まず備忘録として プーチンロシアは障害者スポーツの祭典(パラリンピック)は無視したわけです
プーチンロシアがウクライナに侵攻したのは、2月24日でした。2月4日に開催された中国北京冬季オリンピックの閉会式があったのが22日。その直後にロシアの軍事侵攻が始まりました。そして、北京冬季パラリンピックが3月4日~13日に開催されています。
オリンピック前から習近平中国政府の面子を立てるためにも、オリンピック開催中の軍事侵攻はないだろうということが盛んに報道されていました。つまり、プーチンロシアにとって冬季オリンピックの開催中の侵攻はさすがに躊躇われた。けれども、パラリンピックについては眼中になかった。習近平中国にとっても、オリンピック中の紛争開始でなければ、それほど「面子を潰された」ということにはならなかった。つまり、障害者のスポーツの祭典であるパラリンピックははっきりと虚仮にされたわけです。
オリンピックやパラリンピックの開催に合わせて、国連では国際紛争の休戦決議が毎回決議されます。今回の北京大会でもそうでした。この休戦決議は強制力はありませんし、平和の祭典というオリンピックの枕詞の欺瞞性もかなり鼻につくことではあります。けれども、ロシアはオリンピック中はとにかく遠慮したわけです。けれど、オリンピックが終わった途端、パラリンピックなんかまったく無視して軍事侵攻をはじめました。そして、社会ではそのことはそれほど問題視されていないように思えてなりません。むしろオリンピック中のロシアの遠慮はわかるけど、パラリンピックまでは考慮しないのは当然よ、なんて暗黙の了解がありはしないか? そう考えるのは私は障害者であって、どこか屈折した見方をしているからなのだろうか?
健常者の方はさておき、これを読んでいる障害者の皆さんはどう思いますか? パラリンピック終了を待ってからロシアがウクライナ侵攻を開始したとしても、それがどれほど世界の平和に意味があったかはわからない。おそらく、ほとんど意味はないでしょう。
けれども、オリンピックに続く形でパラリンピックが開催されることは当然わかっていることで、国連はパラリンピック期間中も含めて休戦決議をしていた。つまり、障害者はここでも軽い存在としてあつかわれました。そのことは、しっかり認識いたしましょう。そして、ふざけんな!と、しっかり腹をたてましょう。
ひとりでは出かけにくいプノンペン、出かけやすい東京
と、久しぶりに「障害ネタ」で投稿するにあたり、まず備忘録としてパラリンピックが無視され大きな国際紛争が起こったことを明記しておきました。
さて、今回の本題。それは表題に書いたとおりのまま、「バリアフリー整備は大事だけれど、それだけじゃ不十分で、やっぱり人の支援がとっても大事だと思うんです」という話です。
まず、バリアフリーが整備されていないとどうなるかというお話。
プノンペンで暮らしていると、一人で出かけることはまったくと言っていいほどありません。理由は、こちらでは車イスが単独で利用できるような公共交通が全く整備されていないからです。さらには、我が家のある小さな路地に面した通りは、朝は7時ぐらいから夜は8時過ぎまで路肩に八百屋さん、肉屋さん、魚屋さんが立ち並ぶ市がたち、交通量もそこそこ多いのですけれど、そこを車イス一台で走るとすれば当然事故に会う危険性があるのです。走る車やバイクの速度はけして速くはありませんから、事故といっても大きな事故にはなり難い。ただ、コツンとぶつかるなんてことは、けっこうすぐに起こりそうです。
で、私もそんな道に出て一人で買物するほどの必要は特にない。必要なら「八百屋でもやし買ってきて」と、同居する姪っ子にでも頼めばすむことです。そして、町中で人と会う用などがあるときは、家人や友人に車を出してもらうことになる。
家人や友人が車を持っていない障害者はどうしているのでしょう。おそらく、多くはそもそも外出という選択肢を持っていないのです。家族が身内に障害者がいることを恥ずかしがって、障害者を家の中に閉じ込めてしまうようなことも起こっていると聞きます。バリアフリー整備が先か、社会や人々の意識改革が先か。おそらく両方同時進行が大切なのでしょうね。
私自身に話を戻して。
東京にいれば、一人でバス、地下鉄、JRを使ってだいたいどこへでも出かけます。自宅からバス停や駅への行き来もひとりで行きます。舗装道路に穴が開いているなんてこともなく、大きな道ならば歩道もあり、事故の心配はあまり感じません。
つまり、いわゆる“先進国”のほうがいわゆる“途上国”よりもバリアフリー(今風にはユニバーサルデザインですか?)の整備が進んでいて、東京ではその恩恵をしっかり感じることができるのです。
バリアフリー未整備なプノンペン、でも東京より気楽な面もあります
次に、バリアフリー未整備のプノンペンですけれど、車イス者としてプノンペンのほうが東京よりも気楽だということも多々あります、というお話。
それはレストランに行ったときに特に顕著です。
東京であれば、そのレストランが車イスで入店可能かどうか、調べてから出かけることが普通です。インターネットの食べログなどのページから写真を見て、店の入口や店内に階段や段差があるかどうかを確認します。そのうえで、店に電話をかけて車イスでの入店の可否を確認することもします。電話をする以前に、写真の段階で「無理!」と判断することも少なくはありません。
数多くのお店がありますから、ダメな店があっても他の店に行けばいいのですけれど、それでも入れなくて「残念だなぁ」ということもよくあります。店の前まで行って入店を断られる例も、これまで何回かありました。中には、嫌ーな気持ちになるときもあります。
日本国で2016年に施行された障害者差別解消法(正式名称:障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)によれば、レストランなどの事業者は施設の障害者などの利用に対して「合理的配慮義務」を負うとされています。そしてその「合理的配慮義務」とは、「実施に伴う負担が過重でないとき」とされています。何をもって“負担が荷重”とされるかどうかは多くの議論があります。そして、先に書いた「嫌ーな気持ち」とは、(あくまでこちらの)常識的な感覚としてそれほど負担とも思えない支援すら拒否されるようなケースです。店内のちょっとした段差を理由に入店を断られるような事例です。
中には「公共の場所であればいざ知らず、個人店の責任者(オーナー?)が拒否して何が悪い?」というような人と出会ってしまったこともあります。そういう価値観でお店をやられているというのであれば、その旨ぜひ公表してお店をやってほしいぐらいのことは言いたくなります。たとえば、「ドレスコード」を明記したり「子どもの入店禁止」を公表するのと同様に、「障害者お断り」「車イスお断り」と書いてくれということです。もちろん、そんなことをすれば地方自治体や国家の関係機関から報告要求・助言・指導・勧告が行われる可能性が高いのですけれどね。信念があるならチャレンジしてよ、と思ったりもします。
店の都合によってドレスコードを定めるのは良くて、障害者入店お断りはなぜ良くないのか、わからないという方、実際にはどれぐらいの割合でおられるのでしょうね? より良い社会であれば、そういう法律ができたからなんて野暮を言い募る必要はないわけで。
でね、まさに「法律はあるものの、その運用でイライラする」というストレスがないのがプノンペンです。これまで外食で、段差などを理由に入店を断られたケースは、今すぐに思い出せません。思い出せないということは、おそらく嫌な思いをしたことはなかったのではないかしら?ですから、どこかのレストランで約束があったとしても、事前にお店の写真を調べるようなこともしないですみます。行ってみて、入れないなら支援を頼む。お店の人か、通りがかりの人か、誰かが必ず助けてくれます。これはプノンペンに限りません。“途上国”としては、ルワンダでも同じように感じました。たとえば、エレベーターのないホテルでも、スタッフが階段を車イスごと担ぎ上げてくれました。
日本でも困っていれば「誰かが助けてくれる」ことは多いです。けれども、そこには微妙な差を感じるのです。日本だと、どういうわけか「申し訳ないなぁ」感が伴う。カンボジアやルワンダだと、それがない。
日本で支援される際の「申し訳ないなぁ」感の背景は見当がつきます。「他人に迷惑をかけるな」という価値観を私も確実に内包しているから、そういう感情が沸き上がってくるのです。
ならば、なぜそういう「申し訳ないなぁ」感が途上国では感じないのか。ひとつの仮説は「他人に迷惑をかけるな」という価値観を共有していないという安心感がある、というものです。最近は私自身はその価値観を捨てつつありますけれど、とにかく障害者の初心者マークを付けていたときには「迷惑をかけるな!」が私の心の中にもそこそこ強くありましたね。そして、海外に出かけると日本社会に根強く存在する「迷惑をかけてはいけない」という価値観の縛りから放たれるのかもしれない。日本社会の外にいるという安心感が、自分の心の中に巣食っていた「迷惑をかけてはいけない!」という価値観から自由にしてくれる。だから海外で他者に支援を頼んでも「申し訳ない」と思わないですんでいる、というのが最初の仮説です。
さらにもうひとつの仮説も浮上します。それはもしかして、途上国だと「手伝ってもらって当然」という、私の中のぬぐい難いアッパー感があるのかも! これは改めて自分の内面をよーく見つめてみる必要はあるのかな。もし私の中のアッパー感(つまり、自分のほうがカンボジアの人たちよりもちょい上に位置するという感覚)があるとすれば、それはおそらく今後戦わなければいけない無意識化された価値観ということになります。
ただ、人に支援をお願いして「申し訳ない」と思う感情の有無に、幸いなことに、最近は場所も相手も選んでいないように自己分析しています。必要ならば、いつでも誰にでも頼む。もしかして、「援助してもらって当たり前」という障害者としてのアッパー感が増しているということなのかな??? だとしたら、それは問題なのかどうか???
周りに人がいると下がる親切指数??
加えて、最近のご時世では、特に先進国ではこの「人に支援を頼む」もなかなか微妙なことがあるように感じます。支援中に何か事故が起こったときの責任が問われたりすることがあるらしいのです。なんというか、少々世知辛い世の中になってきているということなのです。
車イスで海外に出かけることが多い方のホームページによれば、飛行機のタラップを昇る際に飛行機会社のスタッフは「支援中に事故が起こった場合、責任が取れないから」という理由で、支援してくれなかった事例が紹介されていました。歩けない障害者を抱きかかえてタラップを昇ったとして、途中でその障害者を取り落としてしまったらどうする、というわけです。不幸にもそれが負傷事故にでもなったら、たとえ善意の介助だったとしても法律的な責任が生じる、つまり補償金の支払義務が課せられる、と。だから、そういうリスクをあえて負うことはしないというのが、少なくとも企業的な考え方になるようなのです。
これはねぇ、確かになかなか微妙な課題です。善意でしてくれたことから生じた事故に対して、怪我した側がどう対処するかも問われるわけですよね。おそらく多くの場合は、気にしないよで済むのでしょうけれど、実際に訴訟が起こったりするケースもある。やれやれだよなぁ。
それでも、車イスで旅行したカナダでは多くの人の支援を受けました。まずバリアフリーが整備されている。さらに、何も言わなくても当然のように支援してくれる。たとえば、電車やバス、さらにはエレベーターに乗り込む時、車イス者の私が待っていれば必ず周りの人は「お前が最初に乗れ」と私に道を開きます。直接の支援ではないかもしれませんけれど、周りの人から自分の障害をちゃんと認識してもらっているという安心感がありました。
残念ながら日本社会では、バリアフリーが発達していても、カナダで感じられたような安心感は感じられない。乗り物への乗車の際、ほとんどの場合、健常者の人たちは車イス者が横にいてもおかまいなしにどんどん先に乗車します。これ、例外的なことがあって、待っている健常者がお一人のときは、かなり高い確率で「お先にどうぞ」と道を譲ってもらえます。ところが、健常者が多数になると、もうそれは期待できません。
この傾向はいろんなときに起こります。多数になると親切心を発揮するのに勇気が必要になるってことなんですよね。例外を好まない社会の特性なのかしら。とにかく、興味深いです。
バリアフリー整備は突破口に過ぎない。期待したいのは見も知らぬ“あなた”の支援
それでも、ここ20年間で日本のバリアフリー整備はとても進んでいます。たまたま見つけた国土交通省の資料鉄道:鉄軌道駅及び鉄軌道車両のバリアフリー化状況 – 国土交通省 (mlit.go.jp)によれば、平成13(2001)年時点で、JR、大手民鉄、営団・公営地下鉄 の1日あたり5千人を超える駅での「段差解消措置が取られている駅」の割合は32%でした。それが令和2(2020)年では95.6%となっています。
【筆者注:資料によれば、この「段差解消措置が取られている駅」とは、「エレベーターなどの設備により、乗降場ごとに、高齢者、障害者等の円滑な通行に適する経路を1以上確保している駅をいう」とのことですから、エレベーターではなく階段昇降機や車イス対応エスカレーターなどの措置も含まれているでしょう。そして、階段昇降機や車イス対応エスカレーターなどは、その利用に駅員さんの支援が必要になり、駅員さん&車イス者のどちらにも負担(特に時間!)がかかる、けして楽ちんな措置ではありません。また経路によっては、歩行者の経路と比較してかなりの遠回りが必要となることもまだ多いのです。つまり、この数値で満足できるものではけしてない。さらには、障害者にとって恐ろしいのがホームで、ホームでの転落事故を防ぐ整備はまだまだ不十分です。それでも、とにかくバリアフリー整備が進んでいるのは確かなようで、それはないよりマシなのは、もちろんのことです。】
さらに、あなたが日本で暮らしているとすれば、おそらく駅のホームで駅員さんがホームと電車の間に簡易式のスロープを設置して、車イス者が乗降車するのを見たことがあるのではないでしょうか。あれもありがたいバリアフリー対応です。
ただ、私、最近はあのスロープ支援を一切使わなくなりました。理由は、やはり待つ時間が長いからです。あれ、乗車だけではなく、降車の手続きも一緒に取るのが普通です。目的駅の支援確認を取ってから乗車支援をしてくれます。もちろん、ありがたいことなのですけれど、その確認のために数本の電車を見送らなければならないこともよくあります。
さらに都内であれば、新宿駅、渋谷駅、上野駅、東京駅などの大きな駅では、今は駅員ではなく障害者支援対応のスタッフが外部委託されています。これもありがたいことなのですけれど、それでも休日等になると利用者と支援スタッフの需要と供給のバランスが取れなくなっていることが多いのです。支援が必要な利用者が多い時間にぶつかると、小一時間待つこともあるのです。小一時間がオーバーなら、30分強ならより現実度が増すかな。これ、私自身の経験ですからそこそこ信頼できる情報です。改札口で支援をお願いしてから30分待つって、なかなか長いですよ。そのうえで、ホームに行ってからさらに数本待つ。休日でも平日でも夕方に上記の大きな駅で支援をお願いするならば、乗車まで小一時間は必要と見て予定を立てないといけないのは本当にそうなんですよ。
そういうことが背景にあって、最近は私は改札口で「支援いらないです」と伝えてホームに上がることがほとんどです。数センチの段差であれば、今の私はラッキーにも支援無しで乗車できます。段差が10センチ近く、あるいはそれ以上あって一人での乗降車が怖い場合は、周りの人に支援をお願いしています。これまで支援を断られたことはほとんどありません。こちらから声を上げれば、必ず誰かが支援してくれます。もしホームに誰もいなかったら??? そういう経験はこれまでありません。けれどももし遭遇すれば、その場合はおそらく最後部の車両前に待機して車掌さんに支援をお願いするでしょう。あるいは、扉が開いたときに車両内の乗客に支援を頼むかな。それでも誰かが支援してくれるものです。おっかなびっくりでも、車イスを支えて押してもらえるのはとても助かるわけで、特に介助に経験豊かでなくとも誰でも大丈夫です。
このやり方をできない障害者・車イス者も多いということも、しっかり書いておかなければ。電動車イス者であれば、車イスがどうしても重いことが多いのです。となるとスロープをつけてもらうのが絶対に安全です。さらに、多少時間がかかっても介助担当スタッフにお任せしたほうが、ホームで見ず知らずの人に声をかけて「迷惑をかける」よりも気が楽だと思う人も多いはずです。
ここで書きたいのは、つまり「私にとっては」身の回りの見ず知らずの人たちの支援に期待することが、とても重要な生活する術になっているということです。そして、それが期待できるとすれば、実は多くのバリアフリー施設はあくまであったほうがいいものであって、なくともそれなりになんとかできるものなのです。
たとえば、今プノンペンを走っている公共バスが低床式であったとすれば、おそらく私は介助者なしで公共バスを使って市内に出かけるだろうと思います。低床式バスであれば、たとえスロープがなくとも車イスのまま数名(4名いると楽)に抱えあげてもらってバスに乗ることができます。大人なら女性でも介助が可能です。
現状の(日本と中国が無償支援した!)高床の公共バスにのるためには、車イスに乗ったままの乗車はできません。誰かに抱きかかえてもらって高い3段ほどある階段を通って乗車するしかない。その場合、車イスを折りたたんでそれも積み込まなくてはいけない。車イスの折りたたみはけして難しくありませんが、まったく経験のない人にとってはちょいやっかいです。さらに降りるときも同じです。これはなかなか大変な行程で、支援される側も介助する側もそれぞれ負担がかなり大きい。ということで、私は今のところプノンペンの公共バスを使う選択肢はないのです。ざんねーん。
つまり、バリアフリーって完全ではなくとも、少しの整備によって突破口にはなるのです。その突破口があれば、あとは見知らぬ人たちの支援が期待できる。
車イス者によっても必要な支援は千差万別。もちろん障害があって皆様の支援を必要としているのは車イス者だけではありません。一見しただけで障害が明白な車イス者というのは支援してもらいやすい障害者であって、ぱっと見だけでは障害のわからない人も多くいる。
健常者の方々には、心の片隅でいいので「支援を請われたら対応しよう」という心積もりを持っていただけたら嬉しいです。見守るだけでも、それは支援になります。そして何かあったら、ちょい手を差し伸べてくれたらとっても嬉しく助かるわけです。
どうぞよろしくおねがいします。


















先輩…こんにちは❗️。^ ^
村山さんの下半身の障害。プノンペン社会の未熟?な社会設備・医療体制。故に村山さんには過酷な生活が強いられていることをお察しします。
さて、今回のお話で私がとても興味・関心を持たせて頂いたのが、レストランでの押し問答…入店の可否です。
プノンペンのイージー♫社会。日本のギスギス社会。
どちらがいい悪いではなく、プノンペンが日本のようになってはいけない…生産・効率・利潤だけが尊重される社会になってはいけないと思います。
私は、何か障害者として社会の既成価値・世界観をぶっ壊すような凄いものを想像したいとか極々極々たまに思う事が無いこともないかもしれません。
メタバース・ウェブ2.0…村山さんにも私自身にも、私達障害者に広がる世界はまだまだ捨てたものではないと、私は信じています。
匿名様 いつも読んでいただきありがとうございます。
「過酷な生活が強いられている」ってことはないんです。過酷ってことは、ないのよ。
インターネットの恩恵というのは、外出がままならない者にはとっても大きかったなぁと改めてつくづく思います。
レストランや施設の入店可否については、おそらくあっちこっちにたくさんのエピソードがあるでしょうねぇ。
ひどいなぁって事例も、人のふり見て我が振り直せ、ってことなんだろうと思っています。
「私達障害者に広がる世界はまだまだ捨てたものではない」、はい、その意気や良し!でありますね。
村山哲也
世の中では障碍者とか健常者とか言われますが、要は社会の中で共同生活者です。お互いに声を掛け合える関係を創れる社会でありたいですね。言うまでもありませんが、バリアフリー化などに尽くすことは事業者として当然の責務です。和和2年の段階で95.6%という数字は生活感覚としてどうなのかなあというのが小生の率直な感想ですね。ホームドアなどの設置もドンドン進めてほしいです。みんなが安全に利用するための必要なコストです。運賃に反映させて当然のコストだと思います。
小野久先生 いつも読んでいただきありがとうございます。
「令和2年の段階で95.6%という数字は生活感覚としてどうなのかなあ」、そうですか。
紹介した数字は、一日の利用者5千人以上の駅が母集団の数字です。利用者5千人未満の駅の利用機会があると、「どうなのかなぁ」という感覚が生まれるかもしれませんね。
視覚障害のある人がホームから落下したとか、電動車イス利用の高齢者が踏切で立ち往生したとか、そんなニュースが一切なくなるといいなぁ。
村山哲也