「小さな美術スクール」の若手アーティストが描いた絵
カンボジア、アンコール遺跡群の巡る旅の起点となるのがシュムリアップという名の町。ホテルの建設ラッシュが続き、中心街にはおしゃれなお店やレストランも多く、国際便も多く発着する空港を備えているシュムリアップは、もはや町というよりは都市と呼ぶほうがふさわしいかもしれない。
(この新型コロナ禍で、シュムリアップの観光業は大きな打撃を受けている。閉鎖されたホテルもあると聞く。仕事を失い収入をなくした人がかなりいるはずで、その影響がとても心配です。)
2014年に怪我をした後、ぼくはまだ一度もシュムリアップまで足を伸ばしたことはないのだけれど、もし次回、訪問する機会があれば、ぜひよってみたい場所がひとつある。それは「小さな美術スクール」Small Art School。笠原知子さんという方が2008年に開いた、カンボジアの子どもたちに無料で絵画を描く楽しさを教える場所だ。
いつ行けるかなぁ。
笠原知子さんの活動を知ったのは、友人YRさんがカンボジアの学校校舎建設支援に関わって、なんと彼女の名前のついた学校を作ってしまった後のこと。その後、彼女の依頼を受けた笠原さんがその学校を訪問し、生徒たちに美術教室を開いたと聞いたんだ。
カンボジアの小中高学校のカリキュラムには、美術や音楽という科目はなかった。どういうわけか、社会科のなかにちらっとカンボジアの音楽や踊りを扱う箇所があったけれど、子どもたちの感性を育むような情操教育については、現在でもまだまだ発展途上なんだ。
ぼくの妻はポルポト時代終了後の教育を受けた世代だけれど、楽譜を読んだことはなくて、ぼくの怪我の都合で日本に滞在していたときに、近所のピアノスクールに行って、初めて音楽を学んだ。拙いけれど、とてもうれしそうにピアノに向かう彼女を見ていると、カンボジアの子どもたち全員が楽しく音楽や美術を学べる日が早くくればいいなぁと思わずにはいられない。
だから、笠原さんの活動を知ったとき、とてもうれしく思ったことを覚えている。
そして、2017年に笠原さんが「小さな美術スクール」で育った若いアーティスト6名と日本での展示会を開いた際に、その支援会に妻と一緒に出かけたんだ(この支援会を準備してれたのも、また別の友人のNYさん!)。そのときに購入したのが、今日のブログでトップに飾った写真の絵です。
この絵を描いたのはチーブヒーアさん。彼の描く絵は、どれもほんわかとした暖かい独特の雰囲気を醸し出す。ぼくたちがこの絵を購入したとき、この額の裏に、ヒーアさんはメッセージつきでサインもしてくれた。またいつかお会いできるといいなぁ。
そして、今、この絵は、ぼくの東京の棲家のおトイレの壁にかけてある。毎日使う場所で、この明るい絵がぼくの生の営みを見守ってくれている

おかげで、車イスを直接トイレの横につけて、移乗することができるようになりました。
障害を得てからの、尿排便
2014年の事故で下半身全麻痺となったぼくにとって、尿排便はかなりやっかいな問題だ。病院から退院して実社会に復帰する際に、乗り越えなければいけなかった大問題がこの排出という、生きている以上は避けて通れない行為だった。
先日上梓した拙著『超えてみようよ!境界線』の中で、この尿排便について、ぼくは次のように書いた。
この機会に、ぼくの排尿排便の詳細を書いてみる。
ぼくは今、だいたい三~四時間毎に自分で膀胱に管(カテーテル)を挿入して尿瓶に排尿する自己導尿という方法で、オシッコをしている。陰茎を取り出し尿道にカテーテルを通すのは、傍で見れば痛々しい感じがするだろう。感覚が残っている人に話を聞くと、尿道に異物感があってとても不快だそうだ。でも感覚をきれいに失っているぼくは、不快な異物感は幸いまったくない。
自己導尿によって、尿袋をぶら下げて生活する煩わしさからは開放された。けれど、夜間も含め数時間おきの排尿作業は面倒だ。カテーテルから流れ出る尿は尿瓶に溜めて、トイレで尿を捨てる。また頻繁なカテーテルの出し入れには感染症のリスクがつきまとう。自己導尿を選択して、尿路感染による発熱を経験していない人はきっといないだろう。尿管理で一番怖いのは、尿路から入り込んだ細菌に腎臓が感染して、敗血症を起こすことだ。それで亡くなる脊髄損傷者は少なくない。
排尿以上に煩わしいのが排便だ。ぼくの排便は規則正しく二日に一回。車イスから洋式便器――和式便器は使えない――に移り、ズボンを下ろし、座薬をひとつ肛門に入れる。この座薬は下剤ではなく、溶けると二酸化炭素を発生し直腸を膨らませて刺激するという代物だ。座薬挿入後しばらく待機する。使い捨てのビニール手袋を右手に装着し、すべりを良くするために指にワセリンを少量とる。右脇腹越しから背中に回した右腕をのばして肛門に届かせると、人差し指と中指を二本一緒に直腸に入れていく。肛門側に指が入っていく感覚はない。指先の感覚が頼りだ。すでに直腸に便が溜まっていることもある。指でそれらを掻き出す。そしてさらに座薬をひとつ挿入する。
しばらくしたら、先程よりもさらに指を深く入れ、直腸とS状結腸との連結部を刺激することで、結腸に溜まっている(はず)の便が腸自身の蠕動運動によって排出されるのを促す。それだけでなく、結腸の便が押し出されるように、下腹部を左右の手のひらでぐいぐいと押す。これを数回繰り返し、二日分の便を出し切ることを目指す。
盲腸・結腸・直腸の総称である大腸の役割は水分吸収と理科の授業で習ったけれど、まったくその通りで、大腸での滞在期間の長かった最初に出てくる便は比較的硬くコロコロしている。しかし、新しい便――排便作業の後半に出てくる――は、まだ大腸での水分吸収が進んでいないので、柔らかい。最初は固くてしっかり掻き出さないと出てこなかった便が、最後の方は柔らかくなって、直腸を指で開いているだけでスルスルと押し出されてくる。排便作業を継続するか終了するかは、便の柔らかさや全体の排出量を指先の感覚で知ることで決める。慣れてくると、右手の二本の指が排出後のすっきり感を脳にもたらすような気さえする。
この作業終了のタイミング――看護師たちは〝閉まる〟〝閉じる〟と呼んでいた――を誤ることもある。まだ結腸内に便が残っているのに作業を止めてしまえば、しばらくしてから柔らかい便が肛門から漏れ出てくる。車イスやベッドに戻ってからも排便が続いてしまうことになり、その始末はつくづく悲しい。一方でもう便は残っていないのにさらに追加の座薬を入れて、幻の便を求めて指での刺激を続けることもある。そんなときは、もう指のすぐ先まで便が来ている気がして、なかなか便器を離れる決断ができない。
病院でのリハビリテーションでこの作業を最初に経験したとき、ぼくはトイレに三時間以上もこもることになった。座る位置、重心の傾け方や入れる指の角度、直腸内の指の感覚、便の量、すべてやりながら覚えるしかなかった。一年間に一八〇回強、十年で一八〇〇回もこの作業を繰り返すのかと考えると、心が折れそうだった。それでも、排出なしの生の営みはありえない。最初の経験から五年以上経つ今でも、一度の排出は早くても三〇分はかかる。気持ちはだいぶ楽になっているけれど、それでも年に数回は車イスやベッドにもどった後にすぐ便が出てしまうことがあり、そんなときは心底げんなりだ。
(『超えてみようよ!境界線』の99~101ページ、より)
この肛門に指を挿入して便を掻き出すことを摘便と呼ぶ。上の文章を書いたときよりも、今は使う座薬の数は少なくなっているけれど、摘便の作業がなかなかしんどいことには、変わりはない。
日々の予定を入れるときにも、その日が「ウンコの日」かどうかは必ず気になる。2日に一度回ってくる「ウンコの日」にはあまり予定を入れずに、安定した体調でことに及びたい。さらには、飛行機に乗るのは必ず「ウンコじゃない日」にする。今月は奇数日、来月は偶数日、というように、いつが「ウンコの日」なのかを確認した上でスケジュールを決めるのが、ぼくのお決まりになっている。
多目的トイレか、みんなのトイレか
障害者のあいだでは、公共の場にある「多目的トイレ」をどう呼ぶかが問題になっている。一部であのトイレを「みんなのトイレ」「誰でもトイレ」と呼んでいるのだけれど、それを問題視する声があるのです。なぜなら、通常の男子トイレ、女子トイレを使えるように見える人が多目的トイレを使うことで、多目的トイレしか使うことができない人が「待たされる」ようなことが、わりと多く起こっているから。「みんな」や「誰でも」ではなく、そこしか使えない人たちのためにある「特別な」トイレであることを指す呼び名にするほうがいい、ということ。
ぼくも、たしかに何度も待たされたことがある。そんなとき、多目的トイレから出てきた人が、そこを使う必要が必ずしもないように思えると、残念に思うことがある。急いでいるこっちの余裕の無さも悪いのだけれど。
ただ、使用者の外見だけでは、多目的トイレを使う必要性の有無は簡単にはわからない。健常者の人だって、体調が悪くて通常のトイレではなくて広々したトイレをちょっとゆっくり使いたいってことはあるだろう。さらには、外見だけではわからない障害を抱える人も多い。
障害者対応のために駅に設置されたエレベーターが、障害者だけではなく、高齢者やベビーカーを使う人、さらには大きな荷物を持つ人にとっても、とても便利な存在だったというのは、ユニバーサルデザイン(誰でも使いやすい機能)の必要性を考える際に、よく言われることだ。
Jr新宿駅の新しい(といっても、もう何年か経ったけれど)改札口である「甲州街道改札」「新南改札」「ミラタワー改札」につながる連絡路には、多目的トイレが並んでふたつ設置してある。あれはとてもいいですねぇ。とてもありがたい、です。
ぼくの排便は時間がかかるので、これまで駅などのトイレを使ったことはない。けれど、緊急事態などで、今後、お世話になることはあるかもしれない。そんなとき、多目的トイレが同じ場所にふたつ並んでいるというのは、きっととっても心強いことだ。ぜひ、あのスタイルがもっと多くの場所で導入されて欲しいなぁ。関係者の皆様、ぜひぜひよろしくご検討お願いいたします!


















村山さんほどではないけれど、うちにも、トイレで用を足すことが一大イベントとなっている家族がいます。外見だけではわからないタイプです。外出時はトイレを見つけること、綺麗なトイレ、広いトイレ、安心して落ち着いて用を足すことができるトイレを見つけることが優先課題になります。その家人は、東京都内、どこのトイレが綺麗で優しいトイレか、かなり正確に評価しております。そういうトイレがある時には私にも積極的に勧めてくれます。
匿名 様
メッセージありがとうございます。とっても嬉しく読みました。
そうですか、ご家族の方、外から見ただけではご苦労がすぐにはわかないということで、外で多目的トイレを使うときに、ちょっと気まずい思いをされたりすることもあるのではないかと想像します。
きれいなトイレ、広いトイレ、安心して落ち着けるトイレが、数多くなれば、そんな気まずさはなくなるはず。
ぜひ、どんどん広いトイレが増えて欲しいですよね!!
村山哲也