、発見する方法を伝授して欲しい。あるいは共に発見への道を進んで欲しい。そうすれば、やがて「母国に帰って、研究を深めたい」と語る留学経験者が出てくるかもしれない。楽しみだなぁ。

密やかな)老後の楽しみ!!

 「研究」や「発見」に高い価値をつけすぎているかもしれない。もっと役にたつことを、って誰かに言われてしまうかもしれない。うん、わかるよ。それに、事実として、とにかく大事なのはサティフィケイトなんだ、ってことも理解できる。論文の内容は、帰ってしまえばほとんど誰も気にしてくれないってのも、知っている。
 うん、出世して影響力を持つのはステキなことだ。H.E.(ヒズ エクセレンシー/ハー エクセレンシー、日本語では閣下)にもなってくれ。そんなころにはもうあなたの仕事と留学時の研究体験とは直接関係はなくなってしまうだろうけれど、でも留学経験があなたの今の称号とともに、モノを見る目、見極める目、ニセモノを見分ける目、につながっていることを祈る。そして、機会があったら気楽に飲めたら嬉しいけれど、ますます忙しくなっていく“閣下”だからなぁ。そもそもぼくは、偉い人恐怖症なんだ。ご挨拶を失礼しても、許してください。
 でも、ぼくは忘れないよ。ずっと見てるよ。応援している。あんまり太るなよ。



 

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