可哀想(かわいそう)に、かなりつまずいた……なんでだろう?

今日のテーマは「かわいそう」。ですから、誰もぜーんぜん「かわいそうじゃない!」という写真を選んでみました。2018年3月吉祥寺にて

開発協力の場で感じた、医療は仁術、すてきな技術

 先日、父が癌で開腹手術を受けたことをちらりと書きました。おかげさまで、父は小康状態を取り戻し、先日退院し帰宅しました。あらためて、医療のありがたさを痛感しています。

 ケニアやフィリピンで働いていたとき、幼い子どものお葬式に出たことがあります。質のいい医療を受けることができたら、もしかしたら助かっていたかもしれない生命。
 あるいは、紛争地での緊急支援の場で実施される医療の大切さ、切実さ。海外協力にかかわっていると、やっぱり医療だなって思うときはありました。そんな場所で医療の重要さを感じた方が、30代40代になって医療に関わるための勉強を始めたというような例を聞くこともあります。
 わかるなぁと思います。
 ぼくがかかわってきた教育の支援というのは、緊急には優先順位は高くはない。人々に、社会に、ある程度の余裕ができたところで初めて必要になるものです。人の生命を救う医療が仁術(仁徳を他者に施すもの、仁徳とは他者へのいつくしみのこと)というのは、本当にそうだなぁと思います。
 先日も、カンボジアの若い人の夢を書いたものを読んだのですけれど、その中に「お医者さんになりたい」、その理由として「最近、家族の病気・怪我を治してくれたから、そんなお医者さんに自分もなりたいと思った」とありました。そうだよねぇ、ステキなお医者さんになってね、と思います。カンボジアでも、医者になるのは狭き門です。そして、「医者になりたい」という思いではなく、「テストの成績がいい者が目指すもの」みたいな考えが、やっぱりあります。

 もちろん、責任のとても思い仕事ですから、学力が必要なのは事実、そうなんでしょう。医者になった知人がいますけれど、そりゃ勉強、たいへんだったそうです。けれども、医は仁術という点から、医療が知識や技術だけのものではないのも確かです。ぼくたちがお医者さんと会うのは、弱っていて頼るしかないときです。今はセカンドオピニオン、つまりたまたま出会ったお医者さんの方針と比較してより良い治療を検討する、なんてことがよくいわれます。けれども、実際は、「先生にお任せします」なんてことが、多いんじゃないでしょうか。父もそうでした。多分、ぼくもそうだろうと思います。
 だからこそ、優しいお医者さんに会いたいなぁと思います。

 妻が日本で過ごして驚いたことのひとつは、病院や役所での丁寧な対応です。カンボジアではもっと「偉そう」だと。いやいや、おそらく日本も以前はそうだったんだよ、と伝えました。日本にも「お役所対応」なんて言葉がありますけれど、最近の役所の人たちは、とても親切に対応してくれる方が多くて、気が楽です。どんな経緯で、そういうことが一般的になっていくのでしょうね。
 見ようによっては、表面的な丁寧さが広がっているだけで、むしろ形骸化みたいなもの、「こうしていれば、いいのでしょ」みたいな感じ、どこでも「いらっしゃいませー、ポテトはおつけになりますか?」みたいなマニュアル対応が広がっているってことなのかな。
 別に、病院や役所で、「お客様は神様です」なんて対応は必要ないとぼくは思います。
 ただ、やはり「優しい」とか「丁寧」とか、ふつうに人と人のコミュニケーションがあれば、いいのだと思います。

「かわいそう」を真剣に考えてみました。

 さて、父の病気にあたり、最近「かわいそう」という言葉を何回か聞きました。病を得て手術を受ければ、それは苦しくしんどいことではあります。痛いとか、気持ち悪いとか、あるいはトイレに行くのも不便だとか。それを「かわいそう」と思う。さらには口にする。うん、ごく自然の感情ですよね。
 でも、ぼくは父のことを「かわいそう」とは全然思わなかったのです。近しい人たちが父のことを「かわいそう」と表現するのを聞いて、違和感すら感じていました。ときには「ぜんぜん、かわいそうじゃないよ」と“反論”すら試みてしまいました。

 ぼくが父を「かわいそう」と思わなかったのは、次のような理由です。

 病を得たことは、もう仕方がない。彼は80歳半ばの年齢です。そして、自分の判断で、退職後の20年間、まったく健康診断を受けてきませんでした。ですから、そのことで癌に気がついたのが遅れてしまった。でも、それはあんまり「かわいそう」って感じじゃないでしょう?検査を受けたくなかった彼は彼なりの感情があったのでしょう。80歳を越えた父に検査を無理強いすることはできませんでした。
 けれど、具合が悪くなって(大腸が癌で塞がれて、モノが食べられなくなり、短期間でかなりやせました)、ようやく検査を受けて癌が見つかったとき、彼には「手術」という選択が示された。そして、彼は自分でそれを受け入れた。そこは、ラッキーじゃないですか。
 そして、幸いにもその治療は今のところ成功し、彼は入院したときよりも「元気」になって退院しました。それも、すごくラッキーです。
 そりゃ、手術後、痛いとか、不便とか、あったでしょう。けれども、それはもう避けようがない。しかも、日々、そんな辛さは改善していく見通しもある。

 ぜんぜんかわいそうじゃないよーって思うんです。すごいラッキー。運がよかったねぇ、と。むしろ、「かわいそう」なんて言うのは失礼(何にだろう?)と思ったのです。でも、なんか周りからは共感されていない雰囲気だったなぁ。うーん、なぜかなぁ。

人工肛門や、胃ろうや

 先日、たまたまテレビの番組で、オストメイト(Ostomate)という「人工肛門をつけた人」という意味の言葉を知りました。「今度、オストメイトになっちゃったー」みたいに使えるわけですね。
 父の手術の際にも、もしかしたら人工肛門になるかもしれない、ということを聞いていました。そして、父の周りでは、もしそうなったら、ますます「かわいそう」という気分が渦巻いていたのでした(結果としては、父はオストメイトにはならずに退院しています)。

 その番組では、幼いオストメイトの日々が紹介されていました。そして、幼いオストメイトを励ます大人のオストメイトも登場しました。その方は、オストメイトとして、モデルをなさっていて、云々。

 たとえば、彼女たちに「かわいそう」という言葉はまったく似合わないわけです。彼女たちは、誰でもみんながそうであるように、日常を過ごしている。便の排出の仕方が、ちょっと違うだけ。オストメイトの方は、日本だけでも21万人おられるそうです。
 彼女たちに「かわいそう」という言葉は、むしろ失礼ですらあるとやっぱり思いました。だって、一般的にいえば、つまり多数派からの視点では、マイナスな状況にあるけれど、それを乗り越えて前向きに生きようとしている人に「かわいそう」って、むしろ彼らをマイナスな方向に引きずり込むみたいな感じがしません?「かわいそう」と思われたくない!って声が聞こえてきません?つまり、それは「かわいそう」じゃないんです。
 たとえば、米国で肌の色が褐色だから、かわいそうなわけじゃないでしょう? 肌の色が褐色だと、たとえば警察から暴力をふるわれる、そんな社会状況に問題があるわけで。
 いや、それでも「かわいそう」なものは、かわいそうだからって、ぼくの近しい人に言いそうな人もいます。だから、言わなくていいから。思うことまで止めることはできないけれど、それをあえて口にしなくていいんじゃない?

 父も、前向きに手術を受けたのだと、ぼくは思っています。そりゃ、残り時間は多くはないかもしれません。でも死は誰にでもいつかは必ず訪れる。だから、そのことを「かわいそう」なんて言い出したら、みんな最後はかわいそう。
 そして、手術後、「今日は100メートル歩いた」、「階段の登り降りをした」と語る父が、かわいそうであるわけがない。

 たとえば、ぼくの周りには「食べられなくなったら死ぬ」という人がいます。口から直接栄養を取れなくなった際に、「胃ろう」という治療手段はあります。けれども、その人は、胃ろうは絶対につけたくないと言う。
 それは、ゆるやかな自殺じゃないの?と、ぼくは思ったりもする。でも、その人は「私の人生、私が決める」と。それは自殺肯定じゃない?と、ぼくは言いたいけれど、でも、近しい人とあまり言い争いもしたくなくて、黙ります。

 医療の発達すべてを肯定するつもりもありません。他人の生命の犠牲を前提とする治療のなかには「無理してそこまで」と思うこともあります。一方で、医療の発展の恩恵をどんどん受けましょうよ、って思うことも多い。人工肛門も、胃ろうも、ステキじゃない。ほんのちょっとのことで、もう少しばかり(長くたって100年もないのよ)死ぬのを後回しにする。ぼくは、あなたともう少しばかりこの世界を共有したいよ、って思うのも余計なことなのでしょうか?

 そして、本当にたいしたことじゃないと思うのよ。人工肛門も、胃ろうも、車イスも。熱が出たときに薬を飲むように、人工肛門も、胃ろうも、車イスも、介護ベッドも、ごくごく自然に受け入れるようになればいい。そうすれば、「オストメイト?嫌です」なんて意識を持つ人も少なくなって、そうなった人たちも気楽に生きられる。

けっきょくさ、「かわいそう」って多数派が少数派に投げる言葉なんだよね

 「かわいそう」なんて言ってるよりも、ずっとそっちのほうが楽しいじゃないですか。「かわいそう」っていうのは、そういう選択肢が選びたくても選べない人に対してそっと心の中で囁くことじゃないのかな。「かわいそう」だから「かわいそうじゃない環境を作ろう」がセットになってない、つまり単独の「かわいそう」は、もうすぐに行き詰まっちゃう言葉でしかない。そんな言葉は、楽しくない。だから、あんまり聞きたくない。

 そうかそうか、わかった。「かわいそう」は「だから、かわいそうじゃない環境を作ろう」とセットじゃなきゃ、だめなんだ。「かわいそう」から脱出しようとしている人は、もう「かわいそうじゃない環境に向かっている」んだから、もうすでに「かわいそう」じゃない。
 そんな人に対して「かわいそう」という言葉を投げかけるのは、結局、多数派が少数派に対して「あなたは少数派ね」という意識を温存することになっているんじゃないかな。かわいそうじゃない自分を確認する?そうなの?

 そういうことで、みなさま、よろしくお願いします。ぼくは、胃ろうも、人工肛門も、必要ならつけようと思ってます。開発してくれた医療関係者の皆様、ありがとう。

2件のコメント

20年前に父を看取りました。12月の検診で異常がなく、1月に体調を崩したものですから別の病院で診察を受けたところ、余命2ヶ月とのこと。両親はお互いに延命治療はしないという話し合いをしていたようで、病名は伝えないものの、家で看取ることにしました。家で緩和ケアを受けながら10日あまりを過ごした後、旅立ちました。
これだけ医療が発達しているのだから、もっと積極的な治療を受けては?と思いました。10日の内、5日は宿泊し、夜中に父の襁褓を取り替えることもしました。父が口にした最後の食事は私が作った「鉄火丼」でした。父とは必ずしも良い関係ばかりではなく、少々こだわりもありましたが、旅立ちの日が近づき意識がもうろうとしている中で「僕のことが分かるか?」と問いかけたところ、「もちろん、最愛の第3王子だ」と言われて、こだわりが氷解しましたのを思い出します。
今回の記事はいろいろなことを思い出させていただきました。ありがとうございました。

匿名様
読んでいただき、コメントまで、ありがとうございます。

医療をどこまで求めるか、受け入れるか。個人個人の価値観、あるいは社会の雰囲気、そういうものが併さって、なかなか簡単に“正解”にたどり着けないですよね。
生き残るための医療を、「若い人ならすすめる、お年寄りはすすめない」というような価値観もちらちらと耳にします。でも、年齢に関係なくでいいんじゃない?と思ったりも私はします。

障害を得て、経済効率でものごとを考えることには、障害以前よりもずっと抵抗を持つようになりました。
誰もが年をとることで人の世話になる。障害を持つというのは、それがちょっと早くなるという感じ。
だから人の世話になることは、すべての人の課題だと思っております。

また、なにか思われることありましたら、ぜひ気楽にコメントくださいませ。

ではでは、また。

村山哲也

コメント、いただけたらとても嬉しいです