インド亜大陸からインド洋にこぼれ落ちる水滴のような形をした島スリランカは、一九四八年にセイロンとして英国から独立した。シンハラ語を母語とする人たちは上座部仏教徒が多く、独立当時から人口の七割を占めるスリランカの多数派だ。人口の二割を占める少数派がタミル語を母語とする人たちで、ヒンドゥー教徒が多いけれど、イスラム教徒もいる。歴史を遡れば、シンハラ人は北インドから流入し、それに遅れてタミル人は南インドから渡ってきたとされている。これらの移住は紀元前から起こってきたことで、古くからスリランカに暮らしているタミルの人たちを、最近にインドから移住してきたタミル人と区別して、スリランカタミルと呼ぶこともある。二千年の時を超えて共存してきたシンハラとタミルのいがみ合いが表面化したのは、英国による植民地政策でタミル人が優遇されたことにあるという。これは、ぼくが後に働くルワンダでベルギー植民地時代に少数派のツチの人たちが優遇され、独立後の紛争の原因になったことと似通っている。民族問題が往々にして欧州の植民地政策をきっかけにしているのは、帝国主義のしょっぱい負の遺産だ。
独立後は、多数派を占めるシンハラ人が主導する政府がスリランカのシンハラ化を進め、その結果タミル人が多い北部および東部での分離独立運動が起こる。この分離独立運動は1980年代には民族間紛争として内戦化し、大きくはない島で長く激しい戦いが続いた。
1995年夏、大学院生だったぼくは見習い助手としてスリランカで行われた日本のODA実施機関が行った教育セクター調査に潜り込み、スリランカの最大都市コロンボに一ヶ月滞在した。
ぼくのスリランカ滞在中も、タミル過激派の本拠地である北部の都市ジャフナを政府軍が激しく攻撃していた。スリランカとほぼ同じ大きさの北海道に置き換えれば、帯広で激戦が続いているときに、札幌や函館で調査を実施していたようなものだ。私が調査を終えた一月ほど後にはジャフナは政府軍に制圧され、翌年1月にはタミル過激派の報復で、コロンボ市内の国立銀行が特攻自動車による自爆攻撃を受け92人が亡くなった。この国立銀行の前をぼくは毎日往来していた。泊まっていたホテルも、この爆弾で大きな被害が出た。事件がぼくの滞在中でなかったのは、たまたまのことだ。
ところで、スリランカにはアラックと呼ばれる蒸留酒がある。アラックとは広くは中近東や北アフリカのアラビア語圏でブドウなどから作られる蒸留酒を指すけれど、スリランカでアラックといえばヤシからできる蒸留酒だ。
酒類には、大きく分けて醸造酒と蒸留酒がある。酵母の力をかりて糖分をアルコール醗酵させてできるのが醸造酒で、その醸造酒を蒸留してアルコール分を抽出してできるのが蒸留酒だ。大雑把な書き方をすれば、ブドウから作られる醸造酒がワインで、ワインから作られる蒸留者がブランデー。麦の醸造酒がビールで、その蒸留酒はウイスキー。米を醸造すれば日本酒で、それを蒸留したのが米焼酎になる。
蒸留酒であるアラックにも、その前身としてのヤシ醸造酒(以下、ヤシ酒)がある。ヤシ酒はヤシの花穂を切り取った部分から出る樹液を醗酵させて作るのが一般的で、スリランカに限らず広く熱帯地方で作られている。このヤシ酒を蒸留したものを、ウイスキーのように樽につめてまろやかに熟成させたものが、スリランカ特産のアラックとなる。ぼくが楽しみにしていたのは、このアラックの原料となるヤシ酒だった。ガイドブックによれば、スリランカではアラックに蒸留する前のヤシ酒が、地産地消されているらしかった。高級アラックであれば日本でも入手可能だけれど、地元で消費されるヤシ酒は現地でなければ味わえない。
もちろん見習い助手の立場で、ヤシ酒を求めて勝手に動き回れるわけはない。調査団の人たちについて教育省や学校現場を周りながら、ぼくは静かに機会を待った。
調査団には現地に詳しい教育コンサルタントとして、シンという名のスリランカの専門家男性が加わっていた。シンというのはシンハラ語で獅子、ライオンという意味で、この名を持つのは高貴な家柄の人たちなのだと聞いた。
40代後半だっただろうシンさんは、長身痩躯をいつもお洒落で高級そうなスーツできっちり決めていた。糊がパリッときいた白いワイシャツの袖に光るカフスボタンが、彼の身だしなみへのこだわりと生活の豊かさを象徴していた。ある日、ぼくはシンさんとふたりだけで車に乗り込むことになった。日本人関係者のいないときを待っていた私は、さっそくシンさんにヤシ酒を飲むにはどうしたらいいか尋ねた。
ヤシ酒と聞いてシンさんは顔をしかめた。どうも、シンさんはヤシ酒が好きではないらしい。コロンボの場末で夕方に飲めるところがあるだろうけれど、なぜあんな肉体労働者が好む安価なものをわざわざ飲みたがるのか、というのがシンさんの回答だった。ヤシ酒が飲みたいのだったら、アラックを飲めばいいじゃないか、下手なスコッチウイスキーよりもよっぽど舌にまろやかだとシンさんは勧めてくれた。
そうか。地産地消である以上、都市コロンボでヤシ酒を飲むのは確かに難しいのかもしれない。しかも、どうやらヤシ酒というのは「下層な人が飲む下品な飲み物」らしい。少なくとも、シンさんはそう思っている。そうなれば、ますます飲んでみたくなるじゃないか。
ここで登場するのが、調査団が雇いあげた乗用車の運転手のバラという名の男性だ。バラさんはぼくよりも一回りほど年長のタミルの人だ。

シンさんにヤシ酒について尋ねた数日後、ぼくはひとりで南部の町ゴール近郊の教員養成学校の視察に出かけることになった。運転手はバラさんだった。運転手とふたりきりならば、私はいつも助手席に座る。コロンボを出た辺りで、バラさんが「ヤシ酒を飲みたいのか」と横に座るぼくに話しかけてきた。彼は、シンさんとぼくとの数日前のやり取りを、運転しながら黙って聞いていたんだ。
「この時間なら、多分大丈夫」というようなことをいって、バラさんは国道から離れて、海岸沿いの小さな村に入っていった。車を停めて村人に何やら尋ねると、その村人の指差す方にハンドルを切る。そしてヤシの木が数本生えている場所で車を再び停めると、バラさんは外へ出た。もちろんぼくも続いた。ヤシの木には、かなり高いところにそれぞれの木を繋ぐようにロープが横に渡してあって、木から木へそのロープを伝って人が移動できるようになっている。見上げれば、その木のひとつ、葉が茂る最上部のあたりに、ひとりの男性がへばりついていた。
今でこそ、フィリピンでもカンボジアでもヤシ酒を楽しんでその製造過程も知っているぼくだけれど、そのときはヤシ酒の原料がなにかもよく知らなかった。聞けば、樹上の男性はヤシ酒を採っているところだという。バラさんが呼びかけると、やがて男性はするすると降りてきた。腰には竹製の50センチメートルほどの筒を何本もぶら下げている。しばらく男性となにか話した後、バラさんは持っていた市販のペットボトルの水をその場に捨てた。そして、空になったボトルに、竹筒の中の少しだけ白濁したような液体を入れてもらう。500ミリリットルのボトル数本がその液体で満たされた。バラさんが自分の財布からいくらかのお金を男性に支払う。慌てて私が自分の財布を取り出してバラさんに渡そうとするのだけれど、彼は笑って受け取らない。このボトルの中の白っぽい液体がヤシ酒だという。しかし、男性は単にヤシの木に登って、そこでなにかの液体を採集していただけだ。ヤシの樹から直接酒が出るはずはないのに、どういうことだろう。
さっそく試してみる。確かに酵母で醸し出されるアルコール臭がかすかにある。恐る恐る口にしてみると、ココナツ果汁と似たような甘さがある一方、酵母の発酵臭が強く鼻に抜ける癖のある味だ。アルコール度はビールよりも低い感じ(後で調べるとせいぜい2~3%ぐらい)。これは確かに現地でなければ味わえないいかにも生の味だ。運転席ではバラさんも美味しそうにボトルをぐい呑みにしている。正真正銘の飲酒運転だなぁ。でも、どうだ、うまいだろうと彼も楽しそうだ。
後で調べたところによれば、ヤシ酒採集者は、まず花芽を切り取り、そこに竹筒を据え放置しておく。やがて、樹液が筒の中にたまり、それが筒の中で自然に発酵し始める。筒を回収するときには、すでにほのかな酒となっている。買ったヤシ酒もペットボトルの中で醗酵し続けているので、油断してキャップを閉めっぱなしにしておくと、破裂することもある。
ふたりはゴールの町に向かいながら、数リットルのヤシ酒をすっかり飲み干してしまった。もちろん、これはバラさんとふたりだけの秘密だった。バラさんは、その後も何度かヤシ酒を飲みに連れて行ってくれるようになり、週末には自宅にも招いてくれ、インドカレーとはまた一風変わった趣のスリランカカレーの品々をごちそうしてくれた。
それから4年後、今度は学校校舎建設支援というプロジェクトの事前調査でスリランカにやはり一ヶ月ほど滞在した。そのときもバラさんと再会し、楽しい時間を一緒した。激しかったスリランカの内戦は2009年にようやく終結した。
どうして、戦争をしているシンハラとタミルの人たちが、一緒にコロンボで働けるのか不思議に思う人もいるかもしれない。戦争の前から、特に都会では両者が混じり合って暮らしてきた。過激派が反政府闘争を始めたからといって、すべてのタミルの人たちがそれを支持するわけではないし、シンハラの人たちもそれは判っている。もちろん、内戦が激化することで、都会のタミルの人たちに嫌がらせをするシンハラの人たちはいたのだと思う。でも、依然タミルと仲良くしていたシンハラの人たちも多かったはずだ。バラさんも、内戦を悲しく思っていたし、将来を心配してもいた。でも、彼も彼の祖先も、スリランカで産まれ育ち、どこにも逃げ出せる場所はない。彼の子どもたちは、学校でシンハラの子どもたちも一緒に学んでいた。想像できるかな。
少数派タミルのバラさん一家が、安心して暮らせるスリランカであることを、祈っている。
















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