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2021年4月から2年間、全国脊髄損傷者連合会が発行する会報誌「脊損ニュース」が『世界は開いているから仕方がない』というタイトルで私が書いた連載を掲載していました(当ブログの2023年3月での投稿で読めます)。
そして、さらに2023年4月から2年間『続・世界は開いているから仕方がない』として連載は続きました。その連載24回がこの度終了しましたので、ブログで3回分ずつ掲載します。今回は2023年10月~12月です。
連載執筆中の7月に、敬愛する立岩真也さん(社会学者)が急逝されたのです。障害を得る(2014年)以前、非健常者だった私のアンテナに立岩さんが引っかかることはなかった。けれども障害を得た後、特に漁ることもなく、当たり前のように立岩さんの著作とは出会うのです。それほど彼はポピュラーな存在なのです。
ベッドの上で彼の本を読んで、私は新たな価値観を語る言葉を彼から学びました。彼は私にとって先生であった。ですから、その早逝のニュースが飛び込んできて、私はかなり狼狽したのです。
そのためこの時期の連載は、当初の予定を変更して立岩先生のことばかり書いています。
文中、“立岩さん”と“立岩先生”が混在しています。直接のご指導を受けたわけではない点では、立岩さんなのですけれど、でも私にとってはやはり彼は先生でもあります。そんなわけで、文中で特に統一はしていません。
10月/第7回 社会的弱者も支援を受けて生きてよい 立岩真也先生のこと
この連載、脊損ニュースに掲載される2か月まえに原稿を事務所に送付しています。この10月号を書いている8月、突然立岩真也さん(社会学者/立命館大学教授)の訃報が飛び込んできました。62歳です。とても悔しい!!
2014年夏に事故にあい障害を得るまで、私は立岩さんのことを知らないままでした。健常者世界から突然障害者世界にやってきた私は、リハビリテーションの日々を過ごしているベッドの上で、障害関係の本を読み漁った。そうすれば、どうしたって立岩先生の著作に巡り合うのです。彼は、21世紀の障害者世界に強い影響を与えてきた人だったのです。どうしたって巡り合ってしまうのです。
彼は学者ですから、当然、研究が仕事です。その研究を通して、彼は「社会的弱者も生きればいい。周りはそれをサポートすればいい。サポートする資源はこの社会には十分にある」ということを明らかにしていったのです。つまり、世間でよく言われる《少子化により(老人を含む)弱者支援の福祉に予算を割くことは難しい》という言説は、嘘だ!ということを暴いた。
けれども、どの業界もそうですけれど、最先端の研究というのは簡単に世間に広まるモノではありません。それに最先端の研究というのは難しいのが相場です。専門家のあいだでは流通しても、なかなか一般人の口の端に上ることはない。ですから、これを読んでいる方々の中にも立岩さんをご存知ない方がきっといるでしょう。
障害者世界の新参者だった私にとっても、立岩先生の研究をその真髄まで理解できたわけではありません。彼の著作を知ってもうすぐ10年経つわけですけれど、今になっても彼の主張を自分の口で説明するのは簡単でない。
でも、彼の「弱者も淡々と生きればよい、必要な支援は社会が粛々と提供すればよい」というメッセージは、障害者になった私を猛烈に勇気づけてくれたのです。ですから、立岩さんは私にとって“先生”なのです。彼から学んだこと本当に大きかった。
私自身は立岩先生にお会いしたことは一度もありません。インターネットでのセミナーなどで彼の姿・話しぶりに接したことはあります。とても誠実な方であることはそれでもわかる。また、障害世界に入って知り合った方々の中には、立岩先生の直系のお弟子さんもおられます。彼らからも先生のお話はよく聞いていました。(注 仕事のできる学者という人たちが、傍から見て奇人変人であることはけして珍しくない。立岩先生もかなり異動の人でもあったらしいのです。ですから彼の行動が迷惑?不愉快?を巻き起こしたこともあったらしい。けれども、そんな話をうかがっても、根本のところで彼が誠実な人であったという私の判断は、今のところ揺らいでいません)
立岩先生ご自身には特に障害というものはなかった。健常者世界の人でした。けれども、彼の研究室には重度障害のある方から障害者支援に携わる健常者まで、幅広い分野から学徒が集まっていました。ご自身の研究に加えて、数多くの研究者・先駆的当事者・支援者、つまり「社会的弱者の味方」を世に出してくれたこと、それも立岩先生の大きな成果だったのです。彼の死は、辛い。でも人は必ずいつかは死ぬ。立岩先生、本当にありがとう。
以下、読みやすい順に代表的な著作をご紹介します。(図書館では出版社の違う古い版が見つかることもあるかもしれません。もちろん、古い版でも問題なしです)
『人間の条件 そんなものない増補版』(新曜社2018)
『介助の仕事 街で暮らす/を支える』(筑摩書房2021)
『良い死/唯の生』(筑摩書房2022)
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』(生活書院2017 共著)
『弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術 増補新版』(青土社2019)
『私的所有論 第2版』(生活書院2013)
写真:秋桜(コスモス)

11月/第8回 社会的弱者も支援を受けて生きてよい 2 立岩真也さんの言葉から
【】内の言葉は、7月末に急逝した立岩真也さんの言葉をhttp://www.arsvi.com/ts/20100028.htm 2010年11月1日の講演から直接引用しています。
【ぼくは、何が気になってものを書いているかっていうか、何を言いたくてものを書いているかというと、多分、ほんとに一つだけのことで、この世、われわれが住んでいるこの社会っていうものは、「できる」ということがあって、「できない」ということがあって、「できる」と「得をする」、「できない」と「損をする」というか、「生きていられない」という、そういうふうになっているわけですよ。それが、ぼくには、どうしても、なにかいいことだと思えたことがなくて、でも、それがいいと言う人もいるので、そのことについて、「いや、ぼくは絶対そう思わない。」ということをどういうふうに言ったらいいのかということを考えてものを書いてきたら、30年ぐらい経っちゃったみたいなことなんですね。】
中途障害を得るというのは、多くの場合「できていた」ことが「できなくなる」ということです。だから、つらい。特に健常者のときに「できること」でたくさん「得してきた」人は、障害を得て出会う「できなくなる」という現実をなかなか認め、肯定することができない。そんな人ほど、支援を受けることにも素直になれない。恥ずかしがったり、惨めに思ったり。
それでも障害を乗り越えて「生産性」を維持できる人もいる。そのことが生きる支えになる。それはとりあえずは素敵なことです。
でも、そのことで「生産性」を取り戻せない障害仲間への優越感が生まれていたりしないか?寄り添うべき「側」を見誤っていることはないか?
【障害って、簡単にいえば、できないってことです。どうしようもなくできなくて、でも、生きたい人がいて、そういう人たちとか、その人たちを支える人たちがいて、そういう人たちがどうやって生きていくかってことをちゃんと考えている人たちっていうのが、ぼくの前にいてくれて、だから、その人たちが言ったことを、なんか言葉を足して言うとどういうふうに言えるかってことを、ぼくは多分言ってきたんだろうと思います。だから基本は簡単です。「いのち観」っといったら、生きているんだから生きさせろ、みたいな、それだけです。】
生きている「私」や「あなた」が生きるのに支援が必要であれば、それを提供する仕組みをつくればいい。それなのに、世の中、どういうわけかそれに反することを考えたり、言ったりする人たちが絶えない。ちょっと不思議です。
立岩さんは、制度を作る側の官僚や政治家たちを「具体的なレベルで、本当に知らないんです。あきれるほど無知だ」と評している。そしてそれは、健常者時代の私たち中途障害者にも当てはまる。私は障害世界のことに関して、かなり無知でした。あなたはどうでしたか?
【「いのち」ってことについては、「生きてるんだから、つべこべ言うな」ぐらいのことしか言えない、言わなくていいと思うんですよ。】
写真:雨の後のエノコログサ

12月/第9回 社会的弱者も支援を受けて生きてよい 3 立岩真也さんの言葉から
(以下、強調斜字は立岩真也さんの書いたモノから、ごめんなさい、今回はスペースが足りなくて出典略します)
《少子化で若者(税金を納める人)のまわりを、多くの弱者(老人や障碍者や)が取り囲んでしまう社会が現出する。生活力を持たない多くを養う勤労者はどんどん減少していく。そういう大変な時代を日本社会は迎えている》
こんな言説が、社会にはあふれかえっています。けれども、それは事実に反している。そう主張したのが7月に急逝された立岩真也さんでした。
詳細は本連載7回目で紹介した彼の著作に書いてある。けれど、なかなかそこまで読めないですよね。そこで、彼の主張のほんの一部を今回もさらに紹介します。
まずお金はさておき、人を支えるための人が少なくなってやっていけないという見通しは事実と違うことを彼は言っています。60歳以降だって働ける。実は働きたい家庭内家事労働者(専業主婦や)も少なくない。その観点から、日本社会で労働者がすぐに足りなくなると簡単に言えるわけではない(注:立岩さんは、みんなもっと働け、ということを言っているわけではありません)。
お金についても、立岩さんは具体的な方策を示しています。ごく簡単に書けば、「問題ははっきりしている。問題は人口の問題ではない。問題は分配の問題である」ということです。
お金はある。それをどう集め、使うか。例えば、「直接税の累進率を以前並みに戻すこと」は選択肢だと立岩さんは書く。累進課税率は、21世紀に入って現在まで下がり続けているのです。
【このように言うと必ず言われるに決まっていることもある。つまり、以下のように言われる。人が足りない、お金が足りないのだが、平等主義は生産を停滞させる。労働や投資への「インセンティヴ(動機)」を得るためには格差が必要である】【ここに「国際競争力」がもってこられる。この世界でやっていくには甘いことは言っていられないというのである。この話が大嘘だと私は思わない。だがここからが考えどころだ。この状況を定められたこととして、それに乗るしかないのか。私はそう思わない。といった話は、また別のところ、例えば『希望について』(青土社、2006)に収録された文章に書いた】
とにかく、今大切なのは【私たちの多くが前提してしまっている不安・危機感について冷静になり、考えて、落ち着かせる】ことでしょう。【変化をうまく乗り切ればなんとかなる。なんとかなる根拠はいくつもある】と彼は書く。あとは、政策次第で、つまりは有権者の投票次第ということ。
【平等のために税金を払わせることが自由を阻害するということだろうか。払う側の人については、それはそうだと認めるとしよう。しかし、そのお金が別の人のところに行って、その人の自由が増すなら、差し引きは同じかもしれない。むしろ多くの場合、お金を多くもっている人にとってのある金額と、もっていない人の同じ額とでは、後者の方が大きな意味をもっていて、多いところから少ないところに回した方が、より大きな自由を実現するとも言える】
そんな彼の考え方を、皆さんはどう受けとめるのでしょうか? 私は、好きなんです。
写真:葉の落ちた蔓の細枝に華やかな雨粒たち

2025年3月追記
立岩さんの考えについて、上記の3つの記事でさらっと紹介してはいるのですけれど、読み直してみると、やっぱり本当にさらっとなのだよなぁと感じます。しかも、彼の書くモノ、話し方には彼独特の言い回しがあり、それをちゃんと読み込むには集中力が必要になる。慣れたほうが読みやすい。ですから、こういう短い場所ではとても扱いにくい“人”。
とにかく、ぜひ機会がありましたら立岩さんの著作に触れてみてください。いわゆるインテリ臭もきつい部分のある文章ですけれど、読み慣れるとその文章は理路整然としていますし、その背景には優しさがある。その優しさが彼の本質のような気がしています。
以下に彼がお気に入りだったというお写真を無許可ではっておきます。立岩さん、こういうお顔の方でした。皆さま、ぜひ80歳ぐらいまでは生きましょう。62歳は、やっぱり早いよ。



















ひとには出会いの縁というものがあるような気がします。70余年生きてきてそういう実感を持ちます。立岩信也氏は村山さんにとってまさにそういう人だったのでしょうね。立岩信也氏の言葉、
『弱者も淡々と生きればよい。必要な支援は社会が粛々と提供すればよい。』
は気負いのない言葉ですが社会的存在としての一人ひとりの人間に向けられた本質的な重い言葉だと思います。障がい者であろうが、障がい者でなかろうがそのことに無関係に社会的存在としてのすべての人に向けられた重い言葉だと思います。道を歩くとき、バスに乗るとき、電車に乗るとき、仕事で机の前の椅子に座るとき、ご飯を食べるとき、談笑するとき、生きて存在するときに心の何処かに置きたい言葉だと思います。
村山さんの御投稿を拝読するという縁に恵まれて重い言葉に出会いました。